<LP011>

<011>高槻カウンセリングセンターはDV問題に取り組んでいます。



<#011A>DV関係

 夫婦、恋人間に生じる暴力はDVと呼ばれますが、DV問題を暴力の問題として定義すると、袋小路に陥り、多くのものが見落とされるようになると私は思います。
 DVとは二人の人間の間に生じる出来事であり、そこにはその二人の人間の関係が先にあるのです。このように考えると、DV問題はDV問題を生み出すような関係が先に形成されているということになります。私はこの関係をDV関係と呼んでいます。
 DV関係とは、両者が加害者と被害者の役割を入れ替えながら進行する関係であり、決して対等になることのない関係であります。それはお互いを成長に導かず、お互いにそれを阻み合うような関係であります。
 人間関係とは、その関係の場にお互いが何を持ち込むかによって、その関係の性質や方向性が決定されていくものです。お互いに何を持ち込み、お互いに何を引き出し合うのかによって、それは治療関係にもなれば反治療的関係にもなりえるのです。
 そこに当事者たちのパーソナリティや歴史が関係することになるのですが、何よりも、相手も自分も、その関係の場に何を持ち込んでいるのかを知ること、持ち込まれたものからお互いに何が引き出されているかを知っていくことが肝心であると私は考えています。
 今のことを言い換えると、その関係の中で何が起きているかをきちんと理解し、正確に把握すること、ということであります。関係の真っただ中にある当事者たちにはこれが非常に難しいことであり、仮に理解していると信じていても、そこには多くの幻想や思い込み、誤謬が入り込んでいることも少なくないのです。だから、これを知っていくためには第三者の援助が必要となってくるのです。
 確かに、この作業は苦しいものとなり得ます。真実のものが見えてくるからです。それよりも幻想にしがみつく方がはるかに安全であるかもしれません。でも、幻想にしがみついている間に、その人の人生は消耗され、蕩尽されていっているかもしれません。
 私はDV当事者に選択を強要することはありません。どちらを選ぶかは当人次第です。安全で不毛な人生を送ろうと、危機を経験してでも実りのある人生を送ろうと、その選択は当事者がすることであり、私が押し付ける類のものではありません。
 人生をより良いものにしたいと本気で願う人だけに来てくれればいいと考えています。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)






<#011B>発達的観点

 私たちは常に発達し続ける存在です。一定不変のまま留まるようにはできていないのです。最後まで、私たちは成熟していくのです。
 関係という視点に加えて、発達という観点もまた重要なのです。私たちは全体的に発達を果たしているとは言えず、ある部分では発達が十分になされ、ある部分では未発達であるかもしれません。そうした停滞した部分に発達の道が開かれていくことが「治療」であるとも言えるのです。
 ある女性は、交際する人からことごとく暴力を振るわれていました。そして、やはりそういう男性と結婚していたのでした。これまで、彼女は自分には男運がないと言ってごまかしていました。
 この女性はどうしてそういう男性にばかり縁があるのでしょうか。詳しく話を伺ってみると、どうやら事態はもう少し複雑なようでした。
 若いころから、彼女は自分に親切にしてくれる人や言い寄ってくる人を嫌悪していました。彼女に言わせると、そういう男は下心が見え見えなのだということです。彼女にとって、男とは、決して自分に言い寄らない、硬派な人であるということでした。
 そうして、彼女は自分に暴力を振るう男性と一緒になってきたのでしたが、彼女の言っていることはどういうことだったのでしょう。彼女は自分に愛情を向けてくれる人に対してはその愛情を疑い、愛情を向けてくれない人から愛情を引き出そうとしてきたということになります。
 では、愛情を向けてくれる人の愛情を疑うとはどういうことなのでしょう。端的に言えば、彼女は愛情を恐れているのです。愛されるということがとても恐ろしいのです。そこに彼女の問題の一つがあるのでした。
 次に、彼女が愛されることを恐れているのだとすれば、どうして愛情を与えてくれそうもない相手を選ばなければならないのでしょうか。彼女は愛を恐れて一生独身のままでいることだってできたはずなのに、なぜ彼女はそういう男性と一緒になろうとするのでしょう。
 やがて明らかになってきたことは、彼女は「自分は愛されない人間だ」と信じていたことでした。だから愛情を注いでくれる人は脅威だったのです。つまり、自分は愛されないと信じている人にとって、そういう自己像を有している人にとって、愛情を向けてくれない相手の方が親和性があるわけです。愛情を向けてくれる人は、自分の有している自己像を脅かす存在となってしまうのです。
 彼女はいつごろからそのような自己像を持つようになったのでしょう。彼女の思い出せる限りでは、彼女が小学生のころからそういう感覚があったということでした。
 彼女は小学生頃に形成されていた自己像を、そのまま変えることなく維持してきているのです。彼女の、少なくともその部分の発達は、小学生以前から停滞したままだったのです。
 彼女はこの辺りまでは理解できるようになっていましたが、自分の自己像が変わることは、それ以前の自分を失ってしまいそうだと思い始め、カウンセリングから離れていったのでした。
 停滞していたものを推進していくだけであり、本当は何も失われるものはないのですが、彼女は悪いことが起きると信じてしまったのでした。そうして暴力的な男性との関係に戻ってしまったのでした。非常に悲しい結末を迎えたケースでした。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)






<#011C>カウンセリング

 カウンセリングとは二人の人間、カウンセラーとクライアント、の話し合いの場であります。そこには多くの活動があり、簡潔に述べることがとても難しいのですが、いくつかの点だけここで取り上げておきます。
 クライアントはここで自身の語り直しをしていきます。この語り直しを通して、クライアントに「新しい目」が生まれてくるのです。
 もし、あなたが「新しい目」を持つようになれば、今までとは違った世界が見え、問題が今までとは違った姿で見えるようになるでしょう。何よりも、新しいあなたが見えるようになるでしょう。そして、抱えている問題に対しても、新しい対処を試みる道が開けていくのです。
 クライアントが語り直すのはクライアント自身の体験であり、他者のそれではありません。クライアントは過去から現在までに経験したこと、さらにはこれから経験するであろうことについても語り直していくのです。
 この語り直しは、原因探求の作業とは異なるのです。ここを誤解される方もおられるので注意しておきます。原因探求とは、現在の何かから目を背けるために
なされることが多いのです。一つの現実逃避の口実に過ぎないと私は考えています。
 そうではなくて、過去の経験をクライアントが現在の自我で再吟味するのです。過去において、その経験はクライアントの自我には手に負えないものであったとしても、現在において、援助者の力を借りてでも、その経験がクライアントの自我で扱えるようになれば、その経験はクライアントにはもはや脅威ではなくなっていくのです。
 こうした作業を通じて、クライアントの自我がより機能していくのです。自我が機能すればするほど、その人の対処できる場面、処理できる事柄が多くなるのです。治療とは自我機能の回復でもあるのです。
 こうした作業や過程は、自分自身の理解、あるいは自分たちに起きていることの理解を通してなされていくものです。人は自分自身に理解されている事柄が多いほど、安定した人間になるものなのです。自己理解が安定をもたらすものであり、この話し合い乃至は語り直しは、それをも目指しているのです。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)