<LP021>

<021>高槻カウンセリングセンターはDV問題に取り組んでいます。



<#021A>暴力を生む関係

 DV問題というのは、当事者たちにとっては暴力の問題として定義されていることが多いのですが、この定義はやがて壁にぶつかることになるのです。それが暴力であったかなかったか、暴力をするかしないか、当事者たちはそんなところに膠着し続けることになるからです。
 私はDV問題とは「関係の問題」であると定義しています。暴力が生まれる関係がそこに形成されていると考えるのです。その関係に「被害者」立場の人も無関係ではないのです。
 なぜ、関係の問題であると断言できるのかと言えば、「加害者」立場の人は常に「加害者」ではないからです。「加害者」とされる人たちの話を伺っていると、この人は多くの人間関係で暴力を振るってこなかった歴史が見られるのです。特定の関係において、特定の他者に対してのみ、そして特定の場面においてのみ、この問題が生じているからであります。
 その関係において、一方は「加害者」立場に立つ、もしくは「加害者」以外の立場を取ることが許されなかったりするのですが、そのことは取りも直さず、それが関係の問題であることを示しているのです。
 従って、「加害者」という人間も「被害者」という人間も存在しないのです。その関係において、特定の場面で、一方は「加害者」の役割を取ることになり、他方が「被害者」の役割を取ることになるのです。
 関係とは、双方がその関係に持ち込むものによって、そして持ち込まれたものから引き出されるものによって、さまざまに性質を変えるものです。治療的な関係にもなれば、反治療的な関係にもなり得るのです。お互いに伸ばし合う関係にもなれば、お互いに妨害し合う関係にもなり得るのです。
 この時、その関係に関係している当事者すべてが関係者なのです。相手の問題だからと言って傍観者の立場に立つことは許されないのです。カウンセラーをはじめ、周囲の援助者や身内の人たちもまたこの関係に関係することになるのです。
 DV問題の援助とは、まず、この関係を知ること、この関係において生じていることをきちんと理解することから始めなければならないと、そのように私は考えています。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)






<#021B>DV関係

 DVを生み出すような関係を私は「DV関係」と呼んでいるのですが、これはなかなか概念化できないものです。と言うのも、夫婦はそれぞれ異なるからであり、夫婦を構成している個人にもさまざまな人がおられるからです。
 敢えて簡略化して言えば、DV関係とはお互いが対等になることのない関係であり、双方が「加害者」「被害者」立場を交代させながら進行していく関係であると言えそうです。
「被害者」立場の人もまた、その関係においては、「加害者」立場になることもあるのです。当事者たちには見えていないだけで、そのような場面もあるのです。時に、「被害者」立場の方が先に「挑発」してしまっている例も少なくないのです。
 また、「被害者」立場の人の「無邪気」であることや、「天真爛漫」であることは、それ自体、暴力となることもあるのです。しばしば「加害者」とされる人以上にその傾向が暴力的に働くこともあるのです。
 当事者たちにはなかなか見えない部分が多いのです。それは彼らが関係の中にあるからです。それを理解するには当事者はその関係の外に出る必要があり、その関係の外にいる人間の援助も必要になるのです。
 自分たちの関係で何が生じているかをきちんと理解しなければ、適切な対処も考えられないのです。関係を理解すること、私のカウンセリングはまずそこから取り掛かることになります。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)





<021C>DV問題の克服

 私のクライアントたちは実に多方面からお越しになられます。でも、DV問題とか夫婦問題に関しては、どういうわけか、地元の高槻の人は少なく、大阪府下、奈良県や滋賀県、さらには神戸方面から来られる方が多いように感じています。
 どうも地元では体裁が気になるのか、それとも「加害者」(もしくは「被害者」)から遠ざかりたいと思うのか、地元以外の人たちが来られるのです。
 枚方方面からも、バスの本数も多く、よく来られています。枚方、乃至は京阪沿線の方にお会いすることもよくあるのです。その代わり、高槻在住の人は枚方や京阪沿線でカウンセラーを探されているのかもしれません。
 どの方面から来られようと、クライアントは一人でカウンセリングを受けることになります。夫婦同席面接を私は行っていないからです。
 先にも述べましたように、一旦、当事者は関係の外に出る必要があると私が考えているからです。夫婦が同席されると、結局、夫婦で起きていることがカウンセリングの場に持ち込まれるだけで、それでは意味がないのです。私がその関係で起きていることを目の当たりにしても意味がないのです。当事者がそこを見ることができるようにならなければならないからです。
 そうして、夫婦のどちらか一方が来られるケースが多くなるのですが、ここに「来談者」と「非来談者」の区別が生まれることになります。
 私の経験では、「非来談者」の方に重篤な問題が潜んでいるのです。それは「加害者」立場の人であることもあれば、「被害者」立場の人であることもありますが、こういう人はカウンセリングのような作業乃至は場面を極度に恐れるのです。
 この恐れは、しばしば、その人の人格的な「破綻」と関係しているのですが、ここでは取り上げないことにしましょう。
 カウンセリングが上手くいけば、「来談者」側の人は、自分で自分の人生を棄損し続けていたことを知るのです。今までそれをごまかして生きてきたのです。それに気づくことは当人には苦しい体験ともなるのですが、ここは何としてでも踏みとどまらなければならない部分であり、DV問題のカウンセリングでもっとも難しい局面であるのです。
 DV問題を本当に克服した当事者の中には、「生きる」ということがどういうことであるかを本当に知っていく人もあります。幻想を見ている方が彼らには幸せであったかもしれませんが、結局、それは現実に生きることを放棄しているのです。また、DV問題の克服を通して、「親離れ・子離れ」のテーマを通過する人もおられるのです。
 最初はDVの問題で来談された人たちが、もはやDVのことで悩まなくなるのです。もっと重要なテーマが見えてくるからなのですが、もし、DVを暴力の問題として限定してしまうと、そのような動きは見られないかもしれないと、私はそのように思うのです。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)