夢の旅8(夢36~夢40)

夢の旅8(夢36~夢40)

<夢36>「女性の部屋を掃除する夢」(9月9日)
<夢37>「亡くなった子供の一生を辿りなおす夢」(9月13日)
<夢38>「父と旅行する夢」(9月15日)
<夢39>「母が豹変する夢」(9月19日)
<夢40>「建物内装の夢」(9月20日)






<夢36>「女性の部屋を掃除する夢」(9月9日)
 どういういきさつだったのか、私は一人の女性の部屋を掃除することになった。その女性は未知の人だが、私の知人のようだった。廊下があって、左右にドアが並んでいる。マンションのような感じだった。廊下は明るかったけど、人通りは少なかった。彼女の部屋は角を曲がったところにあった。正面は階段になっている。彼女の部屋のカギを開ける。私は誰にも見られたくなかった。中に入ると、物凄く乱雑な部屋だった。何となく意外な感じがした。彼女にもこういうずぼらな一面があるのかと思った。私はまず布団をたたみ始めた。音をたててはいけないと思った。隣の部屋に人の気配がした。誰にも知られないように掃除をしなければいけなかった。

(連想と感想)
 前回までの間に、いくつか夢を見ていたのだけど、記録する暇がなかったり、うっかり忘れてしまったりしてしまった。
 夢は実際に見た中の後半の一部分である。それまでのいきさつを夢で見たように思うのだけど、思い出せない。
 ずぼらな一面というのは、私自身にもある。部屋を片付けたり、掃除をしたりするのが私は苦手である。ゴミ屋敷とまではいかないけれども、けっこう、物をポンポンと積んで、それが横倒しに倒れて、また積み上げておくといったことはしょっちゅうのことである。
 夢では乱雑なのは女性の部屋である。夢の中で、私は人に知られないようにと気を付けているけれども、それは彼女がずぼらだということが周囲にばれてはいけないというような思いからだった。これはそのまま私にも該当するかもしれない。私自身ずぼらな人間だと思っているけれど、あまりそれは外に見せたくないと感じているからである。
 それでも私は夢の中で掃除に取り掛かっている。乱雑なものを整理し始めているという感じである。何かの作業が私の内で始まっているのかもしれない。しかし、この作業は、外の人に知られてはいけないという秘密性を帯びている。秘密にしなければならない必然性のようなものがあるのかもしれないし、他人に入り込ませてはいけない作業であるという意味合いなのかもしれない。どちらかと言うと、後者の方が感覚的に合致している。内的に整理していく作業を、誰にも踏み込ませずに、私が独りでしていかなければならないということなのではないかと思う。
 その部屋は女性の部屋である。この女性は登場していないが、ある女性の部屋だということを知っている。未知の女性である。以前の夢(夢33)では、未知の女性に振り回されたが、この夢も一部そのような雰囲気を感じた。しかし、しんどさや不快さの点で、(夢33)よりはるかに穏やかな感じである。この穏やかな感じというのは、私がその頃よりも衝動的でなくなっているからだと思われる。つまり、現実においても、比較的穏やかな日々を過ごせるようになっているからだと思う。
 しかし、この部屋は他人の部屋であり、未知の女性の部屋である。私自身の部屋ではない。このことは、私が自分の内面を直接的に整理していくことに困難を感じているということかもしれない。他者の内面を整理していくことを通して、私自身を整理していこうとしてしまっているのかもしれない。

(寺戸順司)







<夢37>「亡くなった子供の一生を辿りなおす夢」(9月13日)
 私はある子供について調べることになった。私の手元にあるのは、その子の写真と若干の経歴だった。それ以外の事柄に関して、私はいろんな資料を探さなければならなかった。役所のような所で、資料を閲覧している。私はその亡くなった子供の一生を、もう一度辿りなおさなければならないと感じていた。

(連想と感想)
 この子供がどんな子供であったのかは分からない。男の子だったのか女の子だったのかも不明である。
 とにかく亡くなった子供がいる。その子の人生を調べ直すことになる。それはその子の人生を辿りなおすということ、再構築してみることへとつながっている。その子のしてきたことをもう一度見るということである。
 そのように解釈すると、私の中で亡くなった子供がおり、その子の痕跡を辿りなおす必要があるということであり、この子供を無視して葬り去ってはいけないということになるのではないかと思う。
 ブログの方で「高槻カウンセリングセンター誕生秘話」シリーズを書き始めたのも、この夢の影響である。何かをもう一度辿りなおさなければならないのだという感じがしているのである。
 子供と言えば、(夢35)で私に忠告してくれた男の子を思い出す。死んだのはこの子だったのかもしれない。しかし、今回の夢では、それほど悲劇的な感じもなければ、悲壮な雰囲気も漂っていなかった。事件を調査しているような感じではなく、むしろ安らかに亡くなった子供のことを忘れてしまわないように、その一生を大切に記録として残しておこうというような雰囲気であった。内容とは裏腹に、かなり穏やかな感情であふれていたのを覚えている。
 前回の内面の整理ということと共通するテーマを感じる。

(寺戸順司)







<夢38>「父と旅行する夢」(9月15日)
 なぜか父と旅行している。自動車での旅行だ。それは平和な旅行だったのだけれど、私たちがある建物に寄った時、二人の外国人と合流した。その建物は宿泊所だったか、休憩所だったかは明らかではないが、普通の民家のような造りだった。この外国人たちは、私たちと一緒に行こうと目論んでいたようだったが、私は彼らを危険人物だと感じていた。そのため、私は彼らを先に出発させなければならなかった。口実を作って、私は出発を遅らせて、彼らに先に出てもらおうとするが、彼らも私に合わせるように出発を遅らせるので、私は気が気でなかった。

(連想と感想)
前回の子供の死に引き続いて、父親との関係が夢に現れた。亡くなった子供と、私と父との関係との関連性に思いが至る。
 外国人とは、外部の人という意味合いを感じる。彼らは危険人物として登場している。つまり、私と父との関係において、私は外部の脅威から守らなければならないということになっている。何を守るかということであるが、それは私が体験しているタブーである。私が父に対して感じていた憎しみは、表に出してはいけないと私は感じてきた。そういう禁止が私にはあったのである。夢の中の外国人は、あたかもこのタブーを破らせるような存在として登場しているようだ。
 困ったことに、この夢に関して、連想が働かない。タブーと関連しているからかもしれない。一方で、私の内面で動いているものもあり、そちらが今は騒がしい感じがしている。

(寺戸順司)







<夢39>「母が豹変する夢」(9月19日)
 私の仕事場に母が尋ねてきた。私はもうじき仕事が終わるから駅で待っていてくれと頼んだ。駅へ行くと、母が待っていた。買い物に行くとか言って、母は駅構内を駆け回る。母の姿が豹変したように見えた。母は物凄いスピードで駆け回る。私はどうしても母に追いつくこともできないし、抑えることもできなかった。

(連想と感想)
 今度は母が出てきた。母が暴走して、私がそれを抑えるというようなパターンは過去にも表れたものである。今回は、私は母の暴走を抑えることができないでいる。
 前回の夢では、父との関係であった。その関係においては外部のもの(外国人)が危険な存在として認識されていた。この夢では、母親との関係においては、母親自身が危険なのである。これが私と父の、私と母の関係の違いを示すものだと思う。
 母親が危険だというのは、危険人物という意味ではなく、ケアを必要とするのはおそらく母の方が先だろうと認識しているので、その意味で危険だということである。私は母をコントロールできるだろうかということは、考えようによっては、母の面倒を見ることができるだろうかということでもある。母が手に負えなくなるのではないかという心配を表現しているのかもしれない。
 その一方、暴走する母を抑制するだけの内的な力が、今は枯渇しているのかもしれない。どちらかというと、その感じの方が強いのである。内面の作業の方にエネルギーが費やされているという感じを、現実の生活において、体験している。

(寺戸順司)







<夢40>「建物の内装の夢」(9月20日)
 私は通りを歩いている。長岡京市にいることが分かっているし、その通りは以前にも歩いたことがあるのでよく知っていた。
 ある大きな建物の前で私は足を止めた。その建物は、役所のようでもあり、レジャービルのようでもあり、オフィスビルのようでもあった。以前は何だったのだろうと思った。外観は寂れて、年季が入っているようだったが、建物の形は呈していた。中では大勢の作業員が内装作業に携わっていた。
 建物の入り口が広かったのか、開けっ放しになっていたのか覚えていないが、通りから内側がよく見えたのだ。内装だったり改築だったりしていたと思う。ただ、そこは異様に明るく、作業員がすし詰め状態であり、尚且つ、一人一人の作業員が猛烈なスピードで作業をしていた。それはとても忙しそうだったが、建物の中はとても明るく、眩しいくらいだった。

(連想と感想)
 この夢を見た時、私は嬉しくなった。と言うのは、内的な作業がすごく捗っているという印象を受けたからである。建物の内部でそれだけの人員が猛作業をしているということは、たいへんなエネルギーを感じる。一方、外観の方は寂れたままであるが。これは、今の私が、外側の事柄よりも、内的な事柄に集中してしまっていることを意味するものだと思う。そのために、今の現実の私は、外側のことに自分を合わせることに困難を覚えることもある。
 例えば、最近書き始めたブログである。できるだけ毎日書こうと思っているが、それがとてもしんどいことのように体験されている。そこで書き溜めをしているのだが、外側のことはできるだけさっさと済ましておいて、あるいは用意しておいて、私は自分の内面に取り組みたいと思っているのである。
 ところが、夢が示してくれているのは、こういう内面の作業を、多すぎるくらいの作業員を動員して、取り掛かっているのだということである。私はそれに気づいていない。現実に気づいていないが故に、私は傍観者の立場で、その作業をしているということを発見しているのだと思う。
 つまり、内面の作業は、私が気づいていない所で、猛烈に捗っているのである。その分、外側のことが疎かになっているということであるが、夢から得た印象では、この内的作業を先に済ませる方がいいということだ。作業員に作業をさせておく方がいいということだろうと思う。私が傍観者だったのも、彼らに干渉せず、離れた所から見守っていればよいということのように感じた。
 最近、夢で再体験しているのは、父と私の関係、並びに、母と私の関係である。もう少し以前まで振り返れば、兄と私の関係、親族と私の関係である。そこで体験していたのは、私の無力感ではなかっただろうか。今、私の心が必要を感じて、こういう作業に取り掛かっているのだと私は仮定している。内的作業に多くのエネルギーが費やされているかもしれないが、それはこの先、速やかに終わって行くだろうと思われる。

(寺戸順司)