<テーマ222>夫婦という人間喚起~親(16)

<テーマ222>夫婦という人間関係~親(16)

(222―1)義母による「診断」と「治療」に関して
(222―2)義母の中の「固定性」
(222―3)彼の夢の変化
(222―4)罪への同一化



(222―1)義母による「診断」と「治療」に関して
 30歳男性の(ケース16)に関しては、大体のことは記述していきましたので、後、他のテーマとの関連で簡単に述べることにします。
 一つ目は「診断」と「治療」のテーマです。義母たちは彼に対してこの両方をしようとしています。
 義母による彼の「診断」は、言ってみれば、彼は「自分の意見や考えを持たない、自分を持っていない」というものでした。これは彼の抱える問題のわずかな一部分を掠めている程度のものであると私は考えています。「自分を持っていない」という場合でも、どんなふうに「自分を持っていない」のかに関してはいくつものパターンがあるはずであり、個人によってその背景や在り方も異なっているはずなのですが、義母の「診断」はそうした細部をすべて無視しているものなのです。今この瞬間の彼を分断して、そこだけを見て、感情的に「診断」しているようなものだと言えるでしょう。
「治療」になると、さらにずさんになります。義母の提案している「治療」は彼に一人暮らしをさせるということでした。一人暮らしをすれば人間がしっかりすると信じており、そのために娘(彼の妻)も彼に接触することを制限させています。義母のこの思考は、あまりにも短絡的で幼稚なのです。
 この思考が短絡的で幼稚だというのは、例えば、「可愛い子には旅をさせろ」というけったいな教訓がありますが、この言葉にそのまま従って、子供に旅を強制させるようなものなのです。「お前が可愛い、だから旅をしてこい」と言っているようなものです。もし、象徴性とか、言外の意味を多少とも読み取ることができる人であれば、この教訓には、「この子に安心して帰る家があれば、可愛い子には旅をさせなさい」という意味であることを理解できるでしょう。帰ってくる場所が確保されていないのに、字義通りに旅をさせるのは、それは追放と同じなのです。この義母の場合、義母は字義通りのことをするでしょう。暗黙の前提とかを理解できるほど思考的に成熟していないと私は考えています。
 さて、話を戻して、もう少しこのつながり、「診断」と「治療」のつながりを見ましょう。義母はまず「欠損モデル」に従った「診断」をしています。彼に何かが欠けているという「診断」形式です。でも、何が欠けているのかに関しては明確にしていません。さらに何がその欠損をもたらしてしまったのかについては盲目であります。そちらの方が欠損それ自体よりもはるかに「治療」の対象になるべきものであるはずなのですが、まったく見向きもされていません。
 そして、この「診断」と「治療」が破滅的なのは、そもそもそれらが彼の幸福を目指していないという点にあります。義母は自分が助かるために彼をそうしなければならないのです。
 さらに、彼の幸福や利益が目指されていないというだけでなく、彼はプロセスの渦中にある一人の人間として「診断」されていないのです。彼は一人の個人として見られていたわけではないのです。恐らく、それは義母にはとても恐ろしいことだったでしょう。義母からすれば、彼は別個の人格を有するのではなく、自分の一部のようでなければならないからです。自分の何かを担ってくれる一部分としなければいられないからであります。

(222―2)義母の中の「固定性」
 義母は彼を「しっかりしていない人間」と見做していました。義母には彼がそういう人間として映っていたのです。彼がしっかりしていない人間であっても、義母には関係がないのですが、義母はそこに拘り続けます。この拘泥について少し触れておきましょう。
 私はこの義母という人に会ったことがなく、そのため彼や妻から伺った資料に基づいて私が憶測していることを述べています。従って、義母に関して私が述べることは、現実の義母にはそぐわない部分もあるだろうと思います。
 私は、彼がいくら努力しても、義母に「しっかりした人間」として見られる日は来ないと信じています。というのは、義母にある種の「固定性」が見られるからであります。
 この「固定性」というのは、児童心理学などで言われるのですが、ある観念とか思考、習慣に過度に縛られる現象を指しています。児童は状況に縛られる度合いが大きいので、思考や習慣に固定性が生じるということなのです。たとえそれがその場に合わない思考であったり、間違った習慣であっても、固定的にそれに従うのです。ある意味では融通性のなさと言えるでしょう。
 こうした固定性は大人でも見られます。ジャネやフロイトのヒステリー理論にはこれが含まれています。心理的に困難な状況であったり、興奮状態にある時など、心的機能が低下することによって、一つの観念や行為に拘泥してしまう傾向が強まるということなのですが、これも一つの「固定性」と言えるでしょう。
 私は義母にこうした「固定性」を見る思いがしています。この「固定性」のために、義母は一つの状態にとどまり続けなければならないのだと思います。彼に送付したラインに見られるように、一つの感情に縛られ続けなければならないのだと思います。一つの観念や認知に留まり続けるために、時間性がさらに失われてしまっているのではないかと、そのようにも思います。

(222―3)彼の夢の変化
 夢についても触れておきたいと思います。
 カウンセリングの期間中、彼はいくつかの夢を持ってきています。事例ではその一つを取り上げました。
 最初に彼が持ってきた夢は、暗闇の中を手探りで移動するというものでした。簡単な「夢占い」をすれば、彼はもっと自分や周囲に光を当てないといけないということになるでしょう。光を当てるということは、もっとよく観ること、正しく見ることということであります。
 彼はそうした「不安夢」をいくつか持ってきましたが、事例で紹介した夢はそれまでの夢と決定的に違うものがあったのです。
 いくら不安な内容の夢であっても、彼には世界に居場所があるのです。あの夢は彼が世界から追放されることを示していました。
 町中にゾンビやモンスターが徘徊していて、押し寄せてきて、人間を襲い、食べるのです。彼は逃げます。ビルの一室に一人のおじさんと一緒になって隠れるのですが、そこにもゾンビたちがやってきてしまうという夢でした。あたかも、周囲に光を当ててみたら、恐ろしいものが身近に迫っているのが見えるようになったという印象さえ私は受けました。
 ゾンビやモンスターを見るのは、彼に馴染みがあるからでしょう。彼はその種のゲームをよくすると答えました。人によっては、これは虫であったりします。人を食い尽くす多数の虫であります。
 もし、この夢のゾンビたちを虫に置き換えて考えてみると、より理解しやすくなるでしょう。この虫は集団で人間を食い尽くすのです。彼は逃げます。これは彼がまだ虫に占領されていないことを表しています。この虫に占領されてしまう人がいます。体感異常、セネストパチーと呼ばれる症状で、例えば「体の中に虫が蠢いています」とか「虫が脳みそを食い尽くそうとしている」といった訴えをするのです。彼はまだそれに占領されていませんが、もはや逃げ道はなく、近いうちにそれが彼を蝕むことを予期させるのです。彼が紙一重といったところまで追いつめられているように私には見えるのです。
 ユングは大量の集合的要素が動き始める時は危ないと、サリバンは精神病とは無意識が大量に意識に混入してくる状態であると、それぞれどこかで述べていたように私は記憶しているのですが、彼にもそれが生じているのです。私はそのように見立てています。だから、この夢の報告を契機に、カウンセリングの方向性を変えていかなければならなかったのでした。
 彼は保護されなければならなかったのです。この保護は心身両面を含むものですが、特に心的な保護が必要だったと私は考えています。その保護者役割の対象とのつながりを失うことは、彼にとって致命的なことなのです。夢では、ビルの一室のおじさんという形でこの対象が具象化されています。この「おじさん」は私のことだったと思います。実際、彼もそんな感じがすると述べています。この時点において、彼にとって保護者対象となり得ているのは私だけだったのです。だからこの関係を切るべきではないのです。
 義母は私を「役立たず」と言って、この関係を彼から遮断してしまったのです。義母がいかに無知で愚かな選択をしているかがよく見えることと思います。
 最後に彼は一人暮らしの部屋で「発見」されました。彼は自分に侵入してくるゾンビたちと戦ったのだと思います。彼には現実にもう逃げ場所がなかったのだと思います。

(222―4)罪への同一化
 彼は「罪」と同一化していました。あらゆることの罪責が彼に課せられていました。初めて彼とお会いした時、彼はすでにこの同一化をかなり進めていました。
 彼自身が「罪」なのです。そして、罪を宣告する「裁判官」の言葉に彼は従わなければならなくなっています。「裁判官」の言葉に背くことは、いくらそれが正しいことのように思えていても、いざその場面になれば、彼に過剰な罪悪感を呼び覚ましてしまうのです。それに耐えられず、彼はさらに「裁判官」に従うことになるのです。
 彼の性格的な傾向もこの状況を促進させてしまっていました。彼は外部の他者の見解や心情を速やかに自分に取り込み、彼らと同一化してしまいます。その傾向を「カメレオン的人格」と仮に名付けたのでした。
 彼の中から過剰な「罪」を取り払わなければなりませんでした。私と一緒の時は、彼にはそれがある程度できるのでした。でも、義母たちと接すると、元の木阿弥のようになってしまうのです。何とかして、義母と彼ら夫婦を引き離したいと私は思っていました。
 そうして他人の見解や無意識的な部分が自己に取り入れられると、彼は自分自身の自我領域を縮小しなければならなくなります。他者のものが大部分を占め、彼自身のものは隅に追いやられてしまいます。極端になると、彼は自分の目で見て、考え、生きているつもりでも、他者の目で見て、他者の思考を考え、他者の生を生きているということになるのです。
 そうなるとどのようなことが生じるでしょうか。彼は自分の目で見て、自分で考えていると信じていますが、実は彼に取り入れられた他者の目で見て、考えているのかもしれないのに、それに気づいていないという事態が生じるでしょう。他者のその思考は自分の思考のように体験されるでしょう。他者(ここでは義母)の見解や思考、不安が完璧に一致するのはそのためでありましょう。自閉症診断のエピソードはこのことをよく示しているように思われます。
 そうして、結果的に、彼は自分の現実を他者の目で体験しているということになります。つまり現実認識に歪みが生じ始めるということであります。さらに、この認識の歪みは自分自身や、自分の周囲に対しても汎化していくでしょう。
 彼は自分が何を体験しているのか、本当には知らなかったと思います。理解できなかったのです。義母が実家に言って聞いて来いといったエピソードは、第三者の私から見れば、それは明らかに彼の実家に対する侮辱なのですが、彼にはそのように見えていないのです。義母のラインは明らかに攻撃であるのですが、彼にはそれがはっきり理解できていないようなところがありました。自分が何をされているのか、何を体験しているのかが、とても曖昧になってしまうのでしょう。その中で、彼の自己喪失が進行していったのでしょう。
彼が自己を喪失するということは、彼の弱体化につながります。彼自身の認知や生が押しやられるので、つまり他者からもたらされるものが自我領域内の地位を占めていくので、彼自身に属していたものが無力化していくからであります。そして、彼の弱体化は、さらに「裁判官」への従順と「罪責」の同一化を推進してしまうのです。私が初めてお会いした時点で、そういった悪循環が既に彼に生じていたのです。
 そして、彼は精神的破綻という代価を支払ったのです。そういう形で彼はこの悪循環に終わりを告げたのです。そして、義母の「固定性」からもこういう形で逃れることになったのです。彼は彼なりの解決をつけたのでした。ただ、私がもっとも起きてほしくないと思う結末を迎えてしまったのでした。

(文責:寺戸順司)