<テーマ225>夫婦問題における「非来談者」とその自我(3)

<テーマ225>夫婦問題における「非来談者」とその自我(3)

(225―1)出来事、体験の混同
(225―2)両極化
(225―3)感情と雰囲気による経験の均質化
(225―4)時間体験の混同


(225―1)出来事、体験の混同
 さて、ここから自我機能のもう一つの側面、出来事を対象化し、それを個別化するという側面に移ろうと思います。
 自我機能が損なわれていなければ、「今、ここでの出来事」と「かつてのあの出来事」とが混同することはありません。それらは個別の体験として個人の中に留まっているのです。ところが、こうした個別化ができなくなった場合、今ここでしている体験と過去の体験との混同が生じます。
 この体験を私はうまく言い表すことができません。どうも「非来談者」たちの言葉から察すると、今現在の出来事に過去の様々な出来事の記憶が流入してくる感じであるように思います。
 ある「来談者」は「非来談者」である妻にどう応じていいか分からないと訴えていました。問題になる場面をできるだけ逐語的に記録してほしいと私はお願いしたのでしたが、それも上手くできませんでした。何度目かの挑戦で、彼はようやく記録のようなものを作成できました。
 そこでは、まず最初に妻が一斉に何かを言い始めるのです。そして、それに対して何か言うことがあるかと彼に迫るわけです。彼は何も言えないのです。何も言えなくなってしまうという方が正しいでしょう。妻は、何も言おうとしない夫を見て、「あなたは問題から逃げている」とさらに追及するのです。
 最初に妻がどういうことを言っているのか、私は彼の記録に目を通してみましたが、正直に申し上げると、まったく理解できませんでした。私は彼に「奥さんはどのエピソードのことを言っているのでしょうね」と尋ねてみます。実は彼もそれがよく分かっていないのでした。彼からすると、あの時のことを言っているようでもあり、別の時のことを言っているようでもあり、明確にできていないのでした。それで、どのエピソードのことだろうと考えていると、今度は「逃げている」と言われて、新たな題材が彼に覆いかぶせられるのでした。
 この妻は、おそらくある特定のエピソードについて夫に問いただそうとしていたのだと思います。しかし、そのエピソードに他のさまざまなエピソードの記憶が流入してくるのでしょう。結局、妻本人にもどの場面のことを取り上げたいのかが分からなくなっているのだと思います。
 また、この男性は、ある時、妻が過去のさまざまなことを彼に訴え、辟易した経験を話されました。その時、女は昔のことを忘れないもので、「女ってそんなものでしょう」とおっしゃったのです。「女ってそんなものでしょう」はとても危険な考え方です。ここでは妻個人がもはや見られなくなっています。
 それはともかくとして、妻の訴え方におかしな点を感じないでしょうかと私は彼に尋ねました。彼には理解できませんでした。私は少し彼に説明します。
 人が過去の記憶を呼び出す時、それは連想という形でなされるものです。例えば、体験A
を思い出します。その体験Aから連想された体験Bが思い出され、体験Bに関する連想が体験Cの記憶を呼び出すのです。体験A→B→Cというように思い出されていくわけです。しかし、この妻の話はそういう風には進んでいなくて、体験ABCが同時に一斉に飛び出してくる感じがするのです。一斉に飛び出して、ABCが瞬時に移り変わり、A→B→C→A→B→C→A→B→C・・・と小刻みに提示されるような感じなのです。
 この説明を聞くと、彼はすごく納得されて、確かに妻の話はそのような形を取ると言うのでした。そして、このために妻の話に焦点が合わせられなくて、どう答えていいものやら分からなくなるということに思い至ったのでした。
 この妻は、体験ABCのそれぞれの個別化に「失敗」しているわけであります。

(225―2)両極化
 上述の例で言えば、体験ABCは体験ごとに区別されているのではなく、体験ABCに共通の感情や雰囲気で括られていると言うことができるかもしれません。
 自我が対象を個別化する機能を失うということは、微妙な差異を見ることができなくなることを意味します。これは両極化を生み出すことになります。
 どういうことかと言いますと、例えば「良い体験」と「悪い体験」との間にはいくつもの中間段階があります。「けっこう良かった」―「まあまあ良かった」―「それなりに良かった」―「悪くはなかった」―「やや悪かった」―「それなりに悪かった」―「まあまあ悪かった」―「けっこう悪かった」など、もっと挙げることもできるでしょう。しかし、「まあまあ」とか「それなりに」とか「やや」といった部分は、微妙な差異を認めることができなければ生じない観念であります。こうした差異を見ることができなくなると、極端な話、体験は「良い」ものであるか「悪い」ものであるかのどちらかしかなくなるということであります。極端になるのです。
「来談者」はしばしば「非来談者」のこの傾向に苦しむようです。両極端なものを突き付けられるような体験をしてしまうのです。常に「イエスかノーか」で、「ゼロか100か」で答えるように強いられるような感じがしてしまうようです。「どっちでもない」とか「どちらとも言えない」などと答えると、「非来談者」から「考えようとしていない」とか「逃げている」といった非難を浴びせられてしまうのです。
「治療」を巡って、「非来談者」のこの両極化はさらに顕在化してきます。ある「来談者」は、3回ほどカウンセリングが継続した時点で、「非来談者」からいきなり「どう、分かった?」と訊かれました。彼はカウンセリングで得た知見を話しましたが、「それって、全然、分かっていない」と、妻をさらに怒らせる結果となりました。この妻にとって、「分かった」というのは、「すべてが分かった」ことを意味しており、少し理解が進んだとかいった程度のものは「分かった」ことにはならないのでしょう。
 ある女性クライアントにもこうした両極化の傾向が見られました。この女性は「非来談者」から「時差来談者」になられたのでしたが、夫のDVに関して、「完全に大丈夫」という保証が得られなければ安心できないと語りました。私は彼女にそれはあまりに「完全主義的」すぎると指摘したのでしたが、「完全でなければ怖いんです」と彼女は答えたのでした。上手いことを言うものだと感心しました。
 彼女の話では、夫のDVが怖くて、それでこの「完全主義」が現れたのだという説明なのです。しかし、私が思うには、先に「両極化」があって、それが今ここでは夫のDVに対する恐怖感と結びついているのではないかと、そんなふうに思われたのです。自我の「弱体化」の方が先に生じていて、そのために「完全な保証」を求めずにはいられなくなっているはずなのです。ところが、彼女は自分の自我が「弱体化」しているという部分には触れず、相手が安全であるかどうかの保証を求めようとしているのでした。

(225―3)感情と雰囲気による経験の均質化
 さて、体験された出来事は、出来事として個別化されているのではなく、感情や雰囲気で括られてしまうことがあります。「ひどい体験」と「まあまあひどい体験」「ややひどい体験」との間の差異はなくなり、それらはどれも「ひどい体験」として括られることになります。
 ある「来談者」はDVの「加害者」としてカウンセリングを受けていましたが、後から後から「あれはDVだった」「これもDVだった」と妻から言われることにいい加減ウンザリしていたようでした。
 挙句の果てに、新婚旅行でさえDVだったと妻は言い始めるのです。これは彼の記憶とははるかに矛盾するのです。彼は、妻は新婚旅行ではけっこう幸せそうだったと記憶していますし、何一つ不満を聞いたことがなかったのです。それが今では、それもDVだったと妻が言い始めているのです。
 どうしてそうなったのか、私には分かりません。恐らく、その妻にとって、新婚旅行中に何かちょっとした不都合なことがあったのでしょう。それは、当時はそれほど気にならないことだったかもしれませんし、自我はそれに耐えることができていたのでしょう。しかし、妻の今現在体験している不都合な感じが、それに通じるのでしょう。ここで今現在の体験と新婚旅行での体験の差異は失われ、どちらも同じ「ひどい体験」だったと括られてしまっているのだと思います。
 出来事との間に距離が持てず、自我が対象を個別化できなくなってしまうと、その出来事に付随する感情や雰囲気が前景に現れ、その感情や雰囲気の系列で体験や出来事が一緒になってしまうのでしょう。「辛い」という感情は、「やや辛い体験」も「けっこう辛い体験」も、すべて同列に位置付けられ、均質化してしまう、体験ごとの差異が失われ、すべてが同種の体験として見做されてしまうのだと思います。こうして、「非来談者」の中では、相手の言動がすべてDVになってしまうということも生じるのだと思います。

(225―4)時間体験の混同
 自我が対象を区別する機能を損なわれると、いくつかの領域で混同が生じます。体験ごとの区別が損なわれたり、感情の差異が無くなったりするということを、ここまで述べてきました。もう一つ重要なことは時間系列の喪失、時間体験の混同であります。
 ある「来談者」男性は、自室でくつろいでいました。そこにいきなり妻が入ってきて、彼に「噛みついて」きます。彼は妻からゴチャゴチャ言われるのを避けようと、ここ数日は大人しくしていましたので、彼には妻が何を言っているのか分かりませんでした。
 この時、彼はふと「今度妻との間で困惑した時には、妻にどの時のことを言っているのか確認してみてください」という私の忠告を思い出し、彼は妻に「一体、いつのことを言っているのだ」と尋ねました。妻は「言わなくても分かるでしょう」と答えます。彼はそれでも「何について話し合うつもりなのかを確認したい」と答えます。妻は「分からないのはあなたに自覚がないからだ」と応じます。こうした応酬をしばらく繰り返した後、彼はようやく妻が念頭に置いているエピソードを了解したのでした。それは二人が大学生だったころのことで、今から20数年も昔のことだったのです。それを妻は、あたかもさっき体験したことのように述べていたのでした。
 こうした時間体験の混同は、自我が「参って」いる人にはよく見られることです。過去が過去にならず、また過去のこととして取り上げられず、現在性を帯びてしまうのです。過去の不幸は、今現在の不幸として再現され、追及されてしまうのです。
 時間体験の混同は、その時間に関する表現に現れてきます。このような人たちは、「去年はこうだった、2年前はああだった、3年前はもっとこんなだった」というような表現をしなくなり、「いつもこうだった」とか「昔からあなたはそうだった」とか「前々からこうだった」というように、時間に関する箇所で具体性を欠くのです。
 時間体験の混同、ないし時間性の喪失は、いかなる変化や動きをも排除してしまう傾向を強めてしまいます。物事は一定不変となり、自分も世界も動いていかない固定した存在になるのです。
 しばしば、「非来談者」は「何も変わっていない」とか「少しも良くなっていない」ということを相手に伝えることがあります。私から見ると、「来談者」には変化が見られているのですが、「非来談者」からすればそうではないようです。相手に対して、事物に対して、一定不変を見てしまうのは、時間性を失ってしまっているからでしょう。
 従って、「非来談者」並びに「時差来談者」をもっとも苦しめる問いかけの一つは、「あなたはどうなりたいですか」なのです。私はこの問いを「時差来談者」にしてしまって、たいへんな目に遭ったことがあります。この問いは、時間軸の中に生きている人には答えられるものなのですが、そうでない人にはとても答えられない類の質問なのです。当時、そこに気づかずに、私はその問いを発したのでした。その人はひどく怒ってしまったのでした。その時の私には訳が分からなかったのですが、それも当然のことだと今では理解できるようになったのでした。

(文責:寺戸順司)