<テーマ226>夫婦問題における「非来談者」とその自我(4)

<テーマ226>夫婦問題における「非来談者」と自我(4)

(226―1)自他の混同
(226―2)属性付与
(226―3)属性付与に関する一考察


(226―1)自他の混同
 自我の働きの一つは、対象を区別し個別化することにあります。この働きが損なわれると、対象は区別化も個別化もされず、相互に流入し合い、さまざまな領域で混同が生じます。前項では、出来事や体験の混同、感情や雰囲気の混同、時間の混同ということを述べてきました。本項では、もう一つの重要な混同である自他の混同を取り上げることにします。
 自他の混同というのは、自分と他人の境界線が不鮮明であるということであり、また他者間の相違が失われていくという意味であります。
 ある「非来談者」は、カウンセリングを受けて自身の問題に取り組み始めている夫に向かって、「あなたは何も取り組んでいない」と非難を浴びせます。しかし、良く考えると、取り組んでいないのは「非来談者」である妻の方ではないでしょうか。この妻は、少なくともその時点では、自分ではカウンセリングやそれに類する援助機関を利用しているわけではなく、自分たちの問題に関して調べたり学んだりしていませんでした。
 ここでは、相手に向かって言っていることが、実は自分自身のことを言っているという構図が見られるわけであり、これは自分と相手との間にある種の混同が生じていると考えられるわけであります。
「非来談者」は相手に「あなたは~だ」とか「あなたは~していない」といった言葉をかけます。これらの文章の「あなたは」の部分を「わたしは」に代えてみるとどうでしょうか。私は「来談者」に尋ねてみます。多くは、これはむしろ「非来談者」側の人によく該当するようだということに気づかれます。時には、自分にも相手にも該当すると答える「来談者」もあります。それでも、自分に向かって言われているのだけれど、それは自分にも当てはまるようだし、相手にも当てはまるようだけど、どちらかと言えば相手の方により当てはまる感じがするという感じがすると答えられる「来談者」も少なくありせん。
 ある「来談者」は「非来談者」のこの混同をかなりはっきりと述べています。「妻の言っていることを聞いていると、誰のことを言っているのか分からなくなる。子供に向かって言っていることでも、どこか自分のことを言われている感じがする」と彼は話しました。
 自他の混同が生じるのは、主体が弱まっているからでもあります。自分と他人との区別は、自分という視点がしっかり築かれていることによって可能になります。この主体の部分が弱くなっているので、視点の基盤がはっきりしなくなるのだと思われます。
 自他の混同が生じるということは、何が自分に属するもので、何が相手に属するものであるかが不明瞭になるということでありますので、しばしば、自分の何かに取り組んでいるようで相手の何かに取り組んでいたり、本当は自分の感情なのだけれど相手の感情だと認識したりといった事態が生じます。
 こうした状況は、二人の関係を過度に融合的にしてしまうのです。融合的になればなるほど、相手や周囲を巻き込む度合いが増えることになります。「時差来談者」の中には、自分一人だけでカウンセリングを去ることができず、パートナーをも巻き込んで一緒に中断する例もありますが、この現象も「非来談者」側の自他混同があり、融合的に相手を巻き込む結果生じているのだと思われます。また、そこで「来談者」側も一緒になって中断するとなれば、「来談者」側にもある程度の融合的関係を築いている可能性があるように思われます。

(226―2)属性付与
 自他の混同が生じると、夫婦関係の多くの場面で困難な状況をもたらします。巻き込まれる側もやがて自分がよく分からなくなるという体験をされることもあります。そしてお互いに巻き込みあうような関係を築いてしまう場合もあります。
 ある「来談者」男性が困難を覚えたやりとりを見てみましょう。
 二人はあることで口論をしました。お互いに感情的になる場面もあったようですが、一段落ついたところです。
妻「怒っているんでしょう」(つまり「私にはあなたが怒っているように見える」という意味です)
 夫「いや、怒っていない」(彼の話では、口論が一段落ついて、どちらかと言うと「ホッとした」感じがしていたそうです)
 妻「いや、怒ってるはずだわ」(妻にはそれ以外の可能性が考えられなくなっている)
 夫「怒ってないって」(「君はどうなの?」と訊いてみる方が良かったと思う)
 妻「あなたが怒りを鎮めるなんてことできないもの」(自他の混同。本当の意味は「わたしがこの怒りを鎮めることができない」ということだと思う)
 夫「しつこい! 怒ってないって言ったら、怒っていないんだ」(夫、怒りで反応してしまう。この怒りは、自分ではない属性を付与されたことに基づくと思われます)
 妻「ほら、やっぱり怒っているんだ」(投影同一視が生じている)
 以後、怒っているか否かでの口論が続く。
 この体験を語られた時、彼は自分が、「怒った」のではなく、「怒らされてしまった」ように感じていたと述懐しました。「させられ体験」として、彼はその場面を体験していたのでした。
 そして、この男性は自分の体験している不快感がどういうものであるのか、自分でもよく分からないでいました。ひどく漠然とした不快感としか表現しようがないのでした。確かに、こうした場面ではそのように体験してしまうことでしょう。
 この例では、妻が積極的に夫にある種の属性を付与しようとしており、夫はそれに反発しようとしているのですが、結果的に妻の言う通りのことが生じてしまっているのです。
「属性付与」というのは、ここではR・D・レインの用語を借用しているのですが、自分に属していない属性を相手から一方的に付与されてしまい、自分でないものが自分のものにされてしまうという体験様式であります。
 上記の例では、「怒っている」というのは、妻の側の体験であり、妻に属する観念でした。これが妻に属するものとして表現されず、夫に属するものとして表現されています。つまり、この属性が夫に付与されているわけであります。
 この属性付与(「あなたは怒っている」)に対して、彼は否定で答えています。しかし、彼の否定は承認されません。さらにこの属性が一方的に付与されていきます。彼はさらに否定形で答えます。
この否定形に対して、妻はさらなる属性付与をします(「あなたは怒りを鎮めることのできる人間ではない」)。ここで夫は「ダブルバインド」状況に置かれてしまいます。この困難な状況において、彼はいやが上にも一つの反応を採択しなければならなくなっています。つまり、彼は怒っているとみなされ、尚且つ、彼が怒りを鎮めることのできない人間であるというメッセージは、彼に怒りを実現する傾向を強めさせることになるのです。彼は怒りを実現させてしまいます。そして、これは妻の見解をも実現させる結果となったのでした。

(226-3)属性付与に関する一考察
 属性付与ということが出たついでに、いくつかこれについて記述しておこうと思います。
 夫婦関係の問題、特にDVのような問題においては、こうした属性付与が頻繁に見られるのです。「加害者」「被害者」といった言葉には人格的な意味合いを含まないと私が繰り返し述べるのも、これらの言葉が属性として利用されてしまう現状があるからです。
 属性付与はあらゆる人間関係で見られるものです。問題となるのは、どのような属性が、どのような形で付与されるかということであります。個人の自己アイデンティティに属さない属性を反論できない形で付与されてしまうことが特に問題であり、それは付与された個人を大いに苦しめることになります。それに対して反論したくても、別のメッセージによってその反論が封じられている場合(「二重拘束」状況)、この属性は受け入れるしかなくなるわけです。
 人間関係において、何が属性付与に関与するかということはとても難しい問題です。そもそも、人間関係はいくつもの要素の複合体であります。ここに二人の男女がいるとしましょう。この二人にはそれぞれの自己認識、相手認識がありますし、さらにこうなって欲しいといった願望とか理想というものを双方が持っています。これを列挙すると以下のようになります。
 まず、彼の側から見れば、①彼の自分がどういう人間であるかという認識(彼の自己認識)②彼の彼女がどういう人間であるかという認識(彼の彼女認識)③彼の自分がどういう人間でありたいかという認識(彼の理想的自己認識)④彼の彼女がどうあってほしいかという認識(彼の理想的彼女認識)が挙げられるでしょう。
 同じことが彼女の側にもあります。⑤彼女の自分がどういう人間であるかという認識(彼女の自己認識)⑥彼女の彼がどういう人間であるかという認識(彼女の彼認識)⑦彼女の自分がどういう人間でありたいかという認識(彼女の理想的自己認識)⑧彼女の彼がどうあってほしいかという認識(彼女の理想的彼認識)
 他にもいろんな認識が関わってくるのですが、これらすべてはこの二人の関係の場に投与され、二人の関係を規定するのに一役買っているのです。彼女が彼に属性を付与する場合、問題となる属性付与とは⑥や⑧が①になってしまう上に、そうせざるを得ないという状況であります。しかし、⑥は⑤によって規定されることが多く(例えば、自分が弱い人間だと認識しているから、相手を強い人間だと認識してしまうなどのように)、もし、⑤が現実の彼女からかけ離れたり、歪んでいたりする場合には、⑥も必然的にその影響を蒙ることになります。また、⑦は⑤と対立する認識でもありますので、もし、⑤が歪んでいれば、⑦も非現実的になる可能性が出てきますし、⑧は⑦を基礎にして築かれるものでもある(⑥が⑤によって規定されるのと同様)ので、⑧の認識にも影響が出ることになります。
 彼が彼女に属性を付与する場合にも、同じことが生じます。繰り返しになるので省略しますが、いずれにしても、相手に付与される属性はその人が認識されているものに基づくものであります。
 私がよく出会うのは、結婚相手に親を期待し、「親」の属性を付与する行為であります。本当は相手は「親」ではないのですが、何らかの形で無意識的に「親」属性を付与するのです。尚悪いことに、「理想の親」に近づけるために、現実の相手を変えようとすることも生じます。ここでは相手は自分自身であることが許されなくなってしまうのです。
 その他、どのような属性が付与されるとしても、それが現実のその人からかけ離れたものであったり、受け入れがたいものであったり、その人のコンプレクスを刺激するようなものであればあるほど、付与される側は苦しむことになります。
 属性付与に対する適切な対処は自他の認識にしっかり区別をつけることだと私は考えています。つまり、「あなたが私をそういう人間だと見ているなら、それはそれで構わない。でも、私は自分がそういう人間ではないということを知っている(*注1)」という確信を持つことなのです。相手が私に関して有している認識と、私が私自身に関して有している認識とがはっきりと違うものであり、それを私の中で分けておくということであります。
 当たり前のように聞こえるかもしれませんが、これがけっこう難しい場面や関係もあります。先述のように二重拘束状況が出来上がっている場合もあります。また、こうした区別は相手との距離が広がってしまうように思われてしまうかもしれません。それが脅威と感じられる場合もあるでしょう。この認識の相違が関係の破綻につながるのではないかとか、そうした恐れがあると一層難しいことだと思います。時には、相手との友好な関係を維持したいがために、表面的に付与された属性を受け入れてしまうのです。それを受け入れた上で反論しているといった例がけっこうあるように思います。
 ある男性は妻から「犯罪者」呼ばわりされていました。「あなたは犯罪者だから」「犯罪者の言うことだからなあ」「そういうことができるなんて、やっぱりあなたは犯罪者ね」といった言葉を彼は浴びせかけられます。この「犯罪者」という観念は妻に属するものです。彼はその場で妻に反論します。しかし、その後、彼は決まってこの体験をライン上で展開し、多くの人に共有してもらおうとするのですが、彼のこの行動は妻からの属性付与を引き受けていることを示しているように思われるのです。彼に損なわれているのは、「私は自分が犯罪者ではないことを知っている」という確固とした自己認識なのです。そのように私には考えられるのです。

 さて、本項も長文となりましたので、次項へと引き継ぐことにします。次項では、属性付与に関するいくつかの問題点をもう少しだけ記述し、それから自他未分化の関係、並びに曖昧さの排除という観点、そして無力に終わる関係へと論を勧めたいと思います。

(*注1)
「それはそれで構わない」と一言で片づけてしまいましたが、ここに含まれる内容は以下のようなものです。
「あなたが私をそういう人間だと見ているのなら、あなたには私がそういう人間に見えるだけの正当な理由がきっとあるのだろう。だから、そのことであなたを責めたり咎めたりするつもりはない。ただ、私は私がそういう人間でないことを知っているので、私はあなたの認識に従うことはできない」


(文責:寺戸順司)