<テーマ210>夫婦という人間関係~親(4)

<テーマ210>夫婦という人間関係~親

(210―1)義母の見解への反証
(210―2)心的機能の制止
(210―3)実父・実母の動き
(210―4)義父・実姉の動き
(210―5)夢と自己憐憫


(210-1)義母の見解への反証
 30歳の男性の事例を続けます。
 少しだけ前項のことをまとめておきます。彼は、結婚して、妻の実家にて妻の家族と一緒に生活しています。結婚前に双方の親同士のケンカが始まり、その責任が彼に負わされることになってしまいました。実母とは絶縁状態となっています。義母や妻たちは、彼に実家に行かせます。ただ、何のためにそうするのか、義母たちの要望は実に曖昧なところがあります。義母たちのしていることは、本当は彼の実家への侮辱なのですが、それを彼に代行させていると考えることができます。
 その辺りの事情を前項では記述したのでした。それでは事例を続けます。
 彼は「自分がない」と訴えます。誰がそんなことを言っているのと私が問うと、「義母と妻がそう言っている」と答えます。私は彼にそれが話題になる場面のことを詳述してもらいました。ウンザリするほどのやりとりです。
 ここでも循環論法の罠があるのです。「あんたは自分を持っていないから自分の考えがないのだ」に対して、「考えを持っていないのは自分を持っていないからだ」という循環なのです。義母たちにとって、「自分がない」とは「自分の考えを持っていない」ということであり、では「自分の考えを持っていない」とはどういうことかに対して「それは自分を持っていないということだ」と答えているのです。彼と義母たちとの間でこのやりとりが延々と続くようでした。
 私は義母たちの見解に賛同しません。彼らが物事をきちんと見ることのできる人であるかどうか非常に疑わしいと思うからです。はっきり言います。義母も妻も、後に登場する彼の姉も、まともな思考力があるとは思えない人たちなのです。
 もし、義母たちの見解を採用するなら、それは次のようにしなければならないのです。彼には自分をしっかり持っている領域とそうでない領域とがある、同じように、自分の考えをしっかり持っている領域があればそうでない領域もあると考えなければならないのです。これは事実そうなのであって、後で説明しますが、このように思考が発展するなら、「領域」という要素がここに入ってくることになり、それによって議論が先に進むのです。
 「AだからBだ、そしてBなのはAだからである」という循環を断ち切ろうと思えば、そこにAとB以外の第三のものが持ち込まれなくてはならないのです。義母や妻の思考はそうした柔軟性に欠いているのです。
 彼は30年間生きてきました。学校も卒業し、大学も出ました。就職してすでに7年近く同じ職場で働き続けています。特に大きな問題を起こしたこともなく、目だった不適応もなく過ぎています。果たして、自分がないという人にそれができるでしょうか。自分の考えを持っていない人に職業選択ができるでしょうか。だから、領域によっては、彼は自分をしっかり持っているし、考えも持っていると言えるのです。
 彼が自分を持っていないということに対する反証がもう一つあります。彼は何も考えられなくなると言います。話し合いの中で、ある場面、ある種の質問に出会うと、彼の心は硬直し、何も考えられなくなるのです。思考や心の動きに制止がかかるのです。自分に制止をかけるほどの自我が彼には備わっているということなのです。だから、彼自身に働きかける自我を彼は有しており、そこで何も言えなくなるという自分を持っているのです。
 従って、彼が「自分を持っていない」とか「自分の考えを持っていない」という断定は正しくないということが言えるわけなのです。

(210―2)心的機能の制止
 自我がその心的機能に制止をかける場合にはいろいろな場面が考えられるのですが、その状況が手に負えない時にしばしば見られるものなのです。これはよく「仮死状態」に例えられるのですが、手に負えなくて、圧倒されるような場面に遭遇した時に、自我は自身を守るために機能を制止し、主体がその場をやり過ごすことを手伝うわけであります。
この観点に立つと、義母たちの問いかけというか、質問攻めに対して、その状況は彼の手に負えないものなのだと私には思われるのです。手に負えない事態に直面して、心はその心的機能をストップするのです。ここでストップできない場合、さらに深刻な事態が襲ってくるのです。内面は分裂し、パニックに陥り、混乱してしまうでしょう。そうならないように自我はそうして自身を防衛しているのです。
 それよりも肝心な点は、義母たちは彼の自我が適応できないような状況を創りだしてしまっているのです。まさか自分たちがそういうことをしているとは思いもしないでしょう。彼らに思考がないからであります。この状況に彼はそういう形で適応しているのです。この適応を彼女らは彼の「病気」だと見做しているのです。心的な機能の制止を自我の健全な働きとは見做さず、病気と見做しているのです。
言わせてもらえば、彼が適応できるような状況を創ってあげることに彼女らの方が失敗しているのに、それを棚に上げて、彼の方が「病気」だから適応できないのだと主張しているのです。そんなことばかりをやっているのです。公平に見れば、彼女たちの方が彼に適応できていないのです。
 前項で記したように、義母たちが彼に要請する事柄には曖昧なものが多いのでした。「病院に行って、自閉症の診断を貰って来い」は、彼が自閉症であるという前提で語られており、その前提を断定的に強制した発言なのです。また、「どうやったらそんな人間が出来上がるのか、どう育てられたか親に聞いて来い」という義母の要請は、明らかに彼と彼の家族への侮辱を含んでいます。この侮辱は「親の顔が見たいわ」という類のもので、通常でも応じにくい侮辱なのです。
 彼は義母のいいなりになって、実家へ行きます。彼と実母との間のやりとりに関しては具体的に聴くことができませんでしたが、実母たちはカンカンに怒り、彼との間でケンカになります。これは当然、そうなるのです。
 なぜなら、自分たちに向けられた侮辱の言葉を、自分の子供から聞かされることになるからです。親が怒るのは当然だと私は思いますし、親をしてこの子と縁を切りたいという気持ちにさせてしまうだろうとも思います。そして侮辱を発した相手は決してその場に現れず、高見の見物を決め込んでいるという状況ですから、ますます相手に対する憎悪を掻き立てられることだと思います。
 彼は双方のケンカを収束させようとして、少なくとも彼自身はその目的でやってきたことでしたが、実際はその反対であって、ますますケンカを激化させることに一役買っていることになるのです。

(210-3)実父・実母の動き
 感情的になって、話が先走りし過ぎたようです。
 カウンセリングは、まず、彼の混乱に区別をつけていくという方向で進めていきました。つまり、何が彼自身の考えであり期待であるのか、何が義母のそれであり、何が妻のそれであり、さらには何が実母のそれであるかの区別をつけていったのでした。言い換えるなら、彼の自我境界の境界線を明確にしようという方向で話し合いをしていったのです。
 少し先取りして言いますと、他の人に属するものが彼らに戻されていくに従って、彼は自分の考えや期待をより明確に意識するようになっていきました。ただ、これは義母たちには気に入らなかったようでしたが、義母たちのことは私には関係のないことです。
 わずかずつであれ、彼は自分の思考や期待、願望が見えてくるようになっています。しかし、それも安定せず、周囲が動くと彼もそれに併せて動揺してしまうという、まだ脆い段階のものではありましたが。
 一方、この状況を創るのに一役買った彼の実父はオロオロするばかりで、こっそりと彼に救いを求めていました。実母の方は日増しに状態が悪化しているようでした。実母は、「あの子(彼)はいない」「初めから産まなかった子だ」と、しきりにそういうことを言い続けているそうでした。彼としても何とかしたいという気持ちはあったようでしたが、どうにもならないのでした。彼が顔を見せると、実母は必ず混乱するので、私も今はそっとしておく方がいいと彼に伝えました。
 ちなみに、この実母の言葉は、実母の中である種のプロセスが進行していることを思わせるのです。母親は息子を積極的に断念しようとしています。それは、離婚したら戻ってきてよいと言い張っていた頃とは心的に違った状態にあるのです。以前は息子を取り戻そうとしていましたが、今は諦めようとしています。
 このプロセスは、親離れ・子離れを考える際にとても重要なことだと私は考えています。ただし、彼ら親子はこのプロセスをかなり負担の大きいやり方で進めなければならなくなっているという点が問題なのです。

(210―4)義父・実姉の動き
 主に彼と実母の間が険悪になっていて、それをオロオロしながら見届けていた実父がこっそり彼に連絡してきます。実父もどうしてよいか分からず、彼に何とかしてくれないかと頼んでいる始末でした。
そうこうする中で、今度は義父が動こうとしたことがありました。この状態では両家が平行線を辿るから、彼の父親と話し合ってみようと思うと義父は義母に打ち明けたのでした。
 それに対して、義母はあなたがそんなことをする必要はない、それは彼がすることだと言って、義父の提案、おそらくこの事例全体において、もっとも真っ当な提案を義母は退けたのでした。
 それが真っ当な提案だと言うのは、このケンカの発端となった場面を見れば分かります。発端になったのは、彼の実父の心無い一言でした。それに義母が噛みついたのです。彼はそこで仲裁に入らなかったと言われて、責任を負わされていますが、もし、仲裁する義務があった人がいるとすれば、それは彼よりも年長者である実母と義父だったと私は思います。義父は、ここで彼の義務を果たそうとしているのです。あの時果たせなかった義務を果たそうとしているのです。だから真っ当な提案だと私は考えるのです。
 一方、同じころ、彼の姉が義母と話し合いたいといって動き始めたのです。この話し合いは彼にとってさらに不具合をもたらしたのでした。というのは、ここで姉と義母のタッグが生じたからでした。この二人は揃って彼を育てなおそうと計画し始めたのです。まったくもって余計なことです。
 どいつもこいつも割り込んできやがってと、私は正直に思いました。必要なのは彼ら夫婦をそっとしておくことなのです。つまり、夫婦の枠組みをしっかり体験させてあげないといけないのです。これは彼もそうですし、妻にも同じように必要なことでした。それなのに、周囲の人間がその枠組みにズカズカと入り込むような真似をし続けるのです。結婚した夫婦が夫婦でいることが許されないという状態を周囲が作ってしまっているのです。夫婦にとって、これは実に不幸なことだと私は思うのです。

(210―5)夢と自己憐憫
 彼の方はと言いますと、周囲が動いて、騒ぎが大きくなっていくほど、事態に圧倒されていくようでした。
 彼はこの当時、こんな夢を見ています。恐ろしい怪物やゾンビが町中を埋め尽くしている。彼は安全な場所を求めて逃げ惑う。ビルの中の小さな一室に逃げ込む。そこには一人のおじさんがいて、ここなら安全だと思っていたけれど、遂にこの室内にも怪物たちが侵入してくるという夢でした。
 ビルの一室のおじさんというのは、私のことだと私は想像するのです。この夢は、このカウンセリングの場も、彼にとって、もはや安全な場とは思えなくなっており、恐ろしいものが流入してくる場所になっているということなのだと思いました。
 それで、とにかく、彼をこの揉め事の外に逃がすということが早急だと私は考えました。まず、義母たちが実母の所へ行って話をつけてこいと要求してきても、彼にはそれに応じないように頼みました。それを問い詰められたら、「カウンセラーがそれをしないでほしいと言っているから」と答えてよいと私は彼に伝えました。
それに関して、もし義母たちに不満があれば直接私に連絡すればよいとも彼に伝えました。私がこんなことを言うのは、義母のような人は決してカウンセラーと直接やり合ったりはしないということを私が知っているからですが、彼の負担を少しでも軽減することが目指されなければならなかったからです。これは早急の課題でした。
 次にしなければならないのは、彼らの夫婦関係を取り戻すということでした。出来うる限り、夫婦の枠組みを強めたいと私は思いました。妻という人は、彼にとって「一次対象」となっているので、そのつながりを取り戻したいと私は願っていました。
 義母たちとの生活ではどうだったか不明ですが、カウンセリングの場においては、彼は徐々に落ち着いてきました。負担を減らしたことが良かったのでしょう。この頃、彼は自分がとても惨めな感じがすると言って、涙ぐむことも増えました。家に居ても泣きたくなる時があると言います。私はそれはいいことだと認め、泣きたい気持ちになれば泣けばいいと伝えました。
たとえ、カウンセリングの場だけであるにしても、彼に落ち着きが見られるのは望ましいことでした。ただし、この安定も長くは続きませんでした。

 本項も長文となったので、次項に継続します。

(文責:寺戸順司)