<テーマ215>夫婦という人間関係~親(9)

<テーマ215>夫婦という人間関係~親(9)

(215―1)「カメレオン」的自我と罪
(215―2)母性原理
(215―3)一人暮らしということについて
(215―4)矛盾するメッセージ


(215―1)「カメレオン」的自我と罪
 双方の家族について、前項では考察しました。ここから彼のことに触れておきましょう。
 彼は彼で取り組むべき「問題」を抱えている人でした。そこは否定しないのですが、ただ、それは義母たちが思い込んでいるような「問題」とは種類の違うものであります。
 義母たちは彼のことを「自分を持っていない」という人として捉えていました。これは必ずしも間違いとは言えないのですが、それでも彼の「問題」のわずかな部分を掠めている程度のものであります。
 実母と義母との間を彼は行き来していました。義母に言われたから実母に会いに行き、実母から言われたことを義母に伝えるという、それだけのことだったのです。伝書鳩のように一方の言葉を他方へ伝え、返事をもらってはそれを伝えるといった役回りでした。
 義母に言われれば義母の期待に添おうとします。妻に言われれば妻の期待に応えようとします。カウンセラーである私の言葉にも忠実に従おうとしていました。恐らく、実母に対してもそうだったでしょう。ここに彼の「生き方」がよく現れているように感じます。
 もし、彼のことを周囲に対して受け身的に反応してしまう人だと思われるなら、一部では正しい面も含んでいますが、それもやはり正しくはないように思うのです。
 彼は自己を喪失してただ受け身的に反応しているのではないのです。ここにはもう少し違ったニュアンスがあるのです。いわば、赤に混じれば赤になり、青に混じれば青くなり、黄色に混じれば黄色になるというように、カメレオン的に反応しているのです。受け身的という場合、赤に混じれば赤に添うようにして、青に混じれば青に添おうとするのであり、赤になったり青になったりするわけではないのです。
 従って、彼は「自分を持っていない」のではないのです。容易に周囲に染まる「自分」を持っているのです。彼はその時々で「違った自分」を持っていると言ってもいいかもしれません。
 なぜ、そう言えるのかと言いますと、彼が葛藤を経験していないからです。赤に混じれば赤になり、青と接すれば青になるという生き方は、表面上のケンカも生じないし、内的な葛藤も生じさせないのです。赤に混じっても赤になりきれないからケンカになったり、葛藤を経験したりするものなのです。
 ちなみに、こうした「カメレオン的人格」は、精神病の素養の一つであるのです。だから、彼が最後に精神病様の状態に陥ったことは、頷けないことはないのです。
 彼の「カメレオン的人格」ないしはその生き方は、彼をあらゆる葛藤や諍いから守ってきたことでしょう。何色に染まればいいか分からない時は、困惑し、心的機能に制止がかかるのではないかと私は思います。
 ところで、この種の人たち、つまり「カメレオン的な人格」を有しているような人たちは、私の見解では、とても見込みがある人たちなのです。彼らは「理想的」な相手と一緒の時には、その「理想性」を速やかに自分の中に取り込むのです。相手が健康ならその人もまた健康になっていくのです。善に染まれば善になるということです。もちろん、その反対の場合も、彼らにとっては不幸なことだけれど、彼らに生じるのです。
 このような人たちが取り込むのは、相手の「無意識」的な部分なのです。表面的な部分よりも「無意識的」なものに染まる傾向が強いのです。義母は彼を義母なりに「援助」しようとしていましたが、彼は「援助」以外のものを取り込んでいます。それは責任とか罪であります。これらは義母が無意識的に抱いている観念であることが窺われるのです。
 義母も実母も、そして妻も、直接的であれ間接的であれ、彼に罪を被せているのです。彼は容易にこの罪を取り入れ、同一化していきます。罪は彼の中にあるのではなく、彼そのものが罪になってしまうのです。彼の全体が罪で覆われると言ってもいいかもしれません。
 私がお会いした時には、彼はこの罪をかなり自分のものにしていました。自分に罪がある、自分自身が罪であると体験されているから、罪を告発する人の言葉に従ってしまうのです。自閉症の診断を求めに病院に行ったり、カウンセリングを受けなさいと言われて受けに来たりしているわけであり、すでに無力化が進んでいたのです。
カウンセリングにおいて、個々の事柄に関して、彼に本当に責任があるのかを検討していっても、彼にはなかなか理解できないでいました。この作業を繰り返していく中で、ようやく、「そう言われれば自分のせいではないことが頭では理解できるのだけれど、どうしてもそれが納得できない」というところまで理解が進んでいったのです。しかしながら、これは大した前進だと私は思います。
 罪と同一化している個人は、なかなか自分が一方的に押し付けられた罪を取り入れてしまっているということに気づかないのです。罪との脱同一化の過程が進行するにつれて、それが見えてくるのですが、それまでは決して気づかれないのです。彼は少しでも自分のせいではないということが見え始めていました。

(215―2)母性原理
 カウンセリングでは、彼の「罪」の軽減が目指されました。でも、その時はいいのですが、義母たちと接触すると、彼は再び罪の感情に支配されてしまうようでした。
 そんな矢先に、彼は自分が惨めな感じがすると言っています。詳しく聴くと、自分が哀れで泣きたくなるということでした。彼の中に自己憐憫の感情が芽生えています。私はそれはいいことだと伝え、その感情をそのまま体験し、泣きたいときは泣いたらいいと伝えました。
 自分を憐れむということは、自分に対して母性性を発揮しているということではないかと私は捉えています。それまでそういうことを経験していなかった人に、それが生じ始めたわけなので、ここには彼の心の変化が表れているのです。
 母性とか父性というのは、誤解を招く表現かもしれませんが、一応、この言葉を用います。私たちの中にはそれぞれ割合は異なれど、母性と父性と呼べるような心的傾向を有しています。罪という観点に立てば、父性は罪を告発し、罰する働きとして見られることになるでしょう。それに対し、母性の方は、罪を赦し、贖いへと方向づけることでしょう。
 私は彼の中で動き始めている「母性原理」を伸ばしたいと願っていました。ある程度までその作業をしていった矢先に、妻の流産という出来事が起きたのでした。周囲の人たちは、それによって、以前よりも激しく彼に責任を問うようになりました。この時期、せっかく芽生え始めた「母性原理」も粉砕され、元の木阿弥になってしまったのです。
 彼の中はますます罪で一杯になり、罪を宣告する「裁判官」の言葉に従わなければならない気持ちを強めていきます。「裁判官」の言葉に従って、彼は一人暮らしを初め、カウンセリングをも中断したのでした。一番選んではいけない選択を、彼はしてしまっているのです。私にはそれが見えていたので、何とかして彼をつなぎ止めようとしたのですが、私は義母よりもはるかに非力でした。
 最後に、彼は妻によって「発見」されました。一体、彼に何が生じたのでしょう。
 一人暮らしをしてからの彼はおそらく、罪としか接することができなかったのだろうと思います。もはや私の推測でしか言えないことなので、実際はどうであったかは分かりませんが、望ましいものとの関係やつながりを彼は失っていったのだと思います。
 思い出すのは、彼が報告した夢です。恐ろしい怪物やゾンビに占められるというあの夢です。彼は恐ろしいものと戦おうとしたのではないかと想像します。部屋の鍵が開いていたというのは、もはや恐ろしいものが身辺のそこかしこに迫っているからであり、鍵をかけて守ろうという段階を通り越していたのではないかと思います。あるいは、誰かに救出されるのを、運を天に任せる気持ちで、鍵を解放していたのかもしれません。
 この戦いに、彼は敗北しているのです。身をくるむ毛布の中だけが安全領域になっているのです。その中で彼はひたすら「怖い、怖い」と呟き続けていたのです。そこには、戦意も失せ、ひたすら怯えていることしかできない一人の男性がいるだけなのです。

(215―3)一人暮らしということについて
 次に考えたいことは、義母が彼に対して取った処置であります。
 彼は一人暮らしをすることになりました。せっかく結婚した夫婦がどうして別々に暮らさないといけないのか、それも強要されてそうするなんて、おかしな話であります。
 義母は彼がしっかりしていないから、しっかりするために独り暮らしを経験しないといけないと考えていたようです。でも、この理屈はすごく不思議に聞こえないでしょうか。
 彼に尋ねてみると、一人暮らしをすると、自分のことを自分でするからしっかりするのだと義母は考えているらしいということでした。それはつまり、身の回りに関すること、生活習慣に関することでしかないのではないかという気がしてきます。
 私は一人暮らしを経験している人で、しっかりしていない人をたくさん知っていますし、一人暮らしをしているからと言って、身の周りのことをきちんとする人ばかりではないということも知っています。要するに、一人暮らしをするかどうかは、それらにさほど関与していないと私は考えています。
 もし、こういう質問をしたら、あなたはどう答えるでしょうか。一人暮らしをすればしっかりするのなら、小学生くらいでみんな一人暮らしをしたらいいということでしょうか。
 あなたはこう答えるかもしれません。小学生に独りで生活することはできないと。それは小学生の子供がまだしっかりしていないからだと、そう答えるかもしれません。そうだとすれば、これは問いと答えが循環してしまいます。矛盾が生じ、その矛盾を巡って堂々巡りしてしまいます。
 つまり、しっかりしていないから一人暮らしをするべきだという命題と、しっかりしていない人(子供)は一人暮らしをさせないべきだという命題とが、両立してしまうことになります。
 そこであなたは、それは子供と大人の違いがあると反論するかもしれません。では、大人では良くて、子供ではダメだというその根拠は何でしょうか。
 あなたは、子供は自分を律することができないからだ。仕送りしても無駄使いとかしてしまうからだと答えるとしましょう。と言うことは、しっかりしているかどうかは自分を律するかどうかという違いに還元されてしまうことになり、一人暮らしをするかどうかは関係がなくなります。
 では、人はどのようにして自分を律するようになるのでしょうか、あなたはこう質問してくるかもしれません。それならどうして一人暮らしをしてしっかりする人とそうならない人がいるのか、私の考えを聞かせてほしいと。
 私の答えは簡単なものです。一人暮らしをする前に、二者関係をしっかり経験しているかどうかということの違いなのです。詳細は省きますが、私のこの返答は、その人にとって手本となる相手が内在化されているかどうかの違いということに行き着くのです。
 子供が自分を律することができないから一人暮らしはできないという時、実は二者関係を前提にして述べているのではないでしょうか。律することを教える人間、その手本となる人間の存在を暗に含んでいるのではないでしょうか。また、一人暮らしをするとしっかりすると言う時も、二者関係を前提にしているのではないでしょうか。

(215―4)矛盾するメッセージ
 では、事例の彼の場合はどうでしょう。義母が一人暮らしをさせて彼をしっかりさせようとするということは、当然、それが有効だと義母が信じているからでありますが、彼には二者関係が十分に確立されているという前提が同時にあるということになります。
 彼に二者関係の経験がしっかりあるとすれば、妻との二者関係もしっかりできるはずであります。ところが、義母はこれに反対しているのです、義母は矛盾していることを言っているのです。
 まず、義母は彼と実の親の関係が悪かったと見做しています。健全な二者関係がそこで築かれていなかったと義母は見做していることになります。義母は彼が二者関係を十分に経験したことがないということをここで暗に認めているのです。
 しかし、彼に二者関係をしっかり形成した経験があるという前提があるから、彼の一人暮らしを有効だと考えたはずなので、矛盾が生じているのです。
 さらに、義母たちが彼に向かって言った言葉を振り返ってみましょう。まず、彼はしっかりしていないと言われています。自分の感情を表現しないし、考えや意見を言わないと言います。これはどういうことでしょう。
 しっかりしているかどうかは別としても、自分の感情を表現したり、考えや意見を言うということは、二者関係にて成立する行為であります。独りだけの世界では、その人は殊更そういうことをしなくてもいいのです。相手がいるから表現が促されるわけであります。また、相手があるから自己の限界を知り、自己の輪郭が明確になっていくわけですから、同じように彼がしっかりするというのも二者関係にて成立することであります。
 従って、義母たちは、彼にそのようなことを言うことで、しっかりしていないとか意見を言わないとか言うことで、彼が二者関係で生きていないということを積極的に認めているのです。そればかりか、彼にそういうことを求めるということは、彼に二者関係を経験しなさいと言っていることになるのです。
そうすると、一方で二者関係を経験しなさいと暗に仄めかしておきながら、他方で二者関係を経験してはいけない、一人暮らしをしなさいと伝えているのです。これらが同時に彼に伝えられるのです。彼が何も言えなくなるのは当然というものなのです。
 一言で言えば、義母の理屈は滅茶苦茶だということであり、思考が混乱していると言うよりも破綻して支離滅裂になっていると言った方が正しいようにさえ思います。そして、それはそのまま義母の体験している破綻を表しているのだと私は思います。義母の中で自己がしっかしていなくて、バラバラになって、その都度、表面に現れた思考で対応しているのだと思います。

 結果的に彼の一人暮らしは「間違い」であったことが証明されるのですが、続きは次項に引き継ぎます。

(文責:寺戸順司)