<テーマ214>夫婦という人間関係~親(9)

<テーマ214>夫婦という人間関係~親(8)

(214―1)関係者が自分の「問題」を持ち込む
(214―2)関係者~妻の家族
(214―3)関係者~彼の家族


(214―1)関係者が自分の「問題」を持ち込む
 痛ましい結末に至った一事例を紹介したのですが、いくつか補足的に説明をしておこうと思います。
 この事例のように、双方の親の間でトラブルが生じて、子供夫婦が巻き込まれるというケースが最近増えてきたように私は感じています。そして、こうしたケースは、例えば夫婦間のDVの問題などよりも、はるかに複雑な様相を呈することが多く、全体を考察するのが難しいと個人的に感じております。

(ケース17)
 別の事例では、それまで双方の親に良好な関係が築かれていたのに、孫が生まれるという時に双方の見解が衝突して揉め事になるというケースもありました。どちらの家で面倒をみるかとか、そうしたことでもめたりするのです。私からすれば元気な孫が生まれればどちらでもいいじゃないかと思えるようなことなのですが、親たちからすればすごく切実な問題に見えているようなのです。
 そこまではいいとしても、ここで子供たち夫婦に意見を求めたりします。でも、彼らもどう言っていいのか分からないのです。第一、孫(子供)が生まれるのは、この夫婦間のことであって、親たちの期待は願望の枠外の出来事なのです。そこで親たちの希望にすべて応えようとすると負担がとても大きく感じられたりするのです。親同士でそんな言い合いしていないで、できれば自分たちのことは放っておいてほしいというのが、彼らの感情であったりするのです。
 すると、本当は親たち自身の問題なのに、子供夫婦がはっきりした要望を言わないとか主張して、あたかもそれが子供たちの問題であるかのように親が騒いだりするのです。子供夫婦は、こうなると、嫌でもそれに巻き込まれてしまうのです。そして、この人たちが私の所に来られるのです。
 ひどい時には、どうして子どもたち夫婦がカウンセリングなんて受けているのだ、精神的におかしくなったのかと、子供たちが自ら希望して受けているカウンセリングに関しても騒ぎ始めたりするのです。双方の親だけでなく、親戚とかがこれに参戦してさらに事態を拡大してしまうというようなことも生じるのです。私としても非常にウンザリするのです。

 こういう問題の一番厄介な点は、それが元々は誰の問題であったのかが、事態が広がるにつれて、曖昧になるということです。この騒動に巻き込まれている人それぞれがそこに自分の「問題」を持ち込んだりするので、状況はさらに錯綜してしまうのです。
 もしかすると、そこまで事態が複雑になる前の段階を見てみるなら、案外、簡単に解決することだったのかもしれないのです。
 この(ケース16)に関して言えば、まず、私が真っ先に思い浮かぶことは、そもそもの最初から双方の親たちが彼ら夫婦の結婚を認めていれば良かったということです。それだけでよかったと私は考えています。

(214―2)関係者~妻の家族
 事例に関する考察に入って行きます。
彼の実母は彼を手放したくないと感じていたかもしれません。少なくとも、義母たちの家族に息子をやりたくないと思っていたかもしれません。
一方、義母は彼に問題があると見做し、同時に彼の実母と争っていました。
これら一連の出来事は、公正に見るなら、彼と無関係の所で生じているトラブルだと言えるのではないでしょうか。親たちが一方的に認めず、一方的にケンカをして、その責任だけは彼に追及するという、そんな事態ではなかったでしょうか。
 もちろん、彼には彼の抱える「問題」というものも確かにあります。もし、この結婚がスムーズに展開していれば、その問題はもっと違った形で現れていたでしょうし、少なくとも彼の破綻にはつながらなかったと私は考えています。その点は個別に考察することにします。
 さて、この事例には多くの人が関与しているのですが、一人一人について私の思うところのものを綴っていくことにします。
 まず、義母がいます。事例をお読みになられた方は、この義母こそカウンセリングとか心理療法が必要なのではないかと思われた方もいらっしゃるかもしれません。それは正しいのですが、この義母のような人はまず「治療」を受けようとはなさらないのです。
 発端は彼の父親の放った心無い一言でした。これに義母は傷つき、憤慨しているのです。でも、そこが「問題」ではなくて、義母の抱えたこの傷つきや憤慨が、一年も二年も義母に付き纏い続けているということが「問題」なのです。
 いつまでもそれが過去になっていかないということは、義母の人格が十分に分化されておらず、尚且つ未統合であるという印象を私は受けます。その一言に対して、人格の大部分が被害を受けており、それを保障するような残部が人格内に乏しいという印象を受けるのです。
 このような人は、罪という観点に立てば、自分の罪を引き受けることができず、むしろ他者に容易に投影する傾向が強くなるのです。罪を入れる容器が自分の中になく、それを他者に放り込むということであります。自我に統合されないものが投影されるのです。
 従って、義母は自分に不都合なこと、自分を苦しめることを、自分の中に抱えるよりも、周囲に転嫁することが多くなるはずなのです。この事例では彼がその役目を引き受けることになりましたが、おそらく、妻や義父もその役目を担っていた経緯があるだろうと思います。
 そうして本当なら義母が抱えるべきものが他者に持ち込まれることになるので、義母の人間関係は融合的にならざるを得なくなります。周囲の人間からすれば、何が自分の感じているもので、何が義母からもたらされたものかが曖昧になってくることでしょう。
 娘である妻にはその傾向が見られるような思いがします。母親の意見はそのまま彼女の意見になってしまうのです。義母が彼に責任を負わせたように、彼女もまた彼に責任を負わせたことになるのですが、彼女の中ではそれが彼女の真意なのかどうかが見えていないようでした。
 義父はこの事例ではあまり表に出てきませんでしたが、私の印象では、義母の関係でかなり無力化されてしまっている男性であるように思われました。義父は一度だけ表に出てきます。双方の母親どうしの争いに対して、父親どうしで話し合ってみようと提案しています。これは本当は素晴らしい提案だったと私は思うのですが、この提案は義母によって却下されてしまい、義父はそれ以上何もできませんでした。
 義父のこの提案は、見方を変えれば、彼の責任や負担を一部担おうとする行為でもあります。義父としては、彼の気持ちが分かるのかもしれません。

(214―3)関係者~彼の家族
 彼の方の家族に目を向けてみましょう。
 実母は彼を手放したくないという気持ちがあったかもしれません。これは二つある仮説のうちの一つであって、あくまでも私の推測であります。実母に関しては、分からないことがたくさんあるからです。
 この問題が生じてから、まず、母親は彼を取り戻そうとしていました。離婚すれば戻ってきて良いという条件を彼に出しています。この時点で、母親は彼が戻ってくることを期待しており、受け入れる用意があるということが窺われます。
 しかし、この態度は途中から、彼を切り離す方向へと向かいます。彼はもはやわが子ではなく、親子ではないとまで言い張るようになっています。顔も見たくない、会いたくないというのは、触れられたくないということでありましょう。この時期に母親の調子がひどく揺らいでしまって、それを心配した姉が登場することになったのでした。
 この母親の変化と動揺はそれなりに意味があるのです。母親の中で息子との離別の作業が進んでいるのです。離婚したくないのに離婚しなければならなくなった人や、失いたくないのに対象を失ってしまった人にはこうしたプロセスが見られるのです。
 最初は取り戻そうとするのだけれど、喪失を受け入れ始めるに従って、積極的に対象を自分から切り離そうとするようになるのです。喪失や別離に見られる一段階なのですが、当人にとっても一番辛い時期になるのです。
母親はその過程に入り始めたように思われるのです。この時、必要なことは、その別れと喪失のプロセスを完遂することであって、そのための支えが必要なのです。
この母親の場合だと、失ったのは息子でした。母親の中では息子との別れのプロセスが進展しています。この喪の作業が妨害されてしまうことは、この母親にとって辛いことだったと私は思います。
義母たちのしていること、または彼を通じてしていることは、この観点に立てば、母親のプロセスを妨げるものと考えることができます。私が彼に母親をそっとしておくようにと伝えたのは、この辛い段階を母親が終えるようにしたいからでした。
しかしながら、義母たちは諦めることなく、また、彼もそれに従うのでした。さらに、ここで姉が登場して、母親の作業を妨害する形で関与してきます。姉は母親に息子を連れ戻そうという動きを示しているように思われます。姉にそういう意図がなくても、姉が新たに関与してくることによって、母親は刺激を受けざるを得なかったことでしょう。
 もう一つの仮説の方も考えてみましょう。それは実は母親はそれほど彼と強い結びつきを有していなかったかもしれないという仮説です。最初の仮説よりも、この方が、彼の場合、よく該当するようにも思います。彼は親子という二者関係を十分に経験してこなかったことが窺われるのです。
 こちらの仮説では、母親は息子が離れていったことへ反応しているのではなく、息子が持ち込むものに反応しているということが考えられるのです。
 彼は実家に何を持ち込んでいたでしょうか。義母の言葉であり、義母の要求です。これは事例のところでも述べましたが、彼の実家に対する侮辱、侮蔑を含んでいます。
 母親の立場で言えば、結婚して家を出て行った息子が、時々やって来ては、自分たちを侮辱する言葉を述べていくのです。相手の侮辱の言葉を息子から聞かされるわけです。母親のショックは相当なものだったと思います。だから、「あの子は変わってしまった」という母親の言葉が出てくるのだと思うのです。
 個人的な感情を露わにして申し訳なく思うのですが、義母のやり方は実に卑劣なのです。義母が自分で侮辱の言葉を言いに行くのならまだ潔いと思えるのですが、それを彼らの息子にさせているということになるのですから、実に卑怯だという気がしてくるのです。
 私の感情はさておき、母親も苦しかっただろうと思います。と言うのは、それが息子の意見であるとか、息子の反抗であるとか、そういう意味合いで受け取ることができないからであります。明らかに義母から求められ、義母から言わされているということが、おそらく、母親には分かっていたでしょう。
関係が希薄だったとしても、母親からすると、30年も息子と一緒に暮らしてきた経験があるわけです。30年間に一度も言わなかったようなことを、息子が突然言うようになっているのです。母親からすれば、これは信じたくないことかもしれません。
 この観点に立つと、母親が彼に離婚したら戻ってきてよいと言うのは、息子がそういう言葉を向こうの家族たちによって言わされているということをどこか感じ取っていたのではないかと思います。つまり、あの家族と一緒だから彼がそんなことを言うのであって、離婚したらきっと元の彼に戻るだろうし、そうなったらそれまでのことは許してもよいということだったのではないかと推測します。
 しかし、母親の態度は変わってきます。母親は彼と積極的に決別しようとします。それは同じなのですが、ここで母親が排斥したいのは、親を侮辱する息子であり、その言葉とか思考であるということが考えられます。つまり、息子は以前の息子ではなくなった、だから初めからいなかった子供にして、その現実から逃れたいというのが母親の気持ちだったのかもしれないということであります。
母親の状態が悪化していくのを見かねて、姉が登場します。この姉という人は、彼の話では、自分がすべてを治めたがる傾向がある人ということでした。この姉はまず義母と接触しようとしています。姉からすると、義母とはウマが合うように見えていたかもしれません。実際、両者は似ている部分があるように私には思われました。
父親は、発端に関係しているだけで、その後は姿を見せませんが、影の薄い人のようでした。むしろ、他者に関してあまり関心を寄せないタイプの人であるのかもしれません。義母や妻を傷つけたのも、単純に他者への無関心さの表れと見ることもできそうであります。
 父親はこの事態に関して、彼に救いを求めていました。母親が動揺し始めており、彼に何とかしろと頼んでいるわけです。母親の動揺で自分が苦しいので、それを何とかしてくれという要望だったのだと思います。母親の中で、あるいは彼の中で、どういうことが生じているのかとか、そうした観点は有していなかったのではないかと思います。それが他者への無関心ということであります。

 さて、長文となりましたので、続きは次項にて綴ることにします。

(文責:寺戸順司)