夢の旅9(夢41~夢45)

夢の旅9(夢41~夢45)

<夢41>「インタビューする夢」(9月28日)
<夢42>「新人の面倒を見る夢」(10月1日)
<夢43>「山の施設にてテロと争う夢」(10月7日)
<夢44>「両親をフォローする夢」(10月8日)
<夢45>「両親が離婚する夢」(10月13日)






<夢41>「インタビューする夢」(9月28日)
 私はある人に家についてインタビューすることになった。その人は有名人で、彼の生家についてインタビューする。
 その後、私たちは解散して、私は家路に就く。私は道路を横切って、向こう側の歩道に上がる。一緒にいた人が、補導されている。彼は車道の真ん中を歩いていたためだ。私は彼を尻目にして、通り過ぎる。

(連想と感想)
 前回の<夢40>が猛烈な勢いで内装していく夢だった。その建物がどうなっていくか期待していたのだが、夢では建物そのものを示してはくれなかった。しかし、ある有名人の生家という形で、私に示されているように思った。私はその人にインタビューしている。その家を私が直接見ることが困難なので、他の人に語ってもらい、私がそれを自分の中に仕舞っている(聴いている)という感じを受ける。
 インタビューの内容は、残念ながら、覚えていない。彼がどういうことを語ったのか知ることができればと思う。ただインタビューしている場面だけを覚えているのである。内容を覚えることができなかったのは、それが私にとっても明確な姿を有していないからだと思う。
 家については繰り返し夢で現れた。家は一つの世界、それも個人的な世界でもあり、生が営まれる場所でもある。家族や家庭と深く結びついているものである。この夢では、この有名人の生家ということなので、現在の家ではなく、過去に過ごした家(世界)であることが窺われる。私はそれを明確に記憶することができないでいる。
 次の場面はいささか不思議である。インタビューを終えた私は家路に着く。一緒に同行していた人があったようだ。その人が警察に補導されている。それは彼が車道の真ん中を歩いていたためであり、私は彼を尻目にして通り過ぎる。ここで私の何か、私の一部を見捨ててしまっているのである。
 私が見捨て、見放してしまっているものは何であろうか。彼は私のインタビューに同行していたようである。一緒にいた人物である。この人物が歩道ではなく、車道の真ん中を歩くということをしたのである。これは規則違反であり、反社会的な行為である。悪の部分と言えるかもしれない。彼は警察に補導され、罰せられている。
 しかも、その直前に私は道路を横切って、向こう側に渡っている。横断歩道や信号があったかどうか定かではないが、こちら側から向こう側へという移動が私に生じている。この移動に伴って、もう一人の同行者が補導されているのである。つまり、向こう側の地域(世界)へ私が渡る時に、私はこの同行者を見捨てているということであり、この同行者は交通ルールを破るような「悪」を具現しているという構図である。
 では、この道路のこちら側と向こう側というのはそれぞれどういう世界であろうか。こちら側は、私が有名人(これは私の虚栄心の人格化かもしれない)に生家についてインタビューした世界(過去の家)である。向こう側というのは、夢では明確に描かれているわけではないのだけど、家路に着いていたということから、私の(現在の)家がある世界なのだろうと思われる。家に帰る前に、私は私の「悪」を切り捨てなければならないということであるのかもしれない。つまり私の「悪」を家に持ち帰ってはいけないということではないだろうか。
 このことに関して、私はよく頷けるのである。子供時代に私はこういうことをしていたのである。外でどんな悪さをしても、それを家に持ち帰ってはいけなかった。そういうことは私の秘密にしておかなければならなかった。子供時代はそういう二重生活をしていたように思う。もちろん、今現在においては、そういうことをしていないつもりである。少なくとも、子供時代にしていたようなことはしていないのである。インタビューの内容を覚えていないということは、ここで切り離してしまった事柄と関連があるのかもしれない。
 ここまでのことをまとめると次のようになるのかもしれない。私は自分の生家について目を向けることができない。その代わりに有名人にインタビューするという形でもって、生家を語らせている。ここで生家について語っている有名人は私の虚栄心なのかもしれない。私は自分の生家について見ることができないが、この虚栄心が語るところのものなら聞くことができるということである。しかし、それは私の体験した現実とは異なるものかもしれない。そして家路に着くのであるが、ここで私は私に同行していた分身のような存在である人間を切り捨てている。この人物はルール違反をする「悪」である。私は家のある方の世界に渡ることができるが、彼はそちら側に入ることを許されない。警察が補導していくのである。これもまた私の虚栄心なのかもしれない。そのため、私が家に持ち帰ることが許されているのは、私のごく一部であり、「悪」は隠ぺいされ、「虚栄心」によって粉飾されるのである。
 従って、私はこの夢を次のように解釈する。私が自分の家(過去や子供時代)へ目を向けるためには、この分身を切り離してはいけないのだということである。そして、「虚栄心」が語る事柄は、まったく私の記憶に残らないということであり、記憶に残らないということは、それが語るところのものは私にとって真実ではないかもしれないということである。

(寺戸順司)







<夢42>「新人の面倒を見る夢」(10月1日)
 私はアルバイトの現場にいる。作業場にて、数人の同僚と一緒に仕事をしている。私が作業している横で、新人が働いている。彼が「次に何をしたらいいですか」と尋ねるので、私は彼を、まだ作業の終わっていない箇所へと案内する。そして私もまたこの新人に付き添って作業をする。同僚が声を掛けてきた。同僚は私に毎日でも現場に来てほしいと頼んだ。私は嬉しかったけれど、それもできないのだという話をする。

<連想と感想>
 昨夜は足の痛みがあって、来週のアルバイトに参加できるかどうかを、寝る前に心配していた。それが影響したのか、アルバイトの現場を夢に見ている。
 一斉に作業をするのは、以前の建物内部の改装の夢<夢40>と通じる。前回は傍観者であったが、今回はそれに関わっている。プロセスが進行しているのを感じる。
 この現場に新人がいる。彼は私に尋ねてくる。知らず知らずのうちに、私は彼の面倒を見ている。新人とは、新たに加わった要素であると私は見做している。何か新しい要素がこのテーマにもたらされているのだと思う。そして、私はその新しい要素(新人)を世話し、育てる役を担っている。
 同僚が毎日来てほしいを頼む。私がそうしたいけれど、それもできないのだと言う。この新しい要素を毎日世話し、関わり、育てなければならないことなのだと思ったが、現実的にそれが難しいということのようである。
 前回(夢41)で切り捨てたものが、「悪」を具現するような存在であった。この人物は社会のルールを守っていないということで、どこか幼児的でさえある。このイメージが今回では新人という形で現れているのかもしれない。そうだと仮定するなら、この人物との関わりがここでは生じているということになる。私はこの人物(この人物によって象徴されている私のある部分)に関わり、彼を育てていかなければならない、それも毎日それをしなければならないのだということになりそうである。ただ、私は、少しはそれができ始めているにしても、毎日はとても無理だということを言っているように思う。

(寺戸順司)







<夢43>「山の施設にてテロと争う夢」(10月7日)
 山の中腹にある広い施設のような場所。私はそこで作業をしに行っていた。私たちが仕事をしていると、そこに暴力団かテロリストだかの一団がやって来て、暴れはじめる。そのリーダー格の男が私に目を付けてきた。私は逃げるのだけど、彼は私を捕まえて、私の弱点である踵を拳で殴りつけてくる。踵に重たい一撃をくらった感じがあった。私はもう死ぬなと思った。そこに父が来て、一緒に死のうとする。私は嬉しいような感じがした。
 しかし、私は死んでいなかった。そればかりか、味方の作業員をさらに増やして、応戦しようとしていた。人数が増えると、私は心強いような思いがした。私は直接、戦闘場面を見たわけではないけれど、連中が退散したのを知っている。そして、敵がいなくなった施設内を点検して回る。施設内はとても静かだった。人が誰もいないので淋しい感じはしていたが、穏やかな雰囲気があった。一緒に歩いていた作業員は、「危なくなったら、ここを伝って降りたらいいよ」と教えてくれた。それは雨どいのようなものが一本通っていて、私がそれに跨ると、そのまま山のふもとまで滑り下りることができた。滑り降りる時、とても爽快だった。

(連想と感想)
 闘争が行われ、それが鎮圧される夢である。一つの展開を見る思いがした。順を追って見ていこう。
 まず、場所は山の中腹にある施設のような場所である。山とは変容が生じる場所であり、知恵が授けられる場所であると私は捉えている。海が生命を生み出す場所であるとするなら、山は生まれた生命が育ち、変容する場所だと思う。例えば、モーセが十戒を授かるのはシナイ山である。日本では山は神と結びついており、信仰の対象ともなっている。修業するとか、鍛練するとかいう時に、「山に籠る」というイメージを私たちは容易に思い浮かべることができる。山はそういう知恵を授かったり、自身を成長、変容させる場所であるというイメージを私は受けるのである。
 施設というのは、何らかの形で利用者を援助する場所である。どのような施設であれ、人の援助を行っているものである。学校や病院といった施設は、その中において、利用者の成長や変容が見られる場でもある。
 山と施設というのは、私のイメージでは、そのように成長や変容ということと結びついている。そこが襲われるのである。危機に瀕するのである。
 私たちはその施設に作業をしに行っている。それは施設をより良くするということであり、<夢40>の内装をしている作業員たちとイメージが重なる。この作業をテロが妨害するのである。この施設内で争いが生じているのである。従って、この危機というのは、内面の作業が遂行されるか中断されてしまうかという意味合いを含んでいるのであり、その意味合いはさらに、変容や成長がもたらされる場を守り通せるか失ってしまうかという危機でもあるというように考えられる。
 リーダー格の男が私を倒す。その男がリーダーであるということを何となく知っていたように思う。その点ははっきりしないが、いずれにしても、そのリーダー格の男がテロの一団の中で一番強い存在だったのである。この強敵に私は倒されてしまう。
 彼が私の足を掴み、踵に一撃を食らわす。踵は最近また痛み始めた、私の持病のある箇所である。この強敵は私の弱点を直撃してくる存在である。私はそれにより死を意識してしまう。夢では父が一緒に死んでくれることになって、私は嬉しいと感じている。
 ここで父が私と同化していくような感じを覚えた。父親とは、やはり一つのリーダー像である。この父が、私を見捨てることなく、私と一緒に死んでくれるのである。運命を共にしてくれているのである。父親との同一化を達成したような気分である。
 ここからは夢の後半部分である。私は生きている。死から再生したのかもしれない。この再生には父の死、父の犠牲、もしくは父との同化という経過を経ている。それがあってか、私の軍勢は人員を増し、より強力になっている。戦闘は続いたのだろう。直接私が参戦しているわけではないけれども、私たちの勢力はテロを鎮圧し、彼らを追放している。つまり勝ったということである。
 夢の前半と後半において、私の位置づけが変わっているように感じられる。前半は、私はいわば一戦闘員のような立場であり、敵のリーダーに倒されている。後半は、私が直接戦うのではなく、味方の軍勢が戦っている。つまり、私の軍勢の指導者、大将のような立場に私がいるのである。私の再生、並びに、父との同化が、私の位置づけを変えたように思う。
 私は戦闘後の施設を点検して回る。人はいなかったが、穏やかで平和な雰囲気で満ちていた。一緒に点検に回っていた作業員が、危なくなったらここから逃げたらいいと脱出路を示してくれている。このことからも、私は彼らの中にあって、救出されるべき存在になっているということが窺われる。それだけ重要な位置づけがされているように感じられた。
 その脱出路は雨どいのようなもので、それに跨ると一気に山裾まで滑り降りるのである。私はそれに乗ってみる。山を下って行く。とても爽快である。そして、私は山から下りるのである。
 山から出るということは、一つのプロセスが完了したということを思わせる。それはちょうどツァラトストラが山から下りるようなイメージである。この爽快感というのは、一つの段階を超えたことに由来するものではないかと私は思う。
 
(寺戸順司)







<夢44>「両親をフォローする夢」(10月8日)
 母と父と私の三人でどこか外出することになっていた。母が持ち物(バッグ)のことで、「これでいいかしら」と言う。父がその持ち物をどうするのかと尋ねると、母は「兄のところへ持っていく」と答える。父は怒って、そんなことする必要はないと言う。私は若干フォローして「そんなに気を遣わなくていいんじゃない」と、母に伝えた。
 私はまた一人の女性から服装のことで相談を受けた。彼女はその場にいたのか、途中で出会ったのかはっきりしない。私は「外観よりも本質的な部分がちゃんとしていれば大丈夫」という内容のことを伝えた。

(連想と感想)
 前回の戦闘の夢にどんな夢が続くだろうかと期待して見たのが、上記の夢である。夢は二つの部分に分かれる。
 前半部分からは、家族関係の変容が感じられた。母が荷物を兄の所に持っていくと言ったことに対して、父が怒るということが生じている。その場面において、私が「そんなに気を遣わなくてもいいんじゃない」と母に伝えている。これは母に伝えていると同時に、父の言葉を代弁しているようなものである。両親の間に生じた感情の緊張を私が緩和するような役割を取っている。兄は直接登場していないが、兄も含めて、家族の関係を変えていこうという動きが私の言動から感じ取られた。
 もう少し私自身を振り返って見ると、私は家族において、緊張を高めるような存在だったが、ある意味では、そうすることによって別種の緊張を緩和する役割を担っていたように体験している。私の役割そのものは変わっていないのかもしれないが、その手段に変容が生じていると考えることもできるようだ。
 後半は未知の女性から彼女の服装のことで相談を受ける場面である。私は「本質的な部分がきちんとしていれば大丈夫」ということを彼女に伝えている。服装とはその人の外側を飾るものであり、内側に覆いをかけるものである。内側の方を大切にしようということを私が伝えているということである。
 この後半部分に関しての連想は、真っ先に思い浮かんだのは、私の女性友達のことである。現実の彼女は私から見ると、外側のことに拘り過ぎなのである。もっと内面に目を向けたらいいのにと思うことも多々ある。その関係を夢でも見ているような感じがした。
 いずれにしても、何かが内的に変わってきているという感じを私は体験している。この感じを表現することがとても難しいのである。夢の後半部分において、私は未知の女性に対して、外側よりも内面をと伝えている。この場面が今の私にとてもよく通じる感じである。何か焦点が移行してきた感じがするのである。

(寺戸順司)







<夢45>「両親が離婚する夢」(10月13日)
 どこか山小屋のような場所だった。数人の女性たちがいた。私はその中の一人と仲良くなって、彼女と一緒に私の家に行く。両親にも彼女のことを知ってもらおうと思ったようだ。
 家に帰ると、両親はちょうど今離婚したところだと聞かされた。父も母も二人とも別々になってしまった。二人に会わなければと思い、私はまず母の行方を追う。

(連想と感想)
 母は私が結婚してくれることを望んでいるようだ。これまでに何回かそういう意味合いのことを感じたことがあるが、最近もある会話からそれを感じた。私自身は、私が結婚したら両親は一気に老けるだろうと思っていた。今でもそう思っている。
 両親は私のような子供を望んだだろうか。昔からそう思うことがあったし、今でも思う。私には会社勤めをしてくれて、家庭を持ち、孫を見たかったのだろうと思う。それが現実には40にもなろうというのに、独身で、一人で仕事をし、結婚や家庭のことなどそっちのけにして、心理学や哲学や文学に耽りまくっている。こんな子供は欲しくなかったとか、こんな風に育てた覚えはないのにとか、思っているのじゃないかと私は思う。
 夢では、あたかも結婚相手を親に紹介するような勢いである。しかし、相手が見つかった途端、両親が離婚してしまっている。私が結婚すると、家族という土台が崩壊してしまうのじゃないかという、私の神経症的な不安が色濃く感じられる。私にとって結婚ということは、家族に危機をもたらすものだという感じがしている。
 先週、女性友達とは決別したところだ。この人とならとまで考えていたのだけれど、結局は別れた。別れた理由や原因は双方にあるのだけれど、一番大きかったのは、結婚に対しての抵抗感である。これは彼女の方にあったと思っていたのだけれど、もしかすると、実は、私の方が結婚に抵抗していたのかもしれない。
 夢の中で、母の方を先に追いかけるというのが印象的だった。現実に、父よりも、母に対して申し訳ない気持ちが強いのである。そして、夢から分かることは、私が女性を手に入れると、母親が姿を消すという構図である。夢では母親も取り戻そうとしている。しかし、女性と母親の双方の折り合いを付けようとしている感じがしないでもなかった。
 その一方で、夢の中の両親は、私の結婚相手や結婚ということに対して無関心であり、自分たちのことにかまけているというような印象も受ける。けっこう、この辺りは現実的な感じがしないでもない。
 もう少し、この夢で体験した感情が明確であれば良かったのにと思う。女性と一緒に帰る時はけっこう嬉しいような感じがしていたように記憶している。両親の離婚を知って、母を追う時には、焦るような感じだったように思う。この辺りが不明瞭である。
 考えようによっては、私の内面の家族関係が変わってきたことを意味する夢である。私はこの未知の女性を連れているのである。それと同時に両親が別れるということが起きているのだが、親を追い求めているという感じではなく、あくまでもこの女性を紹介するということに重点があった。つまり、両親ではなく、この女性の方が私との距離が近いのである。この辺りに、以前から抱えている親子関係の不安の形が変わってきたのを感じる。

(寺戸順司)