夢の旅10(夢46~夢50)

夢の旅10(夢46~夢50)

<夢46>「女性と旅する夢」(10月17日)
<夢47>「怪我をした猫の夢」(10月19日)
<夢48>「Nさんと性交する夢」(10月21日)
<夢49>「誰かを指導する夢」(10月23日)
<夢50>「女性を介抱する夢」(10月25日)






<夢46>「女性と旅する夢」(10月17日)
 未知の女性と知り合って、彼女の部屋にいるようだ。お互いに休みだったので一緒に寝ようかと話し合う。ベッドで横になっていると、こういう機会に映画に行けばいいのにという話になった。まだ、時間があるので映画に間に合う、今から行こうと決める。
 映画は中国かどこか東洋の映画だった。オムニバス形式の映画だったようだ。画面の色彩が色鮮やかで、凝っているなと感じた。
 映画館を出ると、私と彼女は並んで歩いていたが、そこが映画で見た景色とまったく同じだということが分かった。ごく普通の国道だが、そこにスーパーか何か大きな店があって、そこで知り合いが出てくるということだった。その人はとてもしつこくて、どこまでもつきまとうような人だった。映画でそれを見ていた。だから私たちはその店を避けようと思っていたのだが、彼女はどうしても寄らなければならないからと言うので、店に入る。それから私たちは再び歩き始める。しばらく歩いて、ふと振り返ると、案の定、後をつける男性がいた。それは私の昔の知人のTさんだった。彼女は「どうする」と尋ねるけれど、私は「あんなん放っておいたらええ。つけこまれんように、うちらは楽しそうしとったらええ」と言って、彼のことを無視する。私たちは楽しくお喋りをしながら歩く。Tさんがずっと後をついてきたようだが、距離は縮まらずだった。
 その後、私たちは車に乗り換える。彼女が運転していたのだと思う。車を止める。どうも場所を間違えたようだ。彼女は道を尋ねるため車から離れる。私は車の外に出る。外の空気を吸って、日差しを浴びて佇んでいる。近くに海があるようだから後で見に行ってもいいかななどと考えている。その時、私の肩とトントンと叩く人があった。見るとそれは知人の女性であるYさんだった。とても久しぶりだった。少しだけ話していたが、彼女が戻ってきたので、Yさんと別れる。
 自動車で走り始める。道は極めて狭い。狭い上に左右にびっしり自転車が駐輪され、おまけに歩行者であふれていた。その合間を縫うようにして、車はノロノロと進む。さらに、大型のトラックが道の中央寄りに駐車されていて、そいつを避けて通り過ぎるのは至難の技だった。
 静かな住宅街に出る。車を降りて、歩く。女性友達とばったり出会う。彼女は今から教室に通うと言うので、私も同行する。最初は三人で歩いていたようだが、そのうち、女性が姿を消して、私と女性友達の二人だけになる。道中、女性友達の知り合いらしき人と出会う。彼女は挨拶を交わす。
 教室に着いた。英語を勉強するクラスのようだった。中央に先生らしき人が立っていて、車座のように椅子が並べられていた。生徒はまばらだった。彼女が先に席に着く。私は後から席に着く。彼女の後ろの席だった。誰か一人の生徒が発表を終えた所だった。先生は次の人を指名する。それは私のすぐ後ろの男性だった。当てられるのだったら、私も何か言うことを考えておかないといけないなと思った。
 授業を終えると、私と女性友達は並んで外を歩いている。教室に入ったころは夕暮れ時のような感じだったけれど、今は真昼間のような感じだった。農道を歩いている。片側は山が迫っている。反対側に田んぼや畑が広がっている。色とりどりの植物が植えられている。とてもきれいだった。私は最近ここを通りかかった時、まだ農家の人が植えている状態だったのを覚えている。それがここまで大きくなっているということに驚いた。成長が速いねというようなことを私は彼女に言った。

(連想と感想)
 非常に散漫な夢だった。女性友達とはもう会わないと決めている。酒も飲まないでいる。そうなると、仕事以外で人と会うことがまったくなくなってしまった。昨夜はそれですごい孤独感を感じた。その影響もあってか、夢では多彩な人たちが登場して、甚だ賑やかである。
 夢はいくつかの場面に分けることができる。
 最初の場面は、私が未知の女性と寝ようとすると、こういう機会に映画に行こうという場面である。夢では、ここから私たちの旅が始まる。映画に行こうといのは、現実の場面でもそう思っていて、今、見たい映画が何本かある。それが時間が取れなくてなかなか行けず終いなのである。夢でもそれが現れているのかもしれないが、一方で、私はこの女性とベッドを共にすることを中断している。映画に行こうと言い出したのがどちらだったかは覚えていない。
 次の場面は映画のシーンである。私が見たのは、映画のオープニングクレジットのシーンで、背景の色彩が豊かで、その使い方が独特だった。この豊かさは後の植物の場面と連なるように思う。
 三番目の場面は、映画館を出て、スーパーに寄り、Tさんに後をつけられる場面である。このTさんというのは、昔の酒飲み友達で、別に悪い人ではないのだけれど、一緒に飲みに行こうと私を誘う時はいつも私がうんと言うまで粘るのである。それで辟易することがあった。どこかしつこい人のイメージである。夢の中では、Tさんはつかず離れずといった距離で私たちの後をついてくる。女性が気にしているが、私が「あんなの放っておいたらいい」と言う辺りが面白い。彼ら(酒でつながっている人たち)とは縁を切っているのだから、ここは妙に現実的でもある。
 次に私たちは車に乗る。ここまではずっと歩きだったのに、ここで乗り物に乗る。主題が変化しているのかもしれない。Tさんに代表される酒飲み連中と縁を切ったことで、私の足取りに変化が生じているのだと思う。それで車に乗る。最初は行こうとしていた場所と違うのである。場所が違っていても、そこは海があっていい所のようだ。海を見てもいいと感じている。それは海に近づいてもいいということである。個人的には海は怖い所であり、苦手な所である。象徴的な意味では、無意識であったり、母性であったりということが言われている。そういうものにもっと近づいてもいいと思えているわけである。
 ところが、ここにYさんが登場している。彼女も私の酒飲み友達である。場所を間違えているが故に、縁を切った人たちが登場しているのかもしれない。つまり、この未知の女性と共に進む道を私が間違えているがために、酒飲み時代の記憶や誘惑が生まれてきているのかもしれない、Yさんと別れて、私たちは当初の場所へと向かう。
 そこは非常に狭い道路で、車はノロノロとしか進まない。歩行者や駐輪自転車、大型トラックが私たちの進行を妨害する。なかなか軌道に乗れないもどかしさがある。正しい道に戻り、その道を進んでいるのであるが、なかなか進むことができないということのようである。
 酒とつながっている人たちとは別れて、ここで初めて女性友達が登場している。この女性友達は、それまで一緒に旅していた未知の女性と立場が入れ替わる。また、現実にも酒でつながった人間関係と女性友達との関係が入れ替わっている。夢でも、この辺りの事情を感じさせる。この後、私は女性友達と行動を共にする。ここで再び夢の主題が変わっていくように思う。
 夢の中で女性友達は教室に通う所だと言う。現実の女性友達は勉強が苦手である。夢の彼女は現実とは正反対の姿として現れているように感じられる。教室では、先生が指名して発表させている。私も当てられるかもしれないと思い、答えることを考えている。小学校時代の経験を思い出させる、しかし、それほど緊迫した感じでもなく、割と平然と構えていた。
 最後に作物、植物の場面である。これは映画館の色彩と重なる。未知の女性と二人で色彩豊かなスクリーンを見ていたが、ここでは女性友達と色彩豊かな植物を見ているのである。夢では、この植物たちの成長の速さを驚いている。急速に成長した何かが、彼女との関係においてあったのだろうと思う。それは色彩豊かな植物たちである。これは美しいと同時に、毒々しさをも併せ持つ色彩だった。
 前回の夢でもその萌芽が見られていたが、私はこの未知の女性と行動を共にしている。両親よりもこの女性の方が近い存在なのである。ここでは私とこの女性とが常に一緒に行動しているのである。途中で女性友達と入れ替わるのは、この女性友達に共通するものが未知の女性の方にもあるからだろうと思う。
 この女性との関係において、私はまずベッドを中断しているということ。これは一つには性の嫌悪かもしれないし、私があまりそういう関係を望んでいないからかもしれない。それから旅が始まるのであるが、TさんやYさんで表されているような酒つながりの関係を断っている。彼らよりも、この女性との付き合いの方が優先されているのである。そして、旅はなかなか思うようには進まないというのが特徴的である。進まないのは混雑のためである。この混雑が何なのかはよく分からない。夢では、道の狭さ、駐輪自転車、道を塞ぐトラックなどで示されている。いずれにしても、私たちの旅は、既に旅立ってはいるけれども、難航している感じである。

(寺戸順司)







<夢47>「怪我をした猫の夢」(10月19日)
 寂れた町に私はいた。人は住んでいるのだけれど、大部分の人は疎開したか非難したかで閑散としていた。一匹の猫、黒猫まではいかないが、若干色の黒い猫が現れて、私に懐いてくる。
 途中で何か事件が起きる。それは戦争か、災害かはっきりしない。一時的に猫と離ればなれになるが、スタジアムのような建物で猫と再会する。猫は怪我をしているようだった。腹が避けて、内臓がはみ出していた。私はそれを腹の中に戻してやり、包帯をグルグル巻きにしてやった。そうして私は猫の手当をしてやったが、猫はすぐに回復して、以前と同じように私に懐いてきた。

(連想と感想)
 寂れた町というのは、私の心象と重なるような感じがした。休日を独りで過ごした。あの感覚、雰囲気と似ている感じがした。この町は、寂れてはいるが、一方で静かな感じでもあるし、平和でもあった。賑やかさがないというだけのことで、暗いイメージはなかった。
 黒っぽい色の猫が私に懐いてきた。以後、この猫と同行するようだ。夢の中間部分が欠落しているので、どういうことが起きたのか分からないけれど、とにかく町に何かの災難が起きるのである。戦争か災害かよく分からない。この辺りは<夢43>のテロに襲われる施設の夢と相通じるものがある。それで猫とは一時的に離れることになる。
 その後、猫と再会する。その時、猫は怪我をしていた。腹が割けて内臓がはみ出していたなどと聞くと、ぞっとするような場面を思い浮かべるかもしれないが、それが不思議とグロテスクではなかった。猫の内臓を元に戻してやり、包帯を巻いてやったら、猫はすぐに回復している。
 夢のこの流れであるが、私のいる町(私のいる世界)に災厄が降りかかるのである。私と猫(同伴者)とがそれに巻き込まれるのである。猫は負傷し、私が手当てをするという構図である。つまり、世界の危機を、私ではなく、猫が体験していることになる。そして、負傷を負うのは猫の方である。私はむしろこの猫の治療者の役割を取っている。
 では、一体、この猫とは何だろうか。これは前回までの夢の流れで言えば、この猫は未知の女性でなければならなかったのではないかと思う。それがここでは猫に変わっているようである。それに、私のイメージでは、猫は女性的な動物である。人間として表現されずに動物として表現されるということは、そこにはある種の後退があるのかもしれない。あるいは、より動物的な何かということなのかもしれない。その動物的な部分、より原始的な部分が、負傷を負うのである。これまでの夢では、未知の女性が具合が悪くなったり、助言を求められて私が答えたりとかいうことはあったが、この猫ほどひどい怪我を負うことはなかった。この猫の方が傷つきが深くて、且つ、重症なのである。私はそれに直接的に手当てをしている。その手当ては功を奏しているのである。
 つまり、この猫を女性要素と捉えるなら、未知の女性とは同一視することができるが、人間の女性よりも、より動物的であり、原始的であり、原点に近いものを表しているように思う。そこがひどく傷ついているが故に、彼女は苦しまなければならないということである。私が手当てをしているということは、私がその傷に関わることができるようになってきているということなのかもしれない。そして、私のこの手当ては、猫に回復をもたらしている。つまり、相応しいやり方の処置をしているということではないだろうか。
 いずれにしろ、傷の手当てに着手しているという点に、私は自分の中で何らかの進歩が生じているのだと感じた。

(寺戸順司)







<夢48>「Nさんと性交する夢」(10月21日)
 場所は大学。大学時代の友達のNさんと一緒にいる。彼女とは同じ組になっているようだ。それで一緒に何か研究に取り組んでいる。教室で、どういういきさつでそうなったかは分からないが、二人で抱き合う。お互い裸になる。ところが人が入ってきたので中断。
 その後。キャンパス内を歩く。保険室か部室かに入る。中に誰も人がいないかを確認する。誰もいないと思って入ったけれど、奥の方から人が出てきた。この時、最前の続きを始めかけていたが、またも中断。さらに場所を探す。同じような部屋をもう一つ見つけて、私たちはそこに入る。今度はうまくいきそうだという感じがする。この頃にはると、Nさんの方がすごく積極的になっていて、中断されて、私以上にイライラしているようだった。行為を終える。部屋のスピーカーから声が流れてくる。それは私たちに対してのもので、この部屋でそういうことをしてはいけないという忠告の声だった。声の主がある先生であることが私には分かった。彼女は少し気にしたようだったが、私は放っておいたらええと答えておいた。
 その部屋を出て、教室に戻るまでの間に。私たちは次にこういう機会をいつ設けようかということを話している。学校内でやると、人目があるから面倒だというようなことを話している。彼女の方が、いついつだったらチャンスがあるというような話を持ち出してきた。
 教室に入る。私たちは別々に行動する。Nさんは友達のグループに入って行く。私は独りで座る。特に誰とも関わりを持たなかった。先生が入って来て、私とNさんのことで何か言った。私たちのためにグループのK君が処罰を受けたと聞いた。私は猛烈に頭に来て、その先生に噛みついた。それからK君の家へと向かう。Nさんも賛同してくれて、授業を放り出して、私について来る。K君の家に着いたが、家政婦らしき人が出てきて、Kとは会えないことを知らされた。

(連想と感想)
 夢にはもっといろんな他の場面が現れたのだが、はっきりしない。上記の部分は割とはっきり記憶に残っているところである。他に、Nさんとテレビを見ている場面や、芸人さんが汚い芸をやっているのを見て批評している場面などもおぼえているのだが、それらの場面がどういう位置づけになるのか不明である。はっきりしないので割愛した。
 腹蔵なく話せば。数日前から性欲が非常に昂ぶっているのを知覚している。それで夢の中でセックスしたのだろうということであれば、単に欲求充足の夢にしか過ぎない。夢はもっと複雑な構造を持っている。
 場所は大学である。大学に関しての私の連想は、人にとって子供時代の最後の場所ということである。大学を出ると社会人と見做される。私が大学にいるということは、私の何かが子供時代のままであり、そこから卒業していないということになる。それが性に関することであるということは容易に見て取れる。
 Nさんとは三回性交を試みる。三回目で成功している。それまでの二回は中断されている。Nさんというのは、私の大学時代において、私の生き方を決定的に変えてくれた女性である。深い影響を与えてくれた女性は、私の人生において三人いる。一人は私に本を読むことの楽しさを教えてくれた女性であり、二人目はNさんである。三人目は最近別れた女性友達である。彼女たちは何らかの痕跡を私に刻んでいる。
 Nさんを通じて、三人の女性が連想される。さらにNさんとは三回目で性交している。性的な意味ではなく、三人のうち二人は私の中で作業が中断したままになっているということなのかもしれない。それを完遂させないと、大学を卒業できない(大人になれない)ということなのかもしれない。
 もう少し細部を見ていく。初め私たちは何かの研究をしている。それからなぜか私たちは裸で抱き合うことになっている。研究とは知的な作業であり、課題やテーマを連想する。知性化された部分と言えるかもしれない。一方、裸で抱き合うというのは、より感情的であり、動物的であり、本能的なものを感じさせる。知的で文明化された作業よりも、感情的で動物的な行為の方が強くなっているということかもしれないし、後者の部分がより重要なのだということかもしれない。
 ところが、ここで人が入ってきているので中断している。それは人に見られてはいけないということであり、私の中でタブーになっているものである。それは感情や衝動は人前に出してはいけないという私のかつての生き方と重なる。
 二度目の試みにおいては、私たちはそれをするための場所を探している。一つの部屋を見つける。誰もいないと思っていたけれど、奥の方に人がいたので、やはり中断している。常に誰かの目に晒されているという恐れみたいな感情が私の中にあるのかもしれない。常に私のタブーに目を光らせているような存在者を感じているのかもしれない。
 最後の場所で、私たちは性交を成し遂げる。しかし、その途端にスピーカーから声が流れる。私たちの一部始終を知っており、そういうことをしてはいけないという禁止の声である。その声がある先生の声であることは夢の中で分かっていたが、それが男性だったか女性だったかは分からない。ただし、タブーを犯したことに対しての叱責、良心の声のようなものだったかと思う。この辺りに、性に対しての激しい禁忌の感情が感じられるのであるが、私はその声は無視すればいいとまで言っている。
 声に対して、私は無視すればいいという態度を取っているわけであるが、この態度は声に対して反抗しているものである。この禁止する声に対して反抗しているということは、私の中でNさん(ならびに女性性)との関係を保護する形になっているので、望ましいことのように思われた。しかし、この声は、あくまでもこの場所に関して禁止をしているということであり、行為そのものに対して禁止しているものではないというように解することもできる。つまり、タブー性が意外と低いことなのかもしれない。
 性交を終え、部屋を出る。私たちは次にいつこういうことをしようかという約束をする。これはNさんとの関係に永続性がもたらされることを意味する。夢の中のNさんというのは、現実のNさんではなく、Nさんとして象徴されている女性であると捉えるなら、私はこの象徴との関係を築き始めていると考えることができる。
 教室に入る。ここでは私とNさんとは別行動を取る。ここは一つの社会的な場所であり、公共の場である。彼女はすぐに友達の中に入って行った。この女性は社交的である。一方、私の方は独りで、みんなとは離れて座っている。意義深い体験をした後、私は独りになりたがるが、夢でもその傾向が見られるように思う。そういう体験をした後は、しばらく独りになって、その体験を自分の中に同化しないといられないのだ。すぐに社交に戻るということは私には難しい。
 先生が入って来て、私とNさんの行為で、同じグループのK君が代わりに処罰を受けたと聞かされる。私は怒って、K君に会いに行くが、断られる。このK君であるが、これは大学時代の人ではない。現実にはK君は、私がクリニック時代に経験したクライアントである。
 K君は、初めは別の臨床家が担当していたのだが、その先生が手一杯になってきたので、私へと担当が変わったのである。K君は、昔の私を見るような思いがしていたのを覚えている。ある意味、子供時代の私とK君とは重なるのである。似ているのである。従って、夢の中のK君からは、現実のK君よりも、子供時代の私という連想を喚起するのである。
 夢の中で、私ではなく、K君が代わりに処罰を受けたということに、一つの通過儀礼のようなものを感じる。K君は私の子供時代の私である。私が性交したことで、子供時代の私が罰せられているのである。K君に会いに行く。それは私の子供時代を取り戻そうとするかのような動きである。言い換えれば、子供時代に留まろうとする欲求と言ってもいいかもしれない。しかし、K君とはもはや会えないということになっている。こうして、この部分とは徐々に接点がなくなっていくのかもしれない。
 面会を拒否したのが、K君の親ではなく、家政婦らしき人間だったことも興味深い。なぜ、K君の母親ではなかったのだろうか。夢ではここで家族を登場させなかったのである。家政婦というのは、私には馴染みがない存在である。外国の小説などを読んでいると、よく登場するが、それは家のことを家人に代わって行うのであるが、しばしば家族のことに口を出していたり、家族メンバーの仲介人になったり、対立に一役買ったりして、影の家族成員というイメージが私にはある。
 つまり、K君の家政婦は、K君の母親の影の部分、影の母親という印象を受けるのである。受け入れる母親ではなく、拒絶する母親のイメージである。この影の母親が、私が子供時代の私と会うことを禁じているということになる。
 つまり、こういうことではないだろうか。私がNさんと性交する。それはタブー視されている行為でもある。タブー視されるのは、それによって母親の拒絶に出会うためである。この行為によって私は、拒絶的な母親によって、子供時代から隔絶されてしまう。むしろ子供時代に戻ってはいけないのだということである。しかし、本当は、子供時代との間に隔絶ではなく疎通性をもたらすことの方が必要なのではないだろうか。そして、それを通過しない限り、大学の卒業がないということになるのではないだろうか。
 前回の夢では、ひどい怪我を負った猫を手当てした。この猫は女性性を表すものであろうということであった。今回の夢のNさんは、以前までの未知の女性や女性友達のイメージよりも、より衝動的であり、動物的でもあるという感じがする。現実のNさんではなく、ここでは動物性を回復した女性像ということではないか。夢の中の女性象が変容してきたように思う。そして、この女性象が私と結合するということである。<夢46>で中断した行為がここでは完遂されている。
 この夢を見た頃から、私の中で何かが統一されていく感じを覚えている。不思議と、周囲のことで苦しまない。それでいて、今まで以上に自分のしていることに関わることができている感じがする。幾分、調子がいいのである。

(寺戸順司)







<夢49>「誰かを指導する夢」(10月23日)
 詳細は覚えていないが、誰かを指導したり、何かを教えたりしている。その人は同僚だった。彼は私の後輩であり、新人で、私よりも若い人のようだった。

(連想と感想)
 新人を指導するというテーマである。新人とはそこに新しく入ってきた要素である。私の同僚でもあるということなので、この新人は私と同じ世界、あるいは同じ集団に属するということである。このことは<夢42>で、新人の面倒を見るというテーマと同じものである。私は再び、私の中に新たに持ち込まれた要素を育てようとしている。
 この夢をはっきり覚えていないのが残念である。彼が若い人であるということは分かっているのだけど、いくつくらいの若さなのかが不明なのである。従って、その新人がどれくらい成長した姿をしているのか分からないのである。それが分かれば、どの年代のものが新しく入ってきたのかとか、何歳くらい成長している要素なのかということも考えることができるのだが。
 前回のこのテーマである<夢42>に続いて、<夢43>で施設がテロに襲われるという夢をみたのであるが、何か大きな変化が生じる時に、私はこういう新人を指導したり面倒を見たりするといったテーマの夢を見るのかもしれない。
 いずれにしても、何か新しい要素を同化していくプロセスであるように私は捉えている。そして、それは前回の夢で見られたように、女性要素との結合、女性性の同化ということなのかもしれない。

(寺戸順司)







<夢50>「女性を介抱する夢」(10月25日)
 はっきりとは覚えていないが、場所は駅のホームのような場所。若い女性がベンチに座って嘔吐している。私はたまたまそこに居合わせたのか、彼女を介抱している。ペットボトルの水で嘔吐物を流したのを覚えている。

(連想と感想)
 夢はもっと長い物であり、これはごく一部である。この女性は年齢的に若い女性だったように記憶している。私とはつながりがなかった。ただ、私の近くでこの女性が苦しそうに体を沈めていたのを見た。それで私が声をかけたのだと思う。
 嘔吐というと、一番に私の女性友達を思い出す。彼女は嘔吐を怖がっていた。酔っ払いが道端で嘔吐するのを目撃しただけで悲鳴を上げるほど怖がるのである。また、嘔吐からは酔っ払いを連想するし、私の個人的な体験では乗り物酔いも連想する。内臓等の病気を連想する。それにもう一つ、嘔吐ということには感情の解放ということも私は連想する。
 吐くということは、消化できない物を外に出すということである。異質な物、同化できない物を出すということである。また、それは抑えている感情を吐き出すということをも私は連想する。そうしたことをこの女性はしているのであり、私はそれを手助けしているということである。
 前回の夢では新しい要素を手なづけるというニュアンスの夢だったが、この女性にはそれが受け入れられなかった、あるいは飲み込むことができないものであるようだ。この女性はまだ変化についてこれないのかもしれない。
 いずれにしても、吐き出すのは私の方ではなくて、この女性の方である。彼女の体験している苦痛を私はもっと感じ取らなければならないのかもしれない。<夢47>の怪我をした猫といい、怪我をしたり、具合が悪くなるのは、私ではなく、常に私の周囲に存在している人や動物である。私が痛みを感じ取ることができないでいるが故に、この女性や動物たちが痛い思いをしなければならないのかもしれない。私が介抱するということは、部分的には痛みに関わっているとは言え、それを自分の痛みとしては体験しようとしていない態度のように思われてくる。助けはするけれど、共感はしないというような姿勢につながっているように思う。今の私はこういう痛みに耐えられない思いでいるのかもしれない。

(寺戸順司)