夢の旅11(夢51~夢55)

夢の旅11(夢51~夢55)

<夢51>「カリスマ先生の夢」(10月26日)
<夢52>「開店前のテーマパークの夢」(10月27日)
<夢53>「不思議な花瓶の夢」(10月31日)
<夢54>「写真を評価し合う夢」(11月4日)
<夢55>「女性関係の夢」(11月9日)






<夢51>「カリスマ先生の夢」(10月26日)
(場面1)アルバイトに行く。一旦集合場所に到着するが、私はヘルメットを忘れたことに気づいた。家が近いのでそれを取りに帰る。自転車で帰るのだけど、家の近所まで来たところで、自転車では遅いと思い、自転車を道端に置いておいて、走って家に向かう。お巡りさんに注意されたが、私は振り向きざま、「すぐに取りに来ますから」と言った。
(場面2)学校のような場所。もしくは病院だったかもしれない。一人の先生が授業か診察をしている。その人はたいへん人気のある先生だった。人々が外からその先生を観察する。建物の一階で授業(診察)をしていたので、窓から見えるのだった。私は彼らに近づいて、「もっとそばまで寄って見ればいいのに」と言って、彼らよりも窓に近づく。その先生は男性で若々しかった。
(場面3)ロビーのような場所。私は先ほどの人気のある男性の先生と話している。丸テーブルを挟んでいたようだ。私たちが会話していると、三人の若い女性が先生のところへ来て、何やら会話する。彼女たちは若くて、学生のようだった。その先生のファンらしい。彼女たちが去ると、今度は一人の男子学生が先生に会いに来た。この生徒は、ある事情のために課題が提出できない、あるいは授業に出席できないということを先生に伝え、先生から許可を得る。その男子学生が席を離れると、先生は「彼は強迫性格だな」と呟いた。私は「いや、違うでしょう。ヒステリー性格でしょう」と言った。先生はなるほどと頷いた。

(連想と感想)
 前日は定休日で、外回りをした。七件ほど周り、一日中歩きづめだった。その合間で休憩を取り、本を読んだり原稿を書いたりしたが、やたらと集中できたのである。
 夢は一つのものであったが、覚えているのは上記の三場面である。(場面1)だけいささか独立しているような感じでもある。
(場面1)において、私は、アルバイトとは言え、仕事に臨んでいる。その時、私はヘルメットを忘れてきたということになっている。昨日は頭痛に襲われていたので、意識が頭部に集中していたということも関係があるかもしれない。しかし、ヘルメットとは、大事な部分を保護するものである。私はその保護具を忘れたということである。なお、このアルバイトにおいて、ヘルメットは必須のものである。
 それを取りに帰る。ヘルメットが家にあるということが分かっており、しかも初めから家の近所にいたということが夢から分かる。それを忘れたけれども、取りに帰るだけの近い距離に私がいるということである。
 しかし、取りに帰る際に、私は自転車を用いているが、自転車では遅いので、走って帰るということになっている。自転車は道具である。それも自分の足でペダルをこぐのだから、主体的な活動性が求められる乗り物である。でも、それでは遅い、つまり間に合わないということである。私はその代りに走ることにしている。走るということは、より体力の要ることであり、より自分の足で、つまりより主体的な活動である。仕事に必須のもの、自分の大事な部分を守ってくれる保護具を取るのに、道具的な方法では間に合わないということであり、より主体的、より肉体的な活動が求められているということでもあるようだ。
 また、自転車から走ることへという移行は、私の過去の流れとも一致しているように思う。小学生の頃は自転車に乗ることが好きであった。中学から陸上部で走り始め、それは高校でも引き継がれている。走る方が優勢になるほど、自転車は遠のいていった感じである。このように考えると、小学生時代の私では間に合わないということであり、むしろ高校生時代の私でなければならないということになる。
 自転車を後で取りに戻るからとお巡りさんに言うということ。これはつまり、自転車を捨てたのではないということの宣言である。自転車は、最前の解釈では、道具であり、小学生時代である。私は決してそれらを切り離してはいないということである。
 ここまでをまとめると、次のような解釈をしてきたことになる。私は仕事をするに必要なヘルメット(大事な部分を守ってくれる保護具)を家に忘れてきた(それは家にある)ので、それを取りに帰る(家に近い場所にいる)。自転車(私の小学生時代を象徴するアイテム)では間に合わない(不適切)のであり、走って(中学、高校時代の生活の中心にあったもの)取りに帰る。その自転車は後で取りに来ると宣言する(小学生時代を切り離していないという宣言であり、後で取り掛かるということ)のである。従って、その必須のものとは、私の高校時代において、私の家にあったものなのかもしれない。しかも、私はそれに手が届く距離に位置しているということである。

(場面2)では、人気のある、いわばカリスマ先生みたいな男性が登場する。他の人たちは窓から彼を見ている。それもよほど近づきがたい先生なのか、窓から距離を置いて眺めている。私は彼らよりもより近づいて行くわけである。
 これは他の人たちと先生との距離の差であり、私の方が彼らよりも抜きんでて先生に近づけるということであるようだ。彼らほどこの先生を恐れていないし、カリスマ視していないということであり、ある意味では彼らよりも優位な立場にいると考えることもできるようだ。
 この先生が近寄り難いというのは、怖いからではなく、ある意味で神々しく、とても高い存在であるからである。彼は若々しく、快活で、魅力的な男性である。いわば英雄象を象徴しているようである。この男性に近寄れない人たちがいる中で、私は遠慮なく近寄っている。私は彼に近寄ることができるが、私の集合的な領域はまだ彼に近寄れないでいるということのようである。つまり、私の個人的な領域においては、彼とは親和性があるが、その他の大部分においては、彼との間に距離があるということである。
 では、この先生は何者であろうか。魅力的で英雄象を象徴するようなこの男性は、教師か治療者かということになっている。私のいた場所は、学校のようでもあり、病院のようでもあった。もしかすると医学校だったのかもしれない。この男性は、教師であるか治療者であるか、もしくはその両方を兼ねているかということである。
 夢の中には証拠がないのであるが、私の印象では両方を兼ねている人物であるように思われている。このことから連想することは、私自身はこの両方を兼ねることが難しいということである。
 私がカウンセリングの場においてクライアントと会う。その時、私は治療者になっている自分と、教師のようにクライアントを教え、指導している自分とに気づく。クライアントに教え、指導している自分に気づく時、私はこれではいけないと感じてしまう。私が教えるのではなく、クライアントが見出さなければならないのだと思い、私は間違ったことをしていると感じてしまう。夢の中の先生は、もしかすると、私のこのジレンマを解決した人間の姿なのかもしれない。そのように捉えると、この先生は、私がまだ達成していないことを達成している人物であり、私の目指すところのものを具現化している存在なのかもしれない。一つの理想像と捉えてもいいのかもしれない。
この先生に対して、私の一部(個人的な領域)においては近づいているが、まだまだ近づけない部分が背後に控えているのかもしれない。

(場面3)は(場面2)の続きであるが、どういういきさつでこの場面に至ったかははっきりしていない。(場面3)において、私と先生と、さらに四人の学生が登場している。
 四人の学生はみな十代で、高校生くらいの年代だった。三人は女子で、三人ともお揃いの制服を着ていたような記憶がおぼろげながらある。一人は男子学生である。
十代の高校生ということからは、彼らはまだ大人になっていなくて、これから成長していく存在であるというイメージを私は持つ。
 三人の女子学生はこの先生のファンである。この先生が私の未達成の事柄を達成している人物であると解釈するなら、この先生がしていることに注目しなければならない。彼はこの女子生徒とは良好な関係を築いている。彼女たちも先生を信頼し、接近しているのである。先生も彼女たちに対しては好意的なようであった。
 一方の男子学生はどうであろうか。この生徒は、一見まっとうな理由を挙げて課題が提出できない、もしくは出席できないということを先生に伝えている。彼は先生に対して回避的である。先生は彼を「強迫性格」だと見做している。私が「むしろヒステリー性格ではないか」と訂正してみると、先生はそれに納得している。
先生と男子生徒の関係はいかなるものであり、私はそれにどう関与しているだろうか。先生は男子生徒と良好な関係を築けていないようだ。先生は男子生徒を「強迫性格」と見做しているが、これは誤りである。むしろ「ヒステリー性格」なのだということで納得している。私がこの先生の誤りを訂正している。このことは、男子生徒に関しては、彼の「強迫性格」と見做される部分は「ヒステリー性格」として読み直す必要があることを示している。また、先生がこの生徒と良好な関係を築けないのは、この生徒を正しく理解していないからではないかという推測も可能である。この男子生徒を「強迫性格」と見ようと「ヒステリー性格」と捉えようと、この先生の男子生徒に対する関係は、非常に知的なものであるという印象を受ける。先の三人の女子生徒たちのように感情的に結びついているのではないようである。
 もう一度、先生と四人の生徒の関わりを振り返ってみよう。この四人は十代で、まだ大人になっていない存在である。三人の女子とは感情的に結びついており、良好な関係を築いている。一方の男子生徒に対しては知的に関わろうとしている上に、この男子は正しく理解されていない。この誤解が良好な関係を築くことの妨げになっている。
 この先生が私の一つの理想象であると捉えるなら、この先生の抱えている問題は、私が抱えている(もしくは抱えるであろう)問題とつながっているはずである。この先生は三人の女性とは感情的に良好な関係を築いている。一人の男性とは知的に関係を築いているが、正しく理解していないこともあって、その関係は不良であり、むしろお互いに回避し合っている。この関係は何を表しているのだろうか。
 生徒の数にも注目しよう。十代の女子と男子の数は三対一である。女子とは感情的な関わりがあり、男子とは知的な関わりがあると解釈するならば、知的な関係(もしくは知的要素、男性要素)の三倍分、感情的な関係(もしくは感情要素、女性要素)が成長して、大人にならなければならないという解釈が可能である。言い換えれば、男性要素の三分の一しか女性要素が発達していないということでもある。
 つまり、十代のこれから発達していく人たちの数は、この夢に関してであるが、発達していかなければならない女子は三人現れている。一方、男子の方は一人である。この関係から、この夢においては、女子の方が三倍発達を必要としているというように理解したわけである。もちろん、違った解釈も可能である。男子の方が女子の三分の一しか発達していない、だから男子こそ三倍発達していく必要があると考えることもできるだろう。いずれにしても、この男女比は私には非常に注目すべき点であるように思われている。私は何らかのアンバランスなものを感じている。
次に、私はこの先生とつながっているという仮定に基づいて眺めてみると、この先生と生徒の関係はそのまま私自身にも当てはまるということが言えそうである。私自身が、自分の中の未発達の男性要素と女性要素とに関わらなければならないということである。そして女性要素の方が三倍未発達なのである。男性要素の方は、正しく理解していないので、一部が未発達なままである。そういうことになるのではないかと思う。

 さて、これは一つの夢であるので、(場面1)と(場面2、3)との関係をもみていく必要がある。
(場面1)では、それ(ヘルメットであり私を守る保護具である)がないと仕事ができないという背景があり、私がそれを忘れて家に取りに帰るという状況があった。私はそれに手が届く位置におり、それが高校時代の家と関連があるようだということであった。
 次の場面から登場する男性の先生は、私が現在仕事において抱えるジレンマを解消した人物として現れていると捉えた。だから、この先生は私の仕事に関してつながりがあるということになる。彼は、私からすると、私が未達成の事柄を既に達成した人物として映る。だから彼は私の延長線上にあるような存在である。彼に対して、私の一部は近い所にいるが、多くの部分が彼にまだ近づけないでいる。
 彼の抱えている困難を、三人の女子生徒(これは感情であり女性性である)と一人の男子生徒(これは知性であり男性性である)との関わりにおいて見てきた。女子生徒で象徴されているものは、男子生徒が象徴しているものの三倍成長していかなければならないということであった。しかも、男子生徒に対しては、彼はこの生徒を正しく理解し損ねているということであった。この誤解のために彼は男子生徒とは回避し合っている。
 少なくとも、この男子生徒に対して、この先生は正しい理解を欠いているために、お互いの仕事に支障を来している。これはその仕事に必要なヘルメットを忘れたために仕事ができないという(場面1)と同じ構図である。従って、この先生の抱えているこの問題も、私の高校時代の家と関連があるのではないかという予測を立てることができる。
 次に私が考えなければいけないことは、今度は夢から離れて、一体、私は高校時代に何を家に置いてきたのだろうかということを見ていかなければならない。そして、高校時代とは私にとってはどういう時代だったのかということも見ていく必要があるだろう。それは夢から離れることでもあるので、ここには記述しないで、私の中でその作業をしていくことにする。

(寺戸順司)







<夢52>「開店前のテーマパークの夢」(10月27日)
(場面1)女性友達が働いている店が閉店すると聞いて、私は誘われた。彼女と会うのは気が進まなかった。それでも行ってみる。店の中はすべて取り除かれ、一面何もない床である。彼女とは別の従業員が私に文句を言ったが、私は聞き流す。私は自分の方が道理に適っているということを知っていたからだ。女性友達と会ったが、お互いに「もう会わないでおこう」と言い合う。

(場面2)何かの手続きがあって、会場に行く。手続きそのものはすぐに終わった。そこは何かテーマパークのような所で、まだ開場前だった。芸人さんたちが催しごとのリハーサルをしている。私は家族に連絡しようかと思った。家族で楽しめるようなものだと思ったからだった。しかし、連絡しないでおく。私は次に行かなければならない所があったので、先を急いでいた。でも、何か飲もうかと考えた。開いている店はアイスクリーム屋だけだった。そこではアイスクリームで何か造形していて、その制作の最中だった。私が売り場に行くと、同時に二人の女性とぶつかった。私は彼女たちに先を譲った。私も買う。彼女たちはアイスクリームを食べている間、鞄を持っていて欲しいと私に頼んできた。私は承諾して、鞄を持つ。その鞄の口が開いていたので、私はこっそり閉じてあげた。

(場面3)コンビニのような店。何かを買う必要が生じた。それは早く買わないと売り切れてしまうということだった。何でも学生がレポートを書くのに使うからで、今に学生がそれを買いに殺到するだろうということだった。私が見た時点で品物はほとんどなくなっていた。私が品物を手にして間もなく、それは売り切れた。私はそれを持ってレジに行く。レジの女性店員が要領が悪くて、私はレジで時間を取った。私がお金を払う。するとその女性店員は他の店員にお釣りを頼むのである。頼まれた店員はどこか別室に行き、私のお釣りを持ってくるという感じだった。

(連想と感想)
 前回と同様、一晩で見た夢であるが、断片的にしか覚えていない。主に上記の三場面が印象に残っているが、他におぼろげながら記憶に残っている場面もある。各場面の順番も今回ははっきりしない。
(場面1)は女性友達と決別する内容である。彼女の働いている店、彼女と知り合った店が閉店するということも、現実に彼女との関係の終わりを告げるもののようである。がらんとして、何もない店内は、私たちの間で何も残らなかったという感じを受ける。他の従業員が文句を言うという所は、この従業員はいつも私たちの間に位置していて、私はむしろ邪魔に感じていた人である。
(場面2)は、何かが新しく始まろうとしているという内容を示すようである。賑やかなテーマパークであるとか、催しごとがこれから始まるのである。私はそこで何かの手続きをしている。賑やかな世界や芸人さんというのは、私にとってはどこか子供時代を思わせるものである。子供時代のことがこれから内面において活性化していくのかもしれない。
 しかし、私はその世界を後にする。また、家族に教えようかということも断念している。何かを飲もうと思ったのは、それでもこの世界において取り入れたいこと、飲み込みたいものがあるのだろう。ただ、それは見当たらなく、別の物(アイスクリーム)に変わっている。本当に望んでいるものが手に入らないという感じである。
 このアイスクリーム売り場で二人の女性と会う。若い女性で、十代の女の子だったような印象がある。二人とも私に親しげに語りかけてきたように思う。彼女たちの鞄を持つ。自分の手荷物を預けるということは、相手を信頼できなければできないことだと思うので、彼女たちとは信頼関係が築けているのだろう。ところで、鞄の口が開いているというのは、私は現実に嫌なのである。鞄の中にはその人の秘密や、その人の人柄を示すものが詰まっているという意識があるので、自分の鞄が開いているのも、他の人の鞄が開いているのも、見るのが嫌なのである。夢の中で、私は中を見ないように注意しながら、口を閉めたのを覚えている。
 この女性たちは、前回の女子学生と通じるものがある。前回は彼女たちと先生の関係を私が傍観者的に眺めていたのだが、今回は関わりが生じている。口の開いた鞄を預けるほど、この距離が縮まっているのだという印象を受ける。
(場面3)は、先日、本を買った時のエピソードを連想する。本屋でレジを打った女性が新人だったのか、とてももたついて、私の後ろに客の列ができたのである。別にその女性がモタモタしたからといって、私は腹を立てたりはしなかったのだが、後ろに客が並ぶと、何となく私の方が居心地悪い感じがしたのである。背後に並ばれるのは、けっこう苦手なのである。
 夢では何かを買う、手に入れるということになっている。それが売り切れる直前に購入できたということは、それを手に入れるのに間に合ったということである。しかもその品物は学生、それも大学生くらいの人たちが必要とするものだということである。学生時代の必需品を先に手に入れたということか。
 流れとしては次のようになると思う。(場面1)において、古い関係が終わったのである。一つの区切りがついているのである。(場面2)では、何かが始まろうとしているのである。その何かはテーマパークで表されているものであり、二人の女性との関わりで示されているものである。(場面3)で、私は必要なものを、それが売り切れてしまう前に手に入れている。しかもその物とは、大学生が必要とするものである。大学生にとって必要なものを手に入れるということは、前回よりも発達が進んだというイメージが湧く。大人になるということではないかと思う。それに必要な物を、私は何とか、入手するのに間に合っているということではないだろうか。

(寺戸順司)







<夢53>「不思議な花瓶の夢」(10月31日)
 7~8人くらいの男女のグループに私は属している。みんな同じクラスの仲間のようである。ある講義に出ることができなかった人たちのグループである。いわば補講のような形で集められたメンバーである。
 教室というか和室に集まっている。輪のようになって、床に直接座っている。中年の婦人が私たちの輪の中央に何かを置く。それはガラス製の花瓶かボウルのようなもので、色彩豊かだった。中に水が入っている。彼女は「それをよく見て」と私たちに言う。私は言われた通り、それを凝視する。そして「それがどのように見えるかを言ってください」と彼女が言う。
 私はそれを見ている。見ていると、それは色が変わり、スーッと背後の色に溶け込んでいくようだった。そして何も見えなくなると、再びスーッと姿を現してくるのだった。消えたり現れたりを何度も繰り返している。おまけに様々な色に変化していく。
 婦人が「では、君から言ってください」と、私を指さす。私はそれを見ている。でもどう表現したらいいかで迷う。私は「どのように見えるかを言うんですね」ともう一度確認する。婦人は「そうだ」と答える。こうしている私の目の前で、それは見えたり隠れたりしている。私は「不思議な感じです。見える時には色彩豊かに、鮮やかに見えるのに、見えたかと思うとスーッと背景に溶け込むように消えていく。消えていったかと思うと再び現れてきて、一定しない感じです」ということを答えた。婦人は「それでいい」と答えて、隣の人に同じ質問をしていった。
 人によって、それを「可愛い」とかいう人もいた。皆に同じものが見えているのではないなと思った。そうして、一巡すると、この婦人が、「今、あなた方が言ったことは、そのままあなた方自身である」と言った。それで補講は終わった。

(連想と感想)
 なんとも不思議な雰囲気の夢であった。この婦人は魔女のような存在ではないかと思う。私はこの花瓶(かボウル)を現れたり消えたりする不思議なものと見做している。婦人の話では、それが私自身だということになる。つまり、私が見えたり見えなくなったりする、不思議な存在であるということである。しかし、それは見えた時にはとても色彩豊かで綺麗なのである。
 夢の中でそれが私自身を表していると告げられても、この花瓶は私には女性友達のように思われてしまう。花瓶とはまた女性的な象徴であるが、それとは別にしても、彼女の有り方がこの花瓶のようだったと思う。見えたり見えなくなったりするのである。つまり、近づいては遠ざかりということを、彼女は私に対してしてきたのである。少なくとも、私にはそのように体験されていた。目覚めて、真っ先に思い浮かんだ連想はそのことだった。この花瓶は女性友達のことだろうと。
 それと場面が補講のような感じだったということもそうである。前回の夢では、閉店した店で私が彼女と会っている場面だった。補講というのも、本講義が終わって、その後に催されるものである。このつながりから、今回の夢も女性友達を連想させるのである。
 前述のように、この花瓶は女性友達を表しているようだと連想した。しかし、夢ではまったく違うことを私は告げられているのである。私はこれをどう考えたらよいかで迷った。私はそれは彼女だと思っている、夢ではそれは私自身だと言っている、このジレンマをどのように解消できるだろうか。
 私は対象を見ている。これは私とは別個に存在する対象である。しかし、それは同時に私自身でもあるとすれば、私とこの対象とは融合した関係を築いているということになりそうである。この対象と私とは、いわば、一心同体と言った関係であるということだ。
 もし花瓶を彼女と捉えるなら、彼女と私は融合的な関係にあったことを示している。これは、もともと私にも彼女と同じものがあったのか、彼女との関係において融合していったのか定かではない。しかし、これを分けて捉えてはいけないようである。私は彼女を見ている、不思議な感じを体験している。そしてそれは私自身でもある。私が花瓶を見ているのか、花瓶が私を見ているのか分からないような感じだ。この時、私と対象との間には明確な境界線がなくなってしまう。夢は私と彼女との関係の有り方、この境界の不鮮明な関係の有り方を知らせてくれているように感じる。融合して、お互いに同じようなことをし合っていたのかもしれない。そして美しい部分しか見えていなかったのかもしれない。

(寺戸順司)







<夢54>「写真を評し合う夢」(11月4日)
 級友たちと一緒にいる。みんな同じ学校で、同じクラスの友達たちだった。最初は7,8人くらいいただろうか。そのうち、私と二人の女性だけが残った。
 私たちは写真を渡し合って、見ていた。それぞれの写真には、いろいろ書き込まれていて、賑やかだった。私の写真には「この子が人に好かれますように」と書かれていた。どうも母が書いたもののようだった。私は「母の望む通りにはならなかったな」と言った。一緒にいた女性が「そんなこともないんちゃう」とフォローしてくれた。
 私たちは歩いている。一件の家の前に立つ。見上げると二階にI先生がベランダに立っていて、私たちと目が合う。三階にはOさんがいた。久しぶりだと言って、私たちは彼の部屋に入る。彼は何かキーボードのような楽器の演奏で生活しているようである。なかなかしっかりした演奏をする。私も触らせてもらった。意外と難しい楽器だったけれど、やっているとそのうちできるようになっていき、愉しくさえなってきた。

(連想と感想)
 7,8人くらいの級友グループというのは、前回の夢でも同じ構成である。この部分に前回の夢と共通する構造を見るような思いがする。
 前回の夢では、私は不思議な花瓶と向き合うことになっていたが、今回は女性と関わっている。やはり両者には同じ何かがあるのだろう。
 二人の女性は、私とは友好的な関係であるようだ。<夢52>のアイスクリームを食べる二人の女性と通じるものを感じる。
 3人で写真を見せあいっこしているのであるが、それぞれの写真にはいろいろと書き込みがされていた。私の写真には「この子が人に好かれますように」と書き込まれていた。女性友達との関係が破綻して、いささか気落ちしている私にとっては励みになる言葉である。「私が人に好かれますように」という私自身の願望なのかもしれない。もし、そうであるなら、夢では、それを私が自ら祈願するのではなく、母が祈願しているという形に歪曲されているということになる。これを私が素直に祈願することにはどこか抵抗感があるのかもしれない。
 この抵抗感は、今の私が人から好かれる人間だとは思えないでいることとも関係しているだろう。そして、この思いは子供の頃からあった。私は自分が人に好かれるとはとても信じられないでいた。それどころか自分は嫌われると信じていた。だから、人に好かれたいという感情はあっても、それをありのままに言い出せなかった。自分でそれを表現することが憚られるために、夢でも、私がそれを祈願するのではなく、母が祈願しているという構図に収まってしまっているのだと思った。
 ところで、それを望んでいるのは私自身でもあるはずなのに、母が望んでいるという形になっている。私と母との結びつきの強さに思い至る。母との関係の一部は、そのまま私と女性友達との関係に重なる。融合的な関係なのだ。この融合的な関係は、私には苦痛だったけれど、私が苦しい状態にある時にはとても助けになる。この夢で、母との関係が示されているのはこの部分だけであるが、夢全体の印象が極めて平和的だったのも、この部分によるところが大きいのだろうと思う。
 次に、私は「母の望む通りにはならなかったな」と、いささか自嘲気味に言う。一緒にいた女性が「そんなことはない」と返してくれている。これもまた同じ関係なのかもしれない。「そんなことはない」と言いたいのは私自身だったのかもしれない。それをこの女性が語ったということになっているのである。人から好かれたいとか、母の希望を叶えたいとかいう感情は、私の中にあるとしても、私自身はそれを有りのままに表現することに躊躇いがあるようだ。
 後半は場面が変わる。I先生と言うのは、私のカウンセリングの師匠である。建物の二階にてI先生を見ているが、I先生が登場するのはここだけである。三階にはOさんがいる。Oさんとは私の飲み友達で、大の仲良しだった男性だ。そして、私たちはI先生を通り越して、Oさんの部屋に上がっている。
 I先生の回避ということから考えてみよう。I先生はカウンセラーであり、私をカウンセリングしてくれる先生である。そして、私にとっては多少の母親転移を起こしている対象である。私はこれを避けている。どうも、内面を見る作業を回避したいようである。
 代わりに何が出てきているかと言えば、酒飲み仲間のOさんであり、音楽である。夢の前半部といい、今回の夢には何かを回避する傾向が全体に漂っている感じである。カウンセラーであるI先生を避けるということは、I先生に話すことを拒否しているのである。私自身を語ることを避けているのである。その代りに、酒や友達、音楽などに没頭する。これらは自分自身を体験することを妨げるものだったようだ。
 この夢でOさんがどういう役回りであるのかということは、今の所、自分でもよく分かっていない。ここでの人間関係は、男性である私が一人であり、女性は二人という三者関係である。これがもし四者関係に発展するとすれば、第四番目の人物は男性でなければならない。そうでなければ釣り合いが取れないからである。そして、この四番目の男性は、私は影のような存在であるか、私に対して補償的な存在となるだろうと、私は捉えている。Oさんがそれに該当するかどうかということは、今の所、よく分からないとしか言いようがない。彼に関しての連想を広げていけばいいのであるが、彼ともしばらく会っていないので、覚えている部分も少ないのである。

(寺戸順司)







<夢55>「女性関係の夢」(11月9日)
(場面1)買い物をしている。何か食品だった。それが最後の一つだったのか、私はそれをどうしても欲しかった。私が手に取るのと紙一重で二人連れの女性がそれをかごに入れてしまった。私は諦めきれず、彼女たちがお喋りしている間に、それをかごからこっそり取り出した。私は急いでレジに駆けつける。

(場面2)一人の女性がジョギングをしている。私はそれに同行する。田舎道のようであり、広い神社の境内のようでもあった。私の知人であるらしい。彼女は走っているのだけど、私は歩いている。彼女は「よく歩いて追いつけるわね」ということを言った。私は、なんてこともないよということを言った。

(場面3)バスの中。車内は私と二人の女性しかいない。彼女たちも私とは既知の間柄であるようだ。バスが方向転換する。一人が「この感覚は好きになれないわ」と言う。確かに、バスが大きくターンして、いい気分ではなかった。

(連想と感想)
 三場面とも私は女性と関係している。それも私が一人に対して女性が二人である。場面2では、女性は一人であるが、私の二倍の活動をしている。それは私が歩いているのに対して、この女性は走っているという不釣り合いに示される。
 女性二人と私一人の三者関係というのは、繰り返し登場してきた構図である。<夢52>や<夢54>でも同様である。今の私にはこの構図に対して、明確に述べることが難しい。
(場面1)では、この二人の女性からこっそり品物をくすねるということをしている。交渉したり要求を出したりということをしていない。どうも関わりが不十分な感じがしている。
(場面2)では、この未知の女性との間で交流が成立している。
(場面3)は、バスの中で、この二人の女性が体験しているのと同じことを私も体験している。
 関わりという観点で見ると、最初は無関係だったのが、交流が成立し、融合的になっていくという感じを受ける。

(寺戸順司)