<テーマ223>夫婦問題における「非来談者」とその自我(1)

<テーマ223>夫婦問題における「非来談者」とその自我(1)

(223―1)来談者―時差来談者―非来談者
(223―2)自我とその強度
(223―3)自我との関係で見る夫婦のカウンセリング
(223―4)自我の「機能」について


(223-1)来談者―時差来談者―非来談者
「先生は、一体、わたしの何が問題だと考えているのですか」
 DV問題で訪れた女性クライアントの発したこのひと言が、このテーマについて書く決意を私に促したのでした。
 この女性は、後に定義しますが、「時差来談者」であって、「加害者」とされる夫に続いてカウンセリングに参加されたのでした。彼女は明らかに夫のカウンセリングの成果に満足しておらず、ついに自ら物申そうとカウンセリングの場に訪れたのでした。
 本テーマで取り上げるのは、こうした「非来談者」並びに「時差来談者」の抱える問題であります。彼らの自我という観点でこの「問題」を考察していきます。まず、この人たちがどういう人たちであるかを定義しておきましょう。
 私は夫婦同席面接を行っていないので、夫婦問題で来談されるケースでは、必ず夫婦のどちらか一方が来談されることになります。来談した人をここでは「来談者」と呼び、来談しない方を「非来談者」と呼ぶことにします。
 さらに、「非来談者」の中には、最後まで来談されない人もあれば、途中から来談される方もあります。後者は、パートナーよりも時間差を置いてカウンセリングを始めるという意味で「時差来談者」と呼ぶことにします。
 「来談者」は夫である場合もあれば妻である場合もあります。そして他方は必ず「非来談者」となります。また、DV問題の場合、「加害者」立場の人が「来談者」になるケースもあれば、「被害者」立場の人が来談されるケースもあります。「来談―非来談」という軸を採用すれば、そこにはもはや男女の区別も、「加害者―被害者」といった区別も不要になります。いずれの立場であれ、来談した人にはどういうことが生じているのか、同じく、来談しない側にはどういうことが起きるのかを見ていく方が、「加害者」はこういう問題を抱えているとか「被害者」はこんな困難を抱えているといった考察よりも、有益だと私は考えています。

(223―2)自我とその強度
 続いて、本テーマのもう一つの柱である「自我」について少し述べておきます。
 自我とは何かといった定義に入り込むと、話が煩雑になりますので、詳細は省きます。ここでは「自我」とは「心」のこと、「私の内面」といった意味合いで考えておきます。
 自我には水準といった概念が伴います。乳幼児の自我は未分化であり、発達していく過程において、自我は分化・統合を繰り返し、組織化されていくと考えられています。この発達は生涯を通じてなされていくのです。従って、人生上のある段階において、ある人の自我は十分に発達していたり、未発達な部分を多く残していたりするわけでありますが、これは「発達水準」を念頭に置いている考え方だと言えるのです。
 より成熟した自我は、より「強い」とも言えるのですが、これも一つの水準でありまして、本項では「強度」として捉えることにします。
 二人の人間がいる場合、自我の観点に立つならば、二人がまったく同じ水準にあるということは可能性としては低く、敢えて比較すれば、どちらかの自我がより「強く」て、他方は相手よりもより「脆弱」であるという関係が見られるはずであります。
 夫婦は、私の個人的な印象ですが、ある程度同じ「水準」の二人が一緒になっていることが多いように思うのです。それでも比較をすれば、一方がより自我強度が高く、他方は相手よりも脆弱な部分を多く有しているということが観察できるのです。
 そのように自我には「成熟」や「強度」といった水準を確認することができるわけですが、これらは固定的な概念ではなく、もっと流動的なものであります。「成熟」した自我は、さらに成熟の方向を辿るか、退行の道を辿る可能性もあります。どんなに強い壁であっても、ダメージを受け続ければ崩れていくように、強い自我も「弱体化」していく可能性があります。従って、この水準はあまり固定的に考えないようにしなければなりません。
自我にはもう一つ重要な働きがあって、外界に対してその機能を発揮することで個人の適応を助けるという側面があります。自我は適応に関与するのです。その際に、自我はいくつもの機能を働かせています。
 もし、「成熟」や「強度」の度合いが低い場合、もしくは「弱体化」してしまったりする場合、自我はその機能を十分に果たせなくなり、その人は適応に困難を覚えることになります。また、脆弱であればあるほど、ストレスなどのダメージをより受けやすくなり、回復が困難になるということも言えます。そうして、自我がさらに「弱体化」していくと、自我はますますその機能を働かせることができなくなり、いわば「破綻」状態に至ることになります。自我の「破綻」ということに関しては後に述べることにしますが、これを簡潔に定義すれば、「自我の破綻とは、自我がその機能をうまく働かせることができなくなった状態」という意味でここでは使用します。
 そして、より「脆弱」である側が、先に「破綻」してしまうということは想像に難くないと思います。二人の人間が同じ場面、同じ状況を経験していても、二人のうちのより「脆弱」な方がそこから受けるダメージも大きく、そこから回復していく力も弱まっていると考えられるので、相手よりも先に「破綻」を来してしまうのです。

(223―3)自我との関係で見る夫婦のカウンセリング
 私は一つ確信していることがあります。夫婦のうち、現実にカウンセリングを受けに来る方が、相手よりも、より自我が「強い」ということです。「来談者」の方が「非来談者」よりも自我が強く、また「来談者」の中でも、一回受けて中断する人よりは、継続して来談する人のほうがより自我が「強い」のです。自我がより「脆弱」な人はカウンセリングのような作業を避けたがる傾向が強いのです。このことは追々述べていくことにしましょう。
「来談者」の来談の経緯は問いません。自発的な来談であれ、強制的な来談であれ、そこは問わないのです。そこで実際に来談するかどうかが重要な部分であると私は考えています。
 また、先述のように、それが夫であろうと妻であろうと、「加害者」であろうと「被害者」であろうと、そうした区別はもはや関係がないのです。現実に来談するかどうかという部分に注目したいのです。
 さて、本項は「非来談者」並びに「時差来談者」に関するものなので、以後、主にこの人たちに焦点を当てることにします。
 「非来談者」側の人がどう動くかということはケースによって異なるのですが、「来談者」を見ているうちに興味を覚えて、来談されることもあります。そうなると、この人は「時差来談者」となるわけです。そこにはいくつかのパターンがあります。
 まず、①「来談者より遅れてカウンセリングを受けに来て、そのまま継続するパターン」が見られます。次に、②「来談者より遅れて来談するものの、早期の段階で中断し、去って行くパターン」というものも確認できます。さらに、③「来談者より遅れて来談し、来談者をも巻き込んで、二人で一緒に中断し、去って行く」というパターンもあります。最後に、④「最後まで姿を現さない非来談者」の人たちがいます。
 この①から④のパターンは、それぞれ「非来談者」「時差来談者」の自我強度の違いを表しているものと私は考えています。後のものになるほど自我が「脆弱」であると言えるのです。①の「時差来談者」より、④の「非来談者」の方が、より自我が「弱体化」しており、時に「破綻」しているのです。
 ②と③の違いは何かと言えば、②は「自己完結」の様相が濃いのに対して、③は「他者巻き込み」の様相が強いという差異であります。つまり、③は自分一人だけで去ることができないので、相手を「道連れ」にしてしまっているということです。自我が事態を抱えられないほど、その人は他者を巻き込む傾向を強めてしまうから、②のパターンよりも③の方がより自我が圧倒され、弱体化しているのではないかと考えられるわけであります。

(223―4)自我の「機能」について
 さて、次に自我の「機能」ということについて述べることにします。自我には多くの「機能」があるのですが、本項で必要となる部分のみを述べます。いささか難解な内容になるかもしれませんので、できるだけ細分化して述べようと思います。

(出来事は自我によって経験される)
 私たちが何かの出来事を経験する時、自我はその経験の場となっています。時計のチクタク音はおそらくずっと絶えることなく聞こえていたでしょうが、そこに意識を向ける(自我を関与させる)と、時計の音を聞いたという体験になります。外界の出来事は自我によって体験されるのです。出来事は自我によって「体験」へと変えられると言うこともできるかもしれません。

(自我は主体であり、出来事は客体である)
 私たちが自分の経験を話す時には、「私はこういう出来事を経験した」という形式になります。実際、このように経験されているからそのような形式になるのだと思います。この形式においては、私(自我)は経験の主体であり、出来事は客体であるという関係を見て取ることができます。

(自我と出来事との間には距離が生まれる)
 これは少し分かりにくいかもしれませんが、「私はこういう出来事を経験した」という場合、ここには主体と客体の区別があり、両者の間に距離が生まれているのです。つまり、自我は出来事を対象化しているわけであります。
 経験する主体と経験される出来事の間には、常に距離があり、自我機能が健全に働いていれば両者が混同されることはないのです。

(距離が生じることによって、出来事間の区別が生まれる)
 私たちの自我は経験した出来事との間に距離を生み出し、出来事を対象化しています。これにより、経験された出来事は個別化され、区別されます。「あの時のあの経験」と「この時のこの経験」とが混在せず、個別に記憶に保持されるのです。出来事相互の混同が生じないのは自我のこの「機能」によるものと考えることができるのです。

(距離が生じることによって、出来事間の時間的系列にも区別が生まれる)
 一つ一つの体験が区別できるので、それらは時間系列的に位置づけることが可能となります。昨日経験したことと、先週経験したこととが区別されています。過去経験と現在との間に共通の何かがあるとしても、それでも過去経験は過去経験として取り扱われるのです。ここでは過去経験と現在とが混乱することはないのです。

(出来事との間に距離があるので、その出来事に付随する感情は二次的なものとなる)
 例えば、その出来事が「不幸」なものである場合、自我との間に距離が取れている限り、この「不幸」は自我に影響をそれほど及ぼさないものです。その「不幸」な出来事がとても大きなことであったとしても、自我が耐えられるのは、「不幸」という感情が出来事よりも二次的になっているからであると、そう考えることもできます。つまり、「私はその不幸な出来事を経験した」という体験様式になるわけであり、経験したのはその出来事であり、その出来事に付随している「不幸な」という感情は二次的に体験されているわけであります。

(出来事との間に距離があるので、自我はその出来事に取り組むことができる)
 部屋の中にいる人には、その建物の全体を見ることはできません。建物の全体を見ようとするなら、その人は部屋を出て、外に出て、さらにある程度建物から離れなければなりません。
出来事の真っただ中にある最中にその出来事に対処するなんてことは誰もできないのです。それに対処するため、あるいは取り組むためには、問題となる状況を対象化し、距離を作らなければならないのです。距離があるので、その出来事について、考えたり反省したりが可能になるのです。
自我は体験した出来事との間に距離を生み出します。これにより、自我はその出来事に対して考察したり反省したり、あるいは対処したりが可能になるということであります。

(体験を話すことは出来事を積極的に対象化することである)
 体験した出来事との間に距離があるので、私たちはその出来事や体験について話すことができるのです。距離がまったくなければ、私たちはその体験を言葉にすることができないのです。
カウンセリングで、クライアントは自分の経験したことを話すように求められます。そんなことに意味がないと反論する幾人かの人ともお会いしたことが私はあるのですが、彼らがその反論をするのも当然だと思っています。彼らは客体が主体を押し潰しているという状況にある人たちでした。
 距離があるので、私たちはその体験と出来事を話すことができます。言い換えれば、体験を話すことはその出来事を積極的に対象化しているということでもあるのです。こうして出来事を積極的に対象化していくことによって、自我の主体性が回復されていくわけなのです。
 よく「話してスッキリした」という言い回しを耳にしますが、その理由の一つは、この対象化が推進されたためだと思います。

 自我が「機能」していれば、私たちは出来事に呑みこまれることなく、出来事との間にある種の距離を生み出し、それを一つの体験として把持していくことができます。そうして把持された体験は、語ることができ、取り組むことができるのです。
 自我が「破綻」するとは、上記のような「機能」を自我が果たせなくなった状態として捉えることができます。次項では、自我が「破綻」した場合、上記の「機能」がどのように損なわれていくか、それに付随して生じる現象なども交えて考察していくことにします。

(文責:寺戸順司)