<テーマ216>夫婦という人間関係~親(10)

<テーマ216>夫婦という人間関係~親(10)

(216―1)スケープゴート構造の概略
(216―2)SG構造に生きる彼
(216―3)「賛同者」としての妻


(216―1)スケープゴート構造の概略
 いつかスケープゴートの心理に関するページを設けたいと思っています。そこでまた論じることになるでしょうが、ここでいくつか概要的に述べることにします。というのは、それに関する理解があると、この事例がより理解できると私が考えているからであります。
 スケープゴート(以下SG)とは、ある出来事や体験に対して、誰かにその罪や責があるとみなすことです。ここにはSGの与え手と担い手の二者があります。ここに、与え役に賛同する人たちがいれば、SG構造はより速やかに形成されます。
 SGの与え手は、誰かに罪と責任を負わせることで、自分たちが救済されるような体験をします。そして、自分たちが正しいと思えるのです。不都合なことを受け入れることができなければできないほど、この役割の人はSGの引き受け役にそれを投与することになります。
 一方、SGの担い手は、罪を一身に負うことになります。あらゆることの罪と責任が自分の負わされるのです。絶えずそうしたものを負わされ、心の中に罪が流入してくるうちに、罪は彼自身になるのです。彼自身が罪と同一化してしまうのです。罪は自分の一部とは体験されなくなり、自分の存在自体が罪であるという体験になっていくのです。
 この事例は、彼と妻がその都度の決断をしていれば、ここまで発展することはなかったのかもしれないのです。「それは親同士の問題だから親同士で何とかして」、「結婚したのだから夫婦のことは私たちで決めます」、「一緒に家を出て二人で生活します」、「私たち夫婦のことですからお義母さんは口出ししないでください」、「僕たちで何とかします」、などなど、その都度の決断があれば良かったと私は思うのです。
 罪と過剰に同一化している個人は、こうした決断ができないのです。その決断に罪悪感が付着してしまうからであります。彼は何一つ決断してはいけないとか、あるいは、それができないかのように体験していましたが、何かを決断することが罪を重ねることのように体験されていたようです。
 こうして、SCの担い手は与え手に背くことができなくなり、何か強制的な力でもって自分が従わされているというような体験をしてしまうのです。大抵の場合、担い手には自分に何が起きているのかが見えないのです。

(216―2)SG構造に生きる彼
 彼は罪と過剰に同一化してしまっています。そのために、自分の決断や選択は罪悪感と結合してしまい、それをすることがとても悪いことのように感じられるのです。
 同じことは妻に関しても言えるようです。彼女は母親に反すること、母親と異にすることを過度に恐れています。そこに罪意識が結合してしまい、そうすることがたいへんな罪責であると感じられるからでしょう。
 義母なんか放っておいて、妻を連れて二人で生活してもいいのにと、私がそれとなく振ったことがあります。彼は本当はそれをしたいのだと答えました。したいと思うことができないのです。私は「できない」の方向へ話を進めるのは得策ではないと思い、「案外、簡単かもしれませんよ、決断すればいいのだから」と持って行ったのです。すると、彼は、「それをすることは何だか悪いことのように思う」と答え、「いろんなゴタゴタを放置して自分たちだけ逃げるようで」と話しました。それもいいではないかと私は個人的にはそう思うのですが、彼にはそれを「悪」と感じているのです。この辺りからも彼がいかに罪意識に苛まれているかが窺われます。
 当初から、彼に「負い目」のようなものがあったので、罪意識の取り入れと同一化が円滑に進んでしまったのかもしれません。もう一度、発端の場面を見てみましょう。双方の家族が面会しています。彼の父親が余計なことを言ってしまったのです。ここに彼の方に負い目が感じられていたかもしれません。
 この場面において、彼は何もできませんでした。事態に圧倒されてしまっていたかもしれませんし、単純に、予想外の展開になってしまってどうしていいか分からなかっただけかもしれません。でも、彼の家族がきっかけを作ったということで、彼は責任を感じていた可能性はあるでしょう。
 義母と妻は、あたかも彼がその状況を創ったかのように言います。仲裁に入らなかった、その場をうまく納めなかった等々、彼に責任を投与するのです。しかしながら、「先日は父の一言で気分を害されたことと思います。謹んでお詫びします」と言えばいいだけのことではないかと私は思います。彼ができるのはそれだけであって、それで十分責任を果たしたことになるのではないでしょうか。
 ところが、義母たちはこの状況、この事態を改善することを彼に求めます。これが無茶苦茶な要求であるというのは、彼がそれをしたのではなく、彼の父親がそれをしたということが無視されているのです。あたかも、親の罪を子供が負うのが当然だと言わんばかりであります。さらに、義母たちの言う改善の内容をよく見ますと、自分たちが傷つく前の段階に戻せと言っているようなもので、時間を逆戻りでもさせない限り無理な要求を出しているのです。
 最初の負い目があるので、彼はなんとか要望に応えようとしたのかもしれません。でも、彼が何をしても、要望通りに行動しても、義母たちは納得せず、自分たちの望み通りにいかない状況をさらに彼の問題に帰属させてしまっているのです。こうなると、彼の罪や責任の範囲外のものが、ますます彼に持ち込まれてしまっているのです。
 こうして、彼が罪を負わされ、その罪や責任を背負い込むほど、彼は無力化してしまいます。無力化するのは、自分の言動すべてに罪悪感が付着してしまうからです。何かを言うのでも罪悪感を先に感じてしまうのです。彼はますますものが言えなくなり、行動が制限されてしまうのですが、それもまた彼の「問題」だと見做され、そこで義母たちの「治療」が発動されてしまうのです。
 尚、悪いことに、SGの担い手は自分が過剰に罪を背負っていること、余計な罪責まで背負い込んでいるということに気づかないのです。むしろ、その罪責が当然のことのように感じられていたりするのです。自分が他の人たちの罪や責任まで負っていたのだということは、罪悪との脱同一化が推進されて初めて当人に理解できるものなのです。罪の中にどっぷり浸かってしまっている状況では、それが見えないのです。
 彼とのカウンセリングで、私が目指していたことの一つが、それだったのです。彼は罪の循環から抜け出さなくてはならなかったのです。そのために、私はこの関係の「外」にいなければならないと考えていました。その世界に入ってしまえば、私のことも「罪責」との関係で彼が体験することになりかねないと思ったからでした。
 もし、彼の一人暮らしが、こうした罪や責任、悪から彼を保護するような働きをしていれば、まだその一人暮らしも効果があったと言えるでしょう。もっとも、その場合でも、再び義母たちに接すれば元に戻ることでしょうが、それでも罪責との脱同一化過程は進んだ可能性はあり得るでしょう。そうすればもっと物事が彼には見えてきただろうと思います。
 ところが、彼に独り暮らしをさせておいて、罪だけは彼に追及するということを義母たちはしているのです。結局、一人で生活していようと、義母たちと生活していようと、義母たちが同じことをしている限り、まったく意味がないのです。彼がどこに居ても、彼を追い込むことだけは忘れずに行っているのです。このことは、取りも直さず、それが彼の問題ではなく、義母たちの問題だからということを証明しているのです。

(216―3)「賛同者」としての妻
 彼が破綻してから、私は初めて彼の妻という人に会いました。合計4回ほどお会いしたのでしたが、改めて理解できたこともあるので、彼女に関することも取り上げたいと思います。
 彼女もまた母親から罪をもたらされていました。彼が一緒に生活することで、自分に向けられた罪責が彼に向かって行くことになったので、彼女としては負担が軽くなったように感じられたのではないかと、私は憶測します。
 自分への負担が減るので、彼女としては、彼にその役割を担い続けてほしいという気持ちがあったかもしれません。それはつまり、彼女もまた彼に罪責を負わせるようにせざるを得ない状況であるということです。彼が罪責をかぶってくれる限り、この関係においては、彼女は助かるわけなので、彼女は彼の無罪を証明したくなかったかもしれません。
 この事態は、彼女が終始、義母の見解に賛同していくことによってもたらされたのだと思います。SG構造において、彼女は「賛同者」役割を担っているのです。
 その彼女でありますが、一度も満足な恋愛をしていないのです。交際を始めた男性たちは、しばらくすると彼女の元を去って行くのです。「母親を何とかしてくれ」とか「お母さんと交際しているみたいだ」というかつての彼氏たちの言葉は、そのままその状況を反映しているように私には思われます。
 相手がだれであろうと、母親はそれをしているのだと思います。これはすごく微妙な形でなされるのだと思います。娘が男性と交際するのは反対しない、でも、交際した男性たちが気に入らないという形を採るのだと思います。そして、母親はこの男性たちを受け入れようとするのですが、それは母親の気に入るように彼らを「変える」という活動になっていくのだと思われます。
 そこで彼氏たちは、まず自分が「落第」しているということを母親から受け取るのでしょう。そこで母親に認められようとして頑張ったりすると、カノジョである娘とではなく、その母親との関係が密になってしまうのでしょう。前記の彼氏たちの言葉はその辺りの事情を述べているように思います。
 この母親に何があったのか、何を抱えているのか、私は知りません。この義母は常に事例の前面に現れていながら、詳しいことは何一つ分からないのです。そこにこの母親の在り方とか、問題の所在が示されているように思うのですが、私にははっきりしたことは言えません。以下に述べるのは、あくまでも私の推測であることをお断りしておきます。
 この母親は自分が良くない存在であるとか、自分に罪があるといった体験に耐えられないのでしょう。罪や悪は自分が引き受けるのではなく、外在化して、誰かにそれを負わせたくなるのでしょう。だから、罪の担い手を母親は手放したくないと、そう無意識的に思うのでしょう。
 母親の中では、自分がその対象を手放したくないと思っているとは夢にも思っていないでしょう。ただ、その対象を何とかするために、「治療」するために、関わりを持っているのだと言うかもしれません。でも、この事例を見ても分かるように、彼を放っておいてくれないのです。義母の方が積極的に彼に関わっているのです。
 義母は一体何を受け入れられないのでしょうか。私には分かりません。ただ、この義母は、自分自身、自分の生涯、境遇をひどく恨んでいる人ではないかという気がしています。だから自分をすごく不幸な人間だと体験しているのではないかと思います。でも、その不幸の源泉は母親の中に根付いている憎悪のためであるとは信じていないのです。
 この憎悪に目を向けることはとても苦しいことなのでしょう。母親の中で、本当に罪責があると感じられている誰かを見てしまうことになるからです。その「真の罪人」と向き合う代わりに、「代理の罪人」を必要として、その「代理人」と向き合うことで自分の問題と向き合っているといった錯覚を起こしているのかもしれません。そうして自分をごまかして、向き合ってこなかった人であるように私には思われるのです。
 繰り返しますが、この母親に関しては、資料があまりにも少ない上に、役に立つような資料がほとんど得られていないという状況で、あくまでも私の推測とか憶測で述べているということを再度強調しておきます。
 さて、話をその娘である妻に戻しましょう。
 彼と結婚してからの彼女の大きな事件は流産でありました。彼女はそれをどんなふうに体験したことでしょう。彼女との面接で、機会があればそこに触れてもいいとは思っていましたが、時期を見計らおうと思い、差し控えていたのでした。結局、そのまま彼女から聞き出すことなく終わってしまいました。
 この流産の原因を、義母は彼に求めました。彼がしっかりしていないから娘がこんな目に遭うのだという理屈を展開したのでした。しかし、これも言いがかりのようなもので、妻のストレスの源が本当はどこにあったのでしょう。
 流産というのは、私の生半可な知識では、妊婦の身体的条件や心理的条件に大きく依存するものだと思います。周囲の人がどうにもできない場合だってあることでしょう。義母はこの流産の責任が彼にあると主張していたのですが、当然、それは見当違いの言いがかりなのです。このことは後の「時間論」で取り上げることにします。
 さて、初めて彼女とお会いした時、彼女はひどくパニックに陥っていました。このパニックは何によってもたらされたのか、何に対する反応だったでしょうか。変わり果てた夫を見たことでしょうか。一部はそれもあるかもしれません。でも、決定打となったのは母親の言葉ではなかったでしょうか。私はそう思います。
 滅茶滅茶になった部屋にうずくまる彼を見た衝撃よりも、その後で母親が放った言葉の衝撃の方が彼女には強かったでしょう。母親は、「しっかりしていない人は何をしてもダメね」と冷たく言い切ったのでした。恐らく、彼女は母親がどんな人間なのかを、その時、本当に知ってしまったのだと思います。そして、そんな母親の娘であることに彼女は遂に耐えられなくなったのだと思います。
 この経験は彼女には辛かっただろうと思います。でも、彼女と母親との分離の一つの契機になるものだったと今でも私は考えています。せっかくの契機も、母親は台無しにしているのです。彼女が、母親が亡くなるまで待つと述べているのは、こうした感情を背景にしているものと思われるのです。

(文責:寺戸順司)