<テーマ224>夫婦問題における「非来談者」とその自我(2)

<テーマ224>夫婦問題における「非来談者」とその自我(2)

(224―1)二つの注意点
(224―2)自我と出来事の同一化
(224―3)感情や雰囲気の優位
(224―4)良くない何かの追放
(224―5)「非来談者」の動き


(224―1)二つの注意点
 前項では自我の機能について述べました。自我が「弱体化」して、こうした機能が果たせなくなった時、自我が「破綻」したとみなすことができます。DVなど夫婦関係の問題というのは、お互いが苦しめ合う関係なので、当事者のうち、より自我の「脆弱」な側が先にこうした「破綻」を来すことになります。
 私の経験の範囲では、こうした自我の「破綻」は、「来談者」側にも見られることがありますが、多くは「非来談者」側に先に生じているように思われるのです。これから述べることは、「非来談者」側に、あるいはより自我の「脆弱」な側に、どのような形でこの「破綻」生じ、それはどのような経緯を辿り、また、それに付随してどのような現象が生じるかの考察であります。
 ただし、次の二つの点に留意しておきたく思います。
 まず、「非来談者」のことは、実際には分からないということであります。現実にお会いしたわけではないので、「来談者」から間接的に伺ったことや「時差来談者」から得た情報に基づいて憶測するしかないのです。従って、私が述べることは、一つの仮説のようなものであり、現実の「非来談者」にすべて該当するわけではないかもしれないということを押さえておきたいと思います。
 もう一つの点は、自我が「破綻」すると言っても、そこにはさまざまな段階があるということです。論点をはっきりするために、私は極端な例を挙げることが多くなるだろうと思います。従って、私は「破綻」がかなり進行した像を描くことになるのですが、そこに至るまでのいくつもの段階は十分には取り上げることなく終わるかもしれません。その点はご了承いただきたく思います。

(224―2)自我と出来事の同一化
 自我は出来事との間に距離を置き、その出来事を対象化するという働きがあります。もし、その出来事が強烈で、自我がそれに対して距離を置けなくなった時、その出来事は自我を圧倒し、自我に侵入してくるような、呑みこまれるような体験となります。
 また、自我が「弱体化」して、出来事に距離を置くことができない場合、通常であれば耐えることのできるような体験であっても強烈な痕跡を残すことになります。
 この時、自我と出来事との間に距離がなくなり、その出来事は自我を占めていきます。私はこれを「自我と出来事との同一化」というふうに呼ぶことにしたいと思います。その出来事がそのまま自分自身になる、もしくは自分の大部分を占めるような体験となるという意味で同一化が生じていると考えることができるのです。
 ここでは出来事は圧倒的な重大性をもって自我に迫ることになり、自我はそれに対応できず、自我はその出来事に呑みこまれ、自我を占めていきます。そして、それはそれまでの自我の同一性を脅かしたり、内面の混乱をもたらしたり、その結果として論理性を失わせることにつながります。

(224―3)感情や雰囲気の優位
 さて、体験される出来事には感情とか雰囲気が伴います。自我と出来事との間に距離があれば、私たちはある出来事を経験し、その上で、その出来事が「悲しい」ものだったとか、「不幸な出来事だった」というように特定できます。ここでは出来事が優位で、感情や雰囲気は二次的であるという関係が生じています。
 距離が取れているので、その出来事、その体験が「悲しかった」とか「辛かった」というように表現できるのです。しかし、距離が取れていない場合、そうした感情や雰囲気は、「悲しい」とか「辛い」といった明確な形を取ることができなくなり、ひどく漠然とした何かとして体験されるのです。
 また、出来事と自我が同一化すると言う時、本当に同一化されるのは、こうした感情や雰囲気の方であるのかもしれません。ここでは、出来事よりも感情や雰囲気が優位であるという関係が見られるように私は思います。出来事に付随する感情や雰囲気が自我を占めていき、自我はそれらに同一化して、一体化してしまうということであります。
 このことは、つまり、「私はよくないことを経験した」という本来の体験様式が、「私が良くない」という体験様式に変ってしまうということなのです。「私が経験したあの出来事が不幸だった」のではなく、「私自身が不幸なのだ」という様式に一足飛びに移行してしまうということなのです。
 良くなかったのはその出来事なのです。しかし、出来事が距離を置いて対象化されないために、それは自我にそのまま入り込んでしまうのです。そして、「私(の自我)が良くない」というように体験されてしまうのです。
 加えて、その感情や雰囲気というのは、特定の形を与えることができないので、漠然としたもの、モヤモヤした何かとして心の中に留まり続けることになることも多いのです。

(224―4)良くない何かの追放
 ここまでの話がよく分からないと感じている方もおられるかもしれません。それは構いません。ただ、これから述べる部分が重要なので、これまでの話はその前置きのようなものだと捉えていただいて結構であります。
 さて、出来事との間に距離が取れなくなっているので、出来事と自我との一体化が生じ、本来は出来事に付随していた感情や雰囲気がそのまま自己になっていきます。良くない何かを抱え、自分が悪い存在になってしまうのです。
 当然、こんなものを抱えるのは苦しいことなので、できればこの良くない何かを追い出したいと、そう思うようになります。その時に、この人がどういうことをするかということが、ここで注目しなければならない点であります。
 出来事と自分が一体化しています。その出来事は良くない何かであり、それは今では自分自身になっています。そのため、その良くない何かを自分から追い出さなければならないとなれば、その人は自分自身を追い出さなければならなくなります。
 また、その不幸な何かを消去したいと思えば、その人は自分自身を消去しなければならなくなるのです。その悲しい何かを忘れようとすれば、その人は自分自身に無関心にならなければならなくなるのです。出来事に付随する感情や雰囲気を処理したいと思うわけですが、その処理行為はそのまま自分自身への行為となってしまうということなのです。
 自分の中に留まり続ける何かを追い出すために、その人は自らを追い出すということをします。「非来談者」にはしばしばそういうエピソードがあります。女性の場合だと家出だったり、男性の場合だと短期間の蒸発であったりします。
 また、自分の中の何かを消去するために、自分自身を消去しようという試みをされる方もおられます。これは、例えば自傷行為だったり、自己毀損的なニュアンスの濃い活動に没頭するなどです。あるいは、破壊活動だったりします。ある「非来談者」は状態が悪化する以前に、ヒステリーのようになって、家中のものを壊す時期がありました(この事例は後に取り上げることになると思います)。
 しかし、こうした自己破壊的な活動というのは、それ自体耐え難いものであります。そこで、次にどういうことが起きるかと言うと、自分を追い出したり消去したりする代わりに、誰かを追い出したり消去しようという試みが見られるのです。
 この誰かは、「非来談者」にとって、自分の延長にあるように感じられる人であったり、その出来事に深く関係している人であります。ここでは配偶者にその役が充てられるのですが、時にはそれが子供である場合もあります。
 この場合、その人が家出をしたり蒸発したりするのではなく、積極的に相手を追い出す行為としてそれが現れます。I氏のように、家を追い出される例は少なくないのです。
 また、「非来談者」の言葉が非常に辛辣になってくることも多いのですが、「来談者」から伺ったところでは、「来談者」を「消去」するような言葉が増えるのです。「あなたと一緒にいたくないだけ」とか「どこかよそで暮らしてくれればいいのに」とか、「お願いだから目の前から消えて」などなど、「来談者」からすれば、訳も分からずにこういう言葉を浴びせかけられるので、非常に混乱することが多いようであります。
 一人の「非来談者」が、自分の何かに対応する手段を変える度に、「来談者」や子供への態度がコロコロ変わるという例もよく聴きます。出て行けと言われたり、消えてくれと言われたり、急に無視されたり、いきなり突っかかって来られたりするという例もあります。「非来談者」が不安定になっていると言えばそれはそれで正しいのでしょうが、むしろ、「非来談者」のその「何か」に対するその時々の取り組みの違いを表しているように私には思われるのです。
 自分の中の何かを追い出したいと思えば、相手を追い出すような言動が見られ、この何かを消去したいと思えば、相手を消去するような言動が見られるということです。その何かに無関心でいようと思えば、相手に対する無関心としてそれが現れるのです。その何かに攻撃的に取り組もうとすれば、相手に対する攻撃的態度としてそれが現れるということであります。これらは自分の中に抱えられている「何か」に対する対処でもあるのですが、それを他者を通じて行っているわけであります。
 ここが私にとっては重要な部分なのですが、この何かを「治療」しなければならないと「非来談者」が感じると、相手に「治療」を受けさせる行為としてそれが顕在化するのです。この時に、相手が「来談者」となることも多いのです。従って、一方がカウンセリングに送り込まれた時、他方の「非来談者」はすでに自我が「破綻」している可能性が高いのです。

(224―5)「非来談者」の動き
 自我が出来事との間に距離を持てなくなるのは、もともと「脆弱」だった自我がさらに「弱体化」したために自我機能が衰退しているためであると、ここではそのように理解しています。出来事はそのまま自我に取り入れられ、同一化してしまいます。
 このことは、つまり、身の回りの出来事が通常以上の意味合いを持って迫ってくるという体験となるというでもあります。一度だけそのような体験をするのではなく、常にそういう体験をしてしまうことになります。
そのような状態に陥った「非来談者」にとっては、日常のどんな出来事であれ、身の回りの些細な出来事であれ、すべてがストレス源となってしまうことでしょう。そうして日々は耐えられなくない、配偶者や時には子供にも我慢がならなくなる場面が増えることでしょう。
言い換えれば、この状態にあると、その人は繰り返し「良くない」何かとの一体化を繰り返してしまうということであります。そのため、これを追い出そうとする行為も繰り返されることになります。それでもその「良くない何か」を追い出せないので、それの「追い出し行為」も激しさを増すことになります。
 この「追放」は、自分の中にある何かの「追放」であるはずなのですが、それをパートナーを通して成し遂げようとします。パートナーは「治療」やカウンセリングに送られることになります。前述のように、これは「非来談者」が自分を救済しようという意味合いがあり、そのようなものとして理解されなければならないと私は考えています。
その時、「来談者」はしばしば「加害者」としてカウンセリングに送られます。もし、ここで臨床家が「非来談者」の見解を積極的に受け入れると大変なことになります。終わりのない「来談者」迫害の渦中に臨床家や援助者が身を投じ、それに加担してしまうという事態になるからです。
 従って、私は「非来談者」のために仕事をするつもりはないということをはっきり言います。どんな形であれ、「来談者」が来てくれることは私にとっては歓迎すべきことであり、この「来談者」のために仕事をし、必要な援助を与えたいと思うのです。しかし、それは「非来談者」抜きで行われなければならないと考えているのです。
私は、「来談者」との仕事を通じて、「来談者」の変化を見るのです。しかし、それは「非来談者」にとっては望ましくない事態として映ることも多く、そういう時に、「非来談者」は動き始めるのだと思います。
 ここで、自我がそこまで「脆弱」でない場合、「非来談者」は「時差来談者」となるのですが、自我が「破綻」している場合、「非来談者」は「来談者」やカウンセリングを「妨害」する形で動くこともあるのです。
 例えば、「追い込まれる加害者」で挙げた事例夫婦のように、「来談―加害者」に望ましい傾向が見え始めると、「非来談―被害者」が「DV騒ぎ」を起こし、「来談者」を一定のポジションに押しとどめてしまいます。こういうことが生じるので、正直に申し上げれば、「非来談者」は実に厄介な存在なのです。
 「非来談者」にとって、「来談者」は必ず「悪い存在」でなければならず、それ以外のポジションは付与されてはならないのです。そうでなければ、自分の中の「悪いもの」を担ってくれる存在を失うことになり、「非来談者」はそれこそ自分を抹消するしか手段がなくなってしまうからなのです。

(文責:寺戸順司)