<テーマ218>夫婦という人間関係~親(12)

<テーマ218>夫婦という人間関係~親(12)

(218―1)自滅する人たち
(218―2)恐喝
(218―3)約束も謝罪も求めない
(218―4)他者巻き込み型


(218―1)自滅する人たち
 事例の30歳男性の彼は、一人暮らしを半ば強制されてしまい、そこから義母のラインによる「攻撃」が激化していきました。前項では、その送信者に援助的に対応しようという場合のいくつかのポイントを示しました。
 さて、ケンカの方向で対応することは、もっと簡単であります。この種の人たちは、怒りの表出に制限がないので、こちらが口出しせずに応対していると、必ず行き過ぎるのです。相手が行き過ぎた所を押さえればよいのです。「お義母さん、それは恐喝ですか。恐喝するつもりでしたら、こちらも手段を選ばせてもらいますよ」と反撃に出ればいいのです。
 いわば、先に手を出させて、こちらが被害者立場に立って、その上でケンカするという方向であります。最初の内、耐えるのはしんどいかもしれませんが、この義母のような人は必ず自滅するので、それまで待てばいいのです。
 メールとかラインというのは、文面と時間、発信人が明確に残るので、ある意味では便利なツールであります。この文面の中に、「アホ、バカ、カス、クズ、死ね、ボケ」といった言葉があれば、それはこちらにとっては最高の武器になるのです。そうした言葉がしっかり残っていて、それは紛れもない証拠になるからです。
 それに対して、相手は「あの時はカッとなってそう言ったけれど、言い過ぎたと思ってます」と弁明するかもしれません。でも、そのことを示す証拠がないのです。言い過ぎたと思ったから謝罪のメールを送ったわけでもないので、その言葉を証拠立てるものが相手にはないのです。
 その種の人が自滅するとはそういうことなのです。自分に不利になるような証拠は数多く残すのに、自分を弁護するような証拠は何一つ残さないのです。拝見させてもらった限り、彼の義母のラインもそうでした。知恵がないのです。

(218―2)恐喝
 恐喝ということに触れておきましょう。この義母のラインだけでなく、私は何人かのクライアントからこの種のものを拝見させていただいた経験があるのですが、その中には必ず恐喝が含まれているのです。間違いなく含まれているのです。
 恐喝とは、相手に対して条件と命令を同時的に発するということです。「これこれのことをあなたがしないなら、あなたはこうしろ」という形式はすべて恐喝として定義することが可能なのです。
 彼の見せてくれたラインの中では、例えば、「今度会う時までにしっかりしていなかったら、娘とは別れさす、実家に変えれ」といった意味内容の文章は恐喝に当たるということであります。
 恐喝文章は、明確に記されている場合もあれば、散りばめられていることもあります。文面全体の意味内容を踏まえて、「ある条件を満たさないなら、あなたはこうしなさい」という形式に収まるかどうかを見る必要がある場合もあります。
 繰り返しますが、条件と命令が揃っているということが重要なのです。だから、「規定の成績に達していなければ、本大学に入学できません」という文章は、これは条件だけを提示しているので、恐喝にはならないのです。この文章の後で、「もし合格したければ、これだけのお金を払いなさい」などと命令が続けば、これは恐喝になってきます。そこの違いは押さえておきたいのです。
 そして、条件と命令との間に不一致があればるほど、つまり両者の関連性が乏しいほど、恐喝の色合いは濃くなるのです。先述の例で考えるなら、「成績が足りない人は入学できません。来年、受けなおしてください」と言う場合、条件と命令(というか依頼)とに不一致がないので、これは恐喝とはならないのです。しかし、「成績が足りない人は、お金を払いなさい」となれば、成績という条件とお金を払うという命令(依頼)との関連性は乏しく、不一致の概念であるので、恐喝の色合いが濃くなっているのです。
 彼のライン中の「今度会う時までにしっかりしていなかったら、娘と別れさす、実家に帰れ」を見てみましょう。条件は「今度(義母)に会う時までに(彼が)しっかりしていること」であります。命令は「妻と離婚して実家に帰れ」です。条件と命令の不一致が甚だしいことが見て取れるのではないかと思います。
しかも、この条件は、あくまでも義母の一方的なものであり、彼の方の条件を無視した条件提示であります。一方的な条件提示に付随して、さらに一方的な命令が続いているわけであります。彼がしっかりしているかどうかの判定も義母がするということであるので、この条件は彼にまったく不利で不公平なものなのです。
私だったらどう答えるだろう。おそらく、「お義母さんの言っていることがさっぱり分かりません」と言うかもしれないな。「しっかりしていないのは僕の問題で、妻や実家は関係ないのに、どうしてそれを持ち出すのか教えてくれませんか」と頼むかもしれない。相手は「それくらい自分で考えろ、このボケナス」と言うかもしれない。すると、「分かりました。義理の息子がボケナスではお義母さんも辛いでしょう。今夜、妻を連れて出て行きます」と言うかもしれない。相手は「あんただけ出て行け。娘とは離婚させる」と言うとしましょう。私は「第三者が離婚を強制することはできないということは、お義母さんもご存じでしょう」と言うかな。肝心なのは、「当然、お義母さんもそれは知っていますよね」というニュアンスでこれを言うことである。「それを知っていますか」というニュアンスでは伝えないということである。すると、相手は「わたしは実の親だからその権利がある」とか言うかもしれません。私は「おかしいなあ、僕はそんなふうに学んだことはないから。一度、法律家に相談してみます」と言うかもしれない。困った時にはその方面の専門家をちらつかせるのもいい手だと私は思っています。「そんな必要はない」と相手は言うかもしれません。「ええ、お義母さんにその必要がないのは僕にも分かります。ただ、僕がそれを必要としているので、場合によっては法廷までお付き合い願うことになるかもしれません。悪しからず」とでも言うかな。ここでは相手のニーズと自分のニーズは別なのだということを示すだけでもよいでしょう。そして、相手は「そんな専門家に頼ったりするのは、お前がしっかりしていないからだ」と言うとしましょう。「ええ、だから専門家に頼んで、間に入ってもらおうと思うのです」と伝えるのです。しばしば、義母のようなタイプの人は、法廷に出てまで争おうとはしない人が多いので、それを回避しようとするように思います。だから、いっそのこと法的に争いましょうと持っていく方が有効である場合が多いと私は考えています。
まあ、私だったらこのケンカをどんなふうに持っていくかなということを勝手に想像して記述しているのですが、延々と続きそうなので、ここまでにします。

(218―3)約束も謝罪も求めない
 もう一つ、厄介な人とお会いした経験から私が言えることは、この種の人とは一切約束してはいけないということです。約束してもまず破られるものと思ってください。そういう約束を固く守れるほど、この種の人は「しっかり」していないことも多いのです。そのくせ、相手はこちらに何かを約束させようとしてきますので、それには応じないようにした方がいいでしょう。
 例えば、相手が「そんなこと言って逃げる気か」と迫ってきたとします。でも、そういう人に限って「あの時はカッとなってつい口をついて出た言葉であって、本心ではないのだ」と言った逃げ方をしたりするのです。そこで相手が「わたしは決して逃げない」と断言したとしても、まあ、信じない方がいいでしょう。
 義母のラインには、彼に何かを約束させる類の文章は多く見受けられるのですが、義母自身が約束をするような文章はいっさいありませんでした。例えば、「今度会う時までにしっかりなっていなかったら、実家に帰ること」という約束を彼に強要するのですが、「しっかりしたら、娘と一緒に生活させる」といった約束は決して自分からしないのです。
 相手と約束しないということと、同様に重要なことは、相手に謝罪や反省をこちらが求めないことであります。
 相手は無茶な要求を出して来たり、口汚く罵ったりします。受け手であるこちらは非常に不愉快な体験をします。そこでついつい、相手に謝罪を求めたくなるかもしれませんが、それを求めるよりも諦める方が被害が少ないと私は感じています。
 まず、義母のような人は決して謝罪しないものだと、反省もしないものだと、そう思うことが肝要だと思います。と言うのは、自分の罪や悪を抱えきれない人であるからです。謝罪や反省がきちんとできる人は、こうしたラインを送ってくることはないのです。そう思って間違いないと私は信じています。
 あれだけボロカスに言われたのだから、謝罪の言葉を引き出さずにはいられないという気持ちになるかもしれませんし、何となく不公平感が残るかもしれません。個人的には、そこでその厄介な人物と縁が切れるなら、それで良しとした方がいいのではないかと思うのです。そこで新たな戦闘を展開しないということに重点を置きたいと思うのです。

(218―4)他者巻き込み型
もっともしてはいけないのが、彼のように無力化され、相手に従順になってしまうことなのです。確かに、彼は性格的にとても大人しい男性でしたが、罪と同一化してしまっているがために、さらに弱体化してしまい、無力になっていました。
義母は誰かにそれを押し付けたいのです。それを従順に引き受ける人がいれば、その人に押し付け続けることになるのです。義母にはそれが「快」体験となっているはずであり、それがあるために、それは「耽溺」行為となり、彼を標的にし続けるのです。
見方を変えれば、義母の方が彼にしがみついているのです。彼の妻が話してくれた言葉が思い出されます。以前、彼女が交際した男性の一人は、「まるでお母さんと付き合っているようだ」と言って、彼女の元を去ったのでしたが、まさに適切な表現だったのではないかという気がします。
義母のような種類の人を理解するためには、「心の問題」を抱える人には二つのタイプがあるということを知っておくといいでしょう。一つは「一人で抱え込む型」であり、他方は「周囲を巻き込む型」であります。この義母は後者のタイプなのです。
巻き込まれるのは彼だけではありませんでした。その娘もそうでしたし、彼女が過去に交際した男性たちも、やはり同じように巻き込まれていたのです。事例では顕在化しませんでしたが、義父もまたそうだったのではないかと思われるのです。
なぜ、その種の人が周囲を巻き込むのかと言うと、それを自分一人で抱えきれないからです。それは、義母の言葉で言うと、問題や困難を自分で抱えるほど「しっかり」していないということです。
自分の中の困難なもの、厄介なものを自分で抱えることができず、自分の中にそれがあるということも認められないのです。それは当人の自我から切り離されることになります。つまり、その自我に統合されていかないのです。自我に統合されない観念は、他者に投影されるのです。例えば、自分に不都合なことが起きており、不幸であるという観念が、自我に抱えられず、外在化してしまうと、外部の何かおよび誰かが不都合であって、不幸がそこからもたらされているというように体験されてしまうのです。
非情に厄介だと思うのですが、当人に無意識的にそういうことが起きているとはいえ、決してその人たちはそれに気づかないのです。自我から分離している部分が多いので、その人が関与する自我領域がとても小さいのです。わずかな自己接触しか持てないのです。だから自分に対して洞察することがとても困難なのです。そのために、外在化された世界が絶対的なものとして体験されているのだと思います。
今のことを言い換えれば、義母が「こうだ」と信じたことは、義母の中で絶対不変の位置を占めるのです。いかなる反論をもってしても、それが揺るがないのです。多少なりとも反省的な自我領域があれば、「そういう反論も確かに一理あるな」くらいに思うことができるのでしょうが、自我狭小が極度であるほど、そういう見込みがなくなるのです。
義母が、今度の責任は彼にあると見ている時、この信念は何をしても変えることはできないのです。義母のパーソナリティそのものが硬直化していくことになるのですが、それは義母の困難であって、本当は彼には関係がないのです。そして、義母が自分自身に困難を経験する度合いが、それによって増えてくるので、義母はますますいろんなものを外在化していかなければならず、それをすればするほど、周囲が「悪」に満ちるように体験され、義母の世界は狭小し、そこから満足や幸福を獲得することができなくなるのです。そうして、さらにこの不幸や困難の源泉が誰かに求められてしまうのです。
 彼はこの義母と絶縁してもよかったのです。正直に言いましょう。私は彼にそれを勧めたのです。あまりにも彼が非人格化されていくのを見るのが辛かったからであります。相手と普通の関係が築けないから、こちらも激しいことをしなければならなくなるのです。それはどうしようもないことなのです。義母と言えども、ただの他人なのです。その娘と結婚したからといって、必ずしもその親と良好な関係を築かなければならないということでもないでしょうに。ただ、彼が罪と同一化しているために、それがとてつもない罪であるかのように体験されてしまっているのです。
 
(文責:寺戸順司)