夢の旅5(夢21~夢25)

夢の旅5(夢21~夢25)

<夢21>「女性友達と文化祭を歩く夢」(7月23日)
<夢22>「女性友達がやつれる夢」(7月27日)
<夢23>「前科者の息子と会う夢」(7月30日)
<夢24>「合宿に参加する夢」(8月1日)
<夢25>「病院に住む女性を手助けする夢」(8月7日)






<夢21>「女性友達と文化祭を歩く夢」(7月23日)
 学校のような場所。文化祭のようなことをしている。私は見知らぬ女性と一緒にその中を歩き、案内する。
 廊下のベンチに腰かけて休んでいると、そこの教室から歌が聞こえてくる。それは私の知人の歌で、彼は今日はここで演奏しているのかと思う。彼女にも彼のことを説明したように思う。
 私たちは渡り廊下のような所を通って、向かいの校舎に入る。階段を上がる。上がりきった所、最上階にて男性が三、四人たむろしている。その中の一人の男性は、私も知っている人であったが、私が連れている女性と目が合うと、お互いに「あっ」と言って固まってしまった。彼は私に対してはバツが悪そうだった。女性は彼に何かきつい言葉を浴びせて、階段を駆け下りてしまった。私はどうして何が起きたのか分からなかった。彼と彼女とが知り合い同士だったとは知らなかった。彼は彼女とは以前結婚していたのだと説明してくれた。
 私は彼と別れて、彼女を探しに行く。途中、庭に出て、一本の木の脇を通った。ゴキブリのような虫が飛んできて、私の服の袖に止まる。私は手にしていたハタキでそれを払い落とす。見ると、木の蜜に虫が集まっているのが分かった。

(連想と感想)
 場所が学校のようだった。私の小学校や中学校ともどことなく似ていた。ただし、夢の中の私は子供ではなかった。文化祭というのは、私は割と好きであったのを覚えている。
 未知の女性が夢に現れた時、私は自分とその女性との関係に注目するようにしている。それほど悪い関係にはない。しかし、彼女のことに関しては理解し損ねている、または知らないことが多いという感じである。そして私のことは彼女に話している(歌っているのが知人であることなど)。この辺り、交流がうまく図れていない感じがしている。どこか一方通行なのかもしれない。
 私たちの関係は、夢では、彼女の以前の夫が現れたことで終わってしまっている。彼女の過去の出来事である。それに直面した時に、関係が途絶えてしまうということか。
 一本の木の脇を通った時、その木に虫が集まっている。木は身体イメージでもある。バウムテストというのがあるくらいだから、何がしかの自己像を映すものとみてよいだろう。その木(身体イメージ)に虫が集まっているということなので、私の中で何か良くない部分があるということが理解できる。ただしそれはごく小さい範囲でのことである。それを見過ごして、通り過ぎると、実際に悪い部分が現実になる(木に止まっていた虫が私に止まる)ということかもしれない。しかも、それが私自身のことになった(虫が私に止まる)としても、私は何事もなかったかのように払いのけている。ごく小さな部分であっても、私は見逃さない方がよいし、過小評価して片づけてはいけないのだと思う。
 夢では、彼女の過去に直面して、彼女との関係が途絶えて、その後でこの身体イメージが現れている。このつながりは把握しておく方が良いのかもしれない。
 女性友達との関係は、前回の夢ではかなり「自閉的」な関係を私が築いているように思う。今回は彼女の元夫なる人物が登場しているが、彼女との関わりは一方で私自身を蝕んでいる(虫が密集している木)のかもしれない。

(寺戸順司)







<夢22>「女性友達がやつれる夢」(7月27日)
 私は女性友達が働く店に行く。彼女はすっかりやつれ、髪の毛も抜けていた。私は彼女の頭を撫でてやる。
 飲み物を飲んでいる。テーブル席にいる。さっきまでカウンターに座っていて、そこに財布を置いておいたのを思い出す。そのカウンターには三人くらいの男性客がいた。私が行くと、ちょうど一人が私の財布を取り上げた。中を見ようとしたので、私は「それは僕のだ」と言って、取り上げる。男はなかなか財布を放さなかったが、最後には私は財布を取り戻す。中を調べると、覚えていた額よりも少なかった。取られたと思った。
 その後、知り合いの女性と一緒に飲んでいた。表のテラスのような場所だった。私は勘定を支払う。何とか足りたと思った。外で待っていると、店内では誰かが自殺したという話で賑わっていた。私の知っている人のようで気になったが、中に入って確認することはしなかった。


(連想と感想)
 財布にあまりお金を入れて持ち歩くのは好きではない。昨日は月末に支払をしなければというので財布にお金をそれなりに入れて持ち歩いたのだが、やはり、気持ちは落ち着かなかった。その感情が引きずられて夢に現れたように思う。
 女性友達が悲酸な姿になっていたが、現実の女性友達は私から見るとほとんど病人である。そのイメージが夢では現れてきたようだ。
 誰かが自殺したということでもちきりになっていたが、どうもそれは中学時代の知り合いだったような感じがしている。夢の中で「あいつが自殺したか」というような感じがしていたのだが、その辺りは曖昧である。自殺遂行者は人の噂になる、ゴシップの種になると私は考えているが、そういう話題には加わりたくないと日頃から願っている。その気持ちが夢でも現れているようだ。一方で、自殺の問題から、あるいは知人の死という問題から目を逸らしたいという気持ちが今は強いのかもしれない。
 女性が二人現れているが、どちらも良好な関係である。二人とも既知の女性たちである。ただ、私の女性友達の方は、やつれ果て、毛が抜けきって別人のような姿になっているので、こちらは未知の女性に近いようだ。
 前回の無視が密集している木が、今回はやつれはてた女性友達として現れたようである。何かが蝕まれているのである。彼女は病人のように見えると私は感じているが、病人のようになっているのは私自身なのかもしれない。それを彼女に投影して見てしまっているのかもしれない。

(寺戸順司)







<夢23>「前科者の息子と会う夢」(7月30日)
 場所は海。水上スキーみたいなことをするが、それは板の上に仰向けに寝た状態で水面上をボートで引っ張ってもらうというものだった。私はそれをしている。空が見える。とても晴れ渡っていて、綺麗だった。左右を見回すと、広い海で、向こうに見える湾が美しかった。どこもかしこも自然の景色にあふれていた。ボートを運転しているのは、私の息子だった。息子は前科者だったが、これなら私はもっと頻繁に会いに来てもいいなと思った。

(連想と感想)
 何とも不思議な感じの夢だった。景色はすごく綺麗で、私は数年前に島根県の海で見た光景を思い出した。
 仰向けに寝た状態で水面上を引っ張ってもらうということは、私自身の活動性が伴っていないということである。しかし、それが快適なのである。それだけの夢であればまだいいのであるが、ここに私の息子という人物が登場する。この息子はボートの運転手であり、しかも前科のある身だった。この息子に対して、私はもっと会いに来てもいいと思っている。
 現実には私には息子はいない。もしかすると父性のようなものが以前より育ってきているのかもしれない。一部のクライアントにとっては、私は父親のイメージなのだろうということは理解できる。実際、カウンセリングの場面で経験することと似ているかもしれない。クライアントが話をリードし、私はそれについていくというのが、私にとってはもっとも快適なやりとりなのである。そういうクライアントとは会うことが楽である。
 夢では息子の方が会いに来るのではなく、私の方が会いに来てもいいなと考えているので、立場の逆転が起きているようだ。
 今回の夢は何とも言えない解放感のようなものがあって、この雰囲気をどのように表現すればいいか分からない。すごく爽快感があった。<夢19>の周りはバタバタしていながら、一人で原っぱに佇む夢の感じと似ているように思った。私自身は何もしていないし、ある程度自然に身を任せている感じがある。その感じがとても心地いいのである、夢の中で、息子は前科者だったが、前科者の息子でも愛せるというような気持ちになっていた。また会いに来てもいいと思うほどであり、嫌悪感は何もなかった。
 前科者の息子とは一体何であろうか。現実には私には子供はいない。だからこの夢は私の中の息子(子供)であると捉えてよいかと思う。私の中の子供は罪を背負っている。それでもボートの運転をして働いている。人に対して素晴らしい体験を与えている。この罪を背負った子供に私はもっと愛情を注ぐべきなのかもしれないし、もっと会いに行かなければならないのかもしれない。

(寺戸順司)







<夢24>「合宿に参加する夢」(8月1日)
 合宿のようなものに参加している。宿泊先で、参加者たちと一緒になる。女性友達もいる。私の女性友達が風呂の準備をしてくれる。私は入る。そのうち、他の参加者たちも来る。はしゃぐ人たちを見て、私は「彼らは一年目の人だな」と思い、尋ねてみる。その通りだと彼らは答える。その後、同じ風呂に入っていた人に向かって、「あなたは二年目の方ですね」と声を掛ける。彼もまたその通りだと答える。なんで分かるのですかと彼らは訊いてくる。私は彼らの初々しさからそう思ったのだということを伝える。また、彼らは私に「何年目ですか」と尋ねてくる。私は「修了生だ」と答える。もう一度やり直したいから今回参加したのだということを伝える。
 場面変わって、バスにのって、会場に向かっている。終点で降りることになっていた。バスが着いて、降りる時、運転手さんに呼び止められた。運転手はダッシュボードの部分にちょっとした箱庭のようなものを飾りで置いていたのだけど、彼はこれをどう模様替えしたらいいのかと私に相談してきた。私はその箱庭をじっと見てみる。他の参加者たちは、もっとここをこうしたらいいのではとか、こんな具合にしてみたらどうだろうかといった、積極的な意見を飛ばし合う。私はじっと眺めるだけだった。その箱庭は、私から見て、十分に完成されていて、何も手を加える必要がないように思われていた。

<連想と感想>
 カウンセリングの勉強をしていた頃、こういう合宿のようなものにいくつも参加したことがある。その都度、ワクワクしたし、一回一回が私にとって大切な体験となっている。夢ではその頃に戻ったような感じがした。
 私はとっくにその段階を修了しているのだけど、これからその段階に入る人、入って間もない人たちと会っている。これは前回の息子(子供)と会う感じと似ているのかもしれない。
 女性友達が登場したけれど、ほとんど端役である。彼女よりも、私は後輩たち(子供)と会う方に意義を感じている。女性友達はお風呂(bath)の準備をするだけである。その後のバス(bus)がそれから連想されているという見方もできなくもない。しかし言語的、音声的な連想は、ここでは重要ではないと私は考える。
 バスは移動の手段である。ある地点から終点まで私を乗せて行く。終点において、私はそこに完成された箱庭を見ている。どこか終わり(ここで終点、これで完成といったニュアンスの終わり)を見ている感じがする。それ以上先に進む必要も、手を加える必要もないのだという感じを覚える。後輩たち(子供)はさらにその箱庭に変更を加えようとしているが、私はもはやその段階を卒業してしまっている感じがする。

(寺戸順司)







<夢25>「病院に住む女性を手助けする夢」(8月7日)
 病院で生活している女性がいる。入院しているようだ。その女性は私の女性友達と同名(但し、字が違っていた)で、私は親近感を覚えた。その女性は、病院(小さな個人病院のようだった)のトイレか物置で生活しているのだった。私は彼女の面倒を見ることにして、まずは部屋をあてがうことから始めた。一方、他にも彼女の面倒をみようとする人たちがいて、彼らが病院に来ると、私に彼女の住んでいるところを訪ねてくる。私は彼らには嘘のことを教えている。

<連想と感想>
 私の女性友達と同名の女性が病気になっている。この女性は未知の女性であると同時に、私の女性友達でもあるのだろう。<夢22>では、女性友達はやつれてしまっていたけれど、ここでは本当に病気になっている。
 しかも彼女はなぜかトイレか物置のような所で生活しているのである。一人の人間として正当な扱いを受けていないのである。<夢14>で、私は彼女の部屋に入っているが、その時は何もない部屋だった。今回、彼女は部屋すらない。なぜ、私の夢では、女性友達(未知の女性)はこういう貧相な場所と縁があるのだろうか、不思議に思う。<夢20>においては、裏道を一緒に歩いている。彼女はやつれたり(夢22)、風呂の準備をするだけの存在(夢24)であったりしている。どこか陰鬱なイメージが付きまとっている。何か暗い影を背負っている感じなのである。
 夢では私は彼女の面倒をみようとする。他に面倒を見ようとする人たちには嘘のことを教えて、彼らを退けている。私が独占しようとし過ぎているのだろうか。もっとほかの人たちの協力を仰いでもいいのかもしれないし、私一人で何とかしようとし過ぎてしまうのかもしれない。

(寺戸順司)