<テーマ220>夫婦という人間関係~親(14)

<テーマ220>夫婦という人間関係~親(14)

(220―1)流産の象徴的意味
(220―2)妻の未来展望喪失
(220―3)意思決定と「リセットぐせ」
(220―4)時間喪失としての完全主義
(220―5)義母に見られる時間喪失性


(220―1)流産の象徴的意味
 この種の問題は、夫婦双方の問題がその関係に持ち込まれるだけでなく、これに関わる人たちがそれぞれ自分の問題をそこに持ち込んでしまうので、非常に錯綜してしまうのです。各人が何を持ち込んでいるかをきちんと分けなければならず、それが援助の最初の課題となるのです。
 妻という女性はほとんど舞台の前面に現れませんでした。彼女は一躍注目を浴びるのは、あの流産事件でした。それまで彼女は舞台裏で、いささか忘れられた存在でありました。これはこれに関する人たちがいかに他人に無関心であるかを示しているように私には思われるのです。
 さて、この流産の件ですが、私は彼女の心的傾向が端的に現れているエピソーゾであるように考えています。あいにく、それに関して、彼女から詳しい話を聴くことはできませんでしたので、ある程度、想像して述べることにします。
 前にも言ったように、流産は身体的要因も心理的要因も双方が影響するものであります。当時の彼女にどれだけの心理的負荷がかかっていたか、また、それがどのような種類の負荷であったかは分かりません。でも、それらがまったくなかったとはとても言い切れないようです。彼女には安心して出産できるような状況ではなかったはずであります。
 身体的な現象には象徴的な意味があると仮定しましょう。これは現象の原因とか経緯ということではなく、その現象が象徴的にどういうことを意味しているかということです。この流産に関して、それにどういう象徴的意味合いがあるかを考えてみましょう。
 これを考えるには、それに先立って、子供という存在が親にとってどういう意味を持つかを考察する必要があります。流産はその意味を失ったということになるからです。
 一つの手がかりとして、子供を失った親が述べる言葉を想起してみましょう。事件や事故で子供を失う時、しばしば、その親は自分たちの未来が奪われたというように述べられるのをご覧になったことはないでしょうか。事実、類似の発言をする親が非常に多いのです。
 このことから考えると、子供とは、親にとっては自分たちの未来に関わる存在であるということが言えそうです。そして、子供を産むとは、自分たちに未来をもたらすことであり、子供を失うとは自分たちの未来を失うことを意味すると考えることもできそうです。
 この見解を流産という現象に照合してみると、それは、未来を産出しようとしていながら、その直前で未来を失うという意味合いになるのではないかと思います。未来の産出に失敗してしまうのです。未来に開かれようとしながら、未来に閉ざされてしまうのです。流産とはそういう意味合いを有する体験ではないでしょうか。

(220―2)妻の未来展望喪失
 彼の妻もそれを体験したと思います。むしろ、この妻には未来がないのです。未来とか将来とか、そうした展望を有していないのです。
 妻の言動を見ると、彼女がいかに未来展望を失っているかが窺われるのです。例えば、私は彼女に「この事態をどう収束しようと考えていますか」と尋ねた時、彼女は当然それに答えられません。彼女には答えられないだろうなと分かっていながら、私はこの質問をしてみたのです。この質問は彼女に未来のことを尋ねているのです。
 また、彼女は母親が死ぬまで待つという構えでいます。これもまた未来展望の喪失なのです。ただ、いつかそれが終わるということを漠然と待つということであり、将来に開かれた態度ではないのです。
 さらに、彼女は一切の意思決定を避けています。「結婚して親元を離れよう」とか、「この人と一緒に生きよう」とか、そういう意思決定をしないのです。同じことは彼の方にも該当するのです。
 意思決定とは未来に関わる事柄でもあるのです。将来の何かのために、現在において意思決定をしているのであり、そういう形で未来に参与しているのです。私はそのように考えています。

(220―3)意思決定と「リセットぐせ」
 意思決定ということに関して、少し余談を挟もうと思います。これはしばしば誤解される節がみられるからです。
 これは別の女性クライアントでしたが、彼女は自分には「リセットぐせ」があると言います。「リセットぐせ」というのは、彼女がネットで見つけた言葉らしいのですが、要は何かを決心しても、すぐにそれを白紙に戻して、別の決心をしたり、再決心をしたりする傾向のことを意味しているようです。
 私は彼女にその著者は「リセットぐせ」をどう説明していましたかと尋ねたのでしたが、彼女はよく覚えていないと答えました。現象に名前を付けるのは簡単ですが、その現象の根拠を説明することは難しく、ネットで書かれていることの大半にそれが欠けていると私は信じています。私はできるだけ私がそのように考えた根拠まで書くようにしているのですが、それでも説明不足の所があると自分では感じております。
 私なりの見解を述べると、「リセットぐせ」というのは、その意思決定に未来が結合していないということなのだと思います。将来に関与しない決心なのです。その場限りの決断なので、状況や場面が変れば、帳消しになってしまうのでしょう。
 私たちは、あることをしようとか、これこれのことを始めようとかいう決断をします。つまり意思決定をしています。その時、それをすることによって、次にこれをしようとか、これを始めることで自分がこうなっているだろうといった未来展望がそこに持ち込まれている場合、それはより継続されることになるのだと私は考えています。
 つまり、時間展望を伴わない意思決定は脆いものだということであります。そうした意思決定はすぐに「リセット」されてしまうのでしょう。

(220―4)時間喪失としての完全主義
 さて、時間展望ということに即して、本事例の関係者たちを考察してみることにします。
 もし、ある人が未来を閉ざしているという場合、その人は自分の過去にも閉ざされているはずなのです。過去が積み重なっていかないので、それは未来につながらず、未来を失っているので過去の事柄が無意味になるのです。
 そのような人にとっては、過去も未来もなく、今現在のこの瞬間しかなくなるのです。過去や未来が仮にあったとしても、その人たちにとっては、それらが非常に漠然で曖昧だったり、自分から切り離されたものとして、あたかも自分とは無関係な何かとして存在しているのです。すごく分かりにくい表現になったかもしれませんが、「うつ病」の人と接しているとこのことがよく理解できるのです。ご自身に「抑うつ」体験がある場合、その体験をした頃のご自身を思い出されると理解の助けになると思います。
 過去や未来がなくなり、時間軸の中で生きなくなるということは、つまり、今現在のこの瞬間しかなくなるということは、現在の価値が非常に大きくなるということであり、今、この瞬間のことにあまりに囚われる生き方になってしまうのです。
 この囚われの一つの表現が完全主義であると私は考えています。完全主義というのは、今、この瞬間に何かを完璧にしないといけないという強い感情を背景に有していて、それによって何かが目指されるわけではないのです。仮に、何かが目指されているとしても、それは二義的であるか、はっきりした目標の形を取らないのです。
 この完全主義と関連していますが、強迫的な行為や儀式もまた時間軸を喪失しているのです。例えば手を洗うのが止められないという人がいます。これは手の汚れとか菌を恐れているかのように見え、さらに自分が病気に感染するのを防ぐ目的を有しているように見えるのですが、実際には、今この瞬間に自分が「良く」なることを目指しているだけなのです。手を洗い、菌を落として、それで病気に感染しないようにして、さらにこういう生活を送ろうとか、こんな人間になっていこうとか、そうした時間軸の中に位置づけられる行為ではないのです。
 さて、義母にはこうした完全主義傾向が見られます。義母は娘達の一日のスケジュールを完璧に決めます。朝は何時に起きて、何時までには帰ってきて、食事は何時からでといった具合に、すべてを管理します。娘がそれに違反した場合、母親はただ叱責し、折檻するだけです。
 この完全主義の下では、いかなる変化も変則的事態も締め出されてしまいます。変化とか変容というのは時間概念を含んでいるからです。だから、それらは締め出されることになるのです。そして、ここでは恒常性のみが生き残ることになるのです。恒常性とは、要するに、今現在の持続ということです。それだけが目指されてしまうことになるのです。
 だからこの母娘の関係も変わることがなかったのです。娘は結婚してもこの恒常性に囚われています。時間軸の中で生きることができないために、双方がそれを持続させてしまうのです。

(220―5)義母に見られる時間喪失性
 この事例に関係する人たちの中で、最も時間軸を失っているのは義母だったように思われます。先述の完全主義傾向もそうでしたが、他にもそれを裏付けるような言動を義母はしています。
 義母は彼を「育て直し」しようと決めました。この「育て直し」はどんなものだったでしょう。もう一度全面的依存の段階を経験させて、躾の段階に入って、エディプスコンプレクスを解消して、青年期の自我同一性達成の課題に進ませようといったものだったでしょうか。
 まったくそういったものではなかったのです。義母の「育て直し」とは、単に彼に一人暮らしをさせただけなのです。さらに、この一人暮らしの次の段階が何かあるようではなく、この一人暮らしによって彼がどんなふうになるかという明確な展望も持っていないのです。要するに、義母の「育て直し」は時間展望に立脚していないのです。
 私は彼の一人暮らしには反対しました。義母は彼が一人暮らしすることによって、彼がしっかりした人間になると、意識的には、そう信じていたようでした。彼はそれに応じようとしていました。私は彼に義母の態度が変わることはあり得ないから、無駄な努力だと彼に諭しています。一見すると、私が実に厳しいことを言っているように聞こえることと思います。
 しかし、義母が時間軸に生きていないと私には思われていたので、彼の中のあらゆる変化を義母が見出すことはないだろうと思われたのです。時間軸に生きていないので、変化を見ることも受け入れることもできないのです。少しでも彼が良くなったとしても、決して義母のような人はその変化を見ることができないのです。義母の中では物事は不変のまま映るのです。そのように義母には見えるのです。この義母の見方が変わらない限り、彼が何をしようとも見込みがないのです。
 それを示すのが彼に送られてくる義母のラインであります。このラインはひっきりなしに彼に送信されます。その基盤にある内容とは、「お前はまだしっかりした人間になっていない」ということなのです。それに続いて、罵詈雑言が彼に浴びせかけられるのです。つまり、彼をしっかりさせるための一人暮らしは義母が提案したことなのに、それを棚上げして、しっかりしないと言って彼を責めているだけなのです。今この瞬間において、義母には彼がしっかりした人間に映っていない、それだけを意味しているのです。以前よりも少し良くなったとか、そんな観念は義母にはないし、それを期待できないのです。
 また、義母の送信してくるラインには不全感があると私は考えています。何かを言うのだけれど、何か言い残した感じがするとか、言った感じがしないとか、そういう感情を残すのです。「これを言った」という確かな体験として義母の中に残らないということで、これは「言った」ということが過去になっていないということなのです。過去にならないので、一つ一つの体験が確かなものとして蓄積されず、ズルズルと引き継がれ、現在性を保ったまま義母の中に留まり続けるのだと思います。
 そして、過去の一時点のことが現在性を維持したまま止まり続けるので、いかなる変化も差異も見出すことはないのです。私たちが物事の変化を認める時、それは過去の一時点のそれと現在のそれとの比較を行っているわけであり、それを過去のことに位置付けられているということが大前提であるからです。
 義母が時間軸の中に生きていないことを示す証拠が他にもあります。両家が顔合わせをしたとき、騒動の発端となった場面があります。彼の父親の一言が義母を不快にしたのでした。
 ここでも問題はこの体験が義母の中で過去になっていかないという所です。義母はそれを常に現在性を帯びた体験として維持しているのです。過去が過去になっていかないのです。過去―現在―未来という時間軸が欠けているのです。それは過去の出来事だったのです。不愉快な体験であっても、それは過去のものとして位置付けなければならないのです。過去に位置付けられないので、いつまでも現在の問題として心の中に留まり続けることになるのです。何十年も前の出来事を昨日のことのように恨んでいるという人とお会いすることが私にはあるのですが、時間軸の中で生きられないことは、人生の多くを損ねるものなのです。

 さて、本項も長文となりましたので、続きは次項に引き継ぐことにします。

(文責:寺戸順司)