<テーマ221>夫婦という人間関係~親(15)

<テーマ221>夫婦という人間関係~親(15)

(221-1)時間体験について
(221-2)時間展望を失った生
(221-3)その他の関係者について
(221-4)二極化と拘泥



(221-1)時間体験について
 前項、つまり<テーマ220>で義母が時間軸の中に自分を位置付けることができていないようだと私は述べましたが、いささか論述の順序を間違えたような気持ちになっています。
 時間というテーマに関しては、非常に複雑な内容を含んでいます。哲学でもこの分野は難解な領域だとされています。でも、とても重要な概念でもあるので、時間に関して、取り敢えず簡単な説明だけをしておきましょう。
 時間には二種類あると言われています。一つは客観的で測定可能な時間です。「12時30分」とか「1時間」といった時間です。もう一つは内的な時間で、個人によって主観的に体験される時間があります。これは「愉しいことをしていると時間がアッと言う間に過ぎる」という時の、そこで体験されている時間であります。ここで取り上げているのは後者の方の時間です。
 人間にはもともと時間概念がありません。生まれたばかりの乳幼児には時間感覚がないのです。時間概念を持つには、数字などの知識を有している必要がありますし、記憶能力ということも必要でしょう。だから乳幼児には時間概念がなく、過去や未来に関する理解が持てないと言っても間違いではないと思います。
 時間概念がないということは、後どれくらい待てばお乳が与えられるかといった予期もできないということです。よく時間を決めて授乳するべきだという子育て論を聴きますが、子供に時間概念がないのだから意味がないと私は考えています。
 さらに、時間概念がないということは、今、自分に与えられたこの瞬間に、自分が十分満足するか否かということが最重要事項になります。しばらく待てばまた与えられるということが理解できないし、仮に理解できたとしても、時間概念が備わっていない限り、その待ち時間を測定することができないからです。
 姪っ子を見ていて、私はひどく感心したのですが、彼女に時間概念が身に付くと、驚くほど世界が広がったのが、見ていて伝わってくるのです。それ以前は目の前の遊びに夢中でした。今、十分に楽しめているかどうかだけしかないかのようです。そこに時間概念が発達して、身に付いてくると、「さっき、ママと買い物に行ったよ」とか「昨日、公園で遊んだよ」といった話ができるようになるのです。「あともう少ししたらご飯だよ、おやつは後よ」と私の方が叱られることも増えるのです。
 時間概念が身に付くことによって、彼女の中で一つ一つの体験が構造化されていくのが感じられました。さっきこれをした、昨日はこれをした、あともう少しでご飯だといった個々の体験が時間軸上に位置付けられていくわけです。時間軸上に位置付けられる体験は、個人の中で確かな体験として残っていくものだと私は思うようになりました。
 もう一つ重要なことは、ここに「そう、さっきママと買い物に行ったの」「昨日、公園で遊んだのね」「ゴメン、もう少しだからご飯まで待つね」といった呼応する他者の存在であります。呼応する他者の存在は、体験をさらに確固としたものにし、それを時間軸上の出来事として位置付けていくことをより可能にしていくのです。
 時間概念が身につくに従って、私たちの世界は広がって行きます。過去、現在、未来という時間軸が生まれてきます。期待や願望、後悔などの体験も増えていきます。さらに、進行形や仮定形なども加わるので、自分自身の体験や思考がさらに精緻化し、複雑化していきます。
 つまり、こうした複雑化は次のような諸態度を生み出すことになるでしょう。「今、何を感じている」しかなかったところに、「あの時はこう感じていた」とか「今度もきっとこう感じるだろう」といった幅が広がるだけでなく、「あの時、こうなっていたら、こう感じることはなかっただろう」とか「今度、こうなった時はもっとこんな感じを持ってみよう」とか、体験がさらに広がって行くということです。このことは過去のことは過去のこととして想起するとか、未来のことは未だ実現していないものとして想定できるといった能力につながるものであります。過去のことが過去にならなかったり、未来に生じるかもしれないことが今すぐにも起こりそうだと焦燥したりする時には、この時間感覚が幾分ぐらついていると考えることができるのです。
 さて、この領域に関して、ここでは深入りしないようにします。多くの事柄をここで省略します。
 私が私を時間軸上に位置付けることができている時、つまり過去の自分と未来の自分とが現在の自分とでつながっているということなのですが、その時、私は他でもない私の人生を生きているという感覚を抱くことができ、自己の同一性があることを実感します。
 時間感覚や時間展望はこの自己同一性と深く関連するのですが、もし、自己同一性の感覚が不十分にしか持ちえない時、あるいは一度達成した同一性感覚が何らかの危機で崩壊してしまったりした時には、時間展望の拡散など、時間感覚に支障が生じるのです。
 それは、過去の自分と現在の自分にまったくつながりを失ってしまったとか、未来は来ないとか、かつての自分と別人になったとか、そういった体験をもたらすでしょう。そして、過去や未来から切り離されるということは、現在に固執する傾向を強めてしまうということであります。
 現在に固執、拘泥するとは、現在の価値とか重要度が増すわけであります。それは物事が過去になって行かなくて、いつまでも現在性を帯びたまま留まり続けることになったり、今現在のことが不変のまま続けられるといった状態に個人を追いやるのです。物事は過去にならず、未来も来ないのです。そこには変化の可能性も閉ざされているので、今あるものが、不変のまま永遠に続くのです。そうして現在が固定化され、いろんな体験や出来事が現在性を帯びたまま維持されてしまい、そこに置かれた個人は身動きが取れなくなってしまうのです。
 そうした状態に義母は陥っているのではないかというのが私の見解であり、それを前項で述べたのでした。

(221―2)時間展望を失った生
 さて、事例に戻り、今度は彼の方に目を転じてみましょう。彼もまた時間軸の中に生きていないのです。だから、彼ら夫婦は案外に似ているのです。
 彼は過去を語ることができません。何も覚えていないと言います。これは記憶喪失という意味ではなくて、過去のことが彼の中で蓄積されていないということなのです。
 彼もまた意思決定をしないのですが、これは先述のように、彼が時間軸において生きていないためであるように私には思われるのです。
 過去がないので未来も築けないのです。彼はどうしたでしょうか。彼は自分の未来を義母に委ねています。義母の望み通りにすれば、自分が望む未来が得られると信じているようでした。
まず、彼に関するいくつかのエピソードを振り返りましょう。双方が顔合わせした時、父親が不用心な一言を発しました。義母たちは彼が仲裁しなかったと言って、彼に責を負わせます。私はその場で彼に仲裁する義務があったとは思わないのですが、仲裁に入ればそれにこしたことはなかっただろうとは考えています。
彼はなぜ仲裁しなかったのでしょう。この場面をいくつかの段階に分けでみましょう。まず、父親が余計なことを言った、その場の空気が悪くなったように感じられる、これはいけないと思い、それで仲裁するという流れがあるとしましょう。
 この流れの中で、「これはいけないと思う」の部分が仲裁に直接関係するはずです。そこで、「これはいけない」という感じとはどういうものでしょう。例えば、「ここでお互いに気分を害したら、今後の関係がぎくしゃくする」というものであるかもしれませんし、「今日は挨拶の日だからケンカをさせてはいけない」という意思決定であるかもしれません。つまり、この部分には未来展望が含まれているということです。
 彼が仲裁しなかったのは、彼にその観念が欠けているためかもしれないのです。未来展望が欠けているため、彼が時間軸の中で生きていないために、そうなったとも考えられるのです。
 続いて、彼がカウンセリングを受けにきた時の主訴を見てみましょう。彼は自分がしっかりして、義母とうまく関係を築きたいと言います。これは義母が彼に要請していることであります。でも、その中身をよく見ると、義母とうまく関係を築きたいというのは、その時その時で義母を上手くやり過ごしたいという意味合いが濃厚なのです。この主訴は時間展望をほとんど含まないのです。従って、彼の主訴は彼の「症状」の一部なのです。
 そのことは彼の生き方を見ると頷けるのですが、彼は「カメレオン」のように他者に染まります。これはその時その時で相手をうまくやり過ごす手段だったのだと思います。そうしておけば、トラブルも生じず、今、この瞬間を無事に切り抜けられるということを学んだのだと思います。ただ、それもやはり時間展望を持たない生き方なのです。

(221-3)その他の関係者について
 その他の関係者たちにも多かれ少なかれ同種の傾向が見られるように感じています。ただ、その他の人たちに関しては情報が少ないので、あまりはっきりしたことは言えません。
 義父はこの事例の中で一番まともな提案をしています。彼の実父に直接話し合いをしようと義父は提案しています。義父はこの争いを収束しようとしているようです。それで直接のきっかけになった実父と話し合ってみようと提案しているのです。この提案には時間観念が含まれているのです。過去に生じた出来事を取り上げ、その過去の出来事に直接関係のある人に働きかけ、それを過去に位置付けようとしているように感じられるのです。
 ちなみに、義母たちは過去に生じなかったことを取り上げており、だからそれを過去にしていくことが難しいのかもしれません。実父が余計なことを言ったというのは過去に実際に生じたことです。彼がそこで仲裁に入らなかったというのは、よく注意していただければ理解できるのですが、それは過去に生じなかったことなのです。それが生じるべきだった(彼が仲裁に入るべきだった)ということを取り上げているので、これは生じなかった方を取り上げて、問題にしていることになるのです。過去に生じなかったものは過去にならないことでしょう。
 彼の家族は、彼がそうであったように、他の人たちも時間展望をしっかり有していないという感じがしています。
 姉は義母の意見に賛同して、彼に一人暮らしを勧めるのですが、義母と同じく、その提案には時間的な展望が欠けているようでした。彼が一人暮らしをして、何がどうなっていくのか、その後はどういうことになるのか、そうした観念を持っているようには思えなかったのです。
 実父は、実母の様相が悪化しているのを見かねて、彼に何とかしてくれと頼んでいます。この騒動の発端となった張本人でもある実父なのですが、あたかも過去のことが切り離されてしまっているかのようです。自分が種を撒いておきながら、後になって誰がこんな種を撒いたんだ、何とかしろと言い出すようなものではないでしょうか。
 実母は、彼を抱えるか切り捨てるかのどちらかしかありませんでした。確かに、義母の侮辱の言葉を息子から受け取るという状況はこの実母には苦しいことだったでしょう。この苦しい状況に対して、彼が出て行くか、離婚して戻ってくるかを彼に迫るのです。そこには今すぐ決断しなさいと言わんばかりの性急さが感じられるのです。
 時間展望の中に生きないということは、現在の重要度が大きくなってしまうので、今、自分たちが苦しみから解放されるかどうかが最大の関心事になるのです。
 現実に実母との間でどういう言葉が交わされていたのか、私は十分には知らないのですが、実母には彼が「変わって」しまったように見えているようです。そして、その「変化」が実母には受け入れることができないのです。実母がこの変化を受け入れるなら、つまり時間展望の中で生きているとすれば、息子に「お前はずいぶん変わってしまったねえ、一体、何があったんだい」などと詳しく聴いていこうとするでしょう。でも、実母は彼に選択を迫っているのです。実母が認めたくないのはこの「変化」であって、以前の彼に戻るか、それとも「変化」したままでの彼でいるかの選択を彼に迫っているということでもあるのです。私には時間展望を欠いているように思われるのです。

(221―4)二極化と拘泥
「時間展望」という観点からこのケースを見なおしてみると、多かれ少なかれそれの拡散を示している関係者が多いように見受けられるのです。彼の家族も妻の家族にもそれが見られるのです。
 時間展望の拡散は、今現在の価値が極端に大きくなるということであり、今この瞬間に自分が満足するか、求めているものが得られるかという観点しかなくなるのです。そして、それが得られるか、得られないか、得られなければ何も変わっていないという二極化した思考に陥りやすくなります。そこでは途中の段階というものはまるで考慮されないのです。彼がしっかりした人間になるということでも、今この瞬間にそれが認められなければ、彼は何も変わっていないことにされてしまうのです。こうして事態は、プロセスがなくなり、一つの所に留まり続けることになり、関係者全員がその地点に拘束されてしまうのです。
 また、この時間展望の拡散は、個人の時間体験に混乱をもたらします。過去が過去にならず、現在性を帯びたまま心の中に残り続けたりするわけです。過去の不幸な体験は、それが過去の事として想起される代わりに、現在生じていることとして常に取り沙汰され、現在性を帯びたまま取り組まれてしまうのです。
 本項ではこうした時間観念を中心にして述べてきました。

(文責:寺戸順司)