<テーマ208>夫婦という人間関係~親(2)

<テーマ208>夫婦という人間関係~親

(208-1)安全領域への侵入
(208―2)彼が辿った経緯
(208―3)妻と義母
(208-4)健全な親子関係は通常の人間関係から大きく外れない
(208―5)二人関係


(208―1)安全領域への侵入
 前項では一組の夫婦の例を提示しましたが、少し説明する必要があるかと思います。
 私のクライアントは夫の方でした。私がお会いした時には彼は心身ともに参りきったという感じが漂っていました。妻と義母は彼の問題だということで譲りませんでしたが、それが誰の問題であろうと、彼を追い込んでいいということにはならないでしょう。事実、彼は少し危険な状態にあったのです。
 彼のことを振り返って考えてみましょう。彼は選択を迫られる時にはしばしば「反対する理由もないから、それでいい」という反応をしています。これは実は賛成も反対もしていないのです。彼は意思表示をしていないのです。
 彼のこの種の反応は他の場面でも見られることでした。仕事に関することでも、彼はしばしばそれをしています。彼は自分の意志を表明することが極端に少ないのです。
 このことは彼が自分自身と十分に接触していないことを示しているのです。そのために自己同一性の確立が不十分であることが窺われるのです。自分がはっきりしないとか、自分というものをしっかり持っていないといった感じに襲われることが彼にはよくあっただろうと私は思います。
 もし、その時々の場面、状況において、自分自身と接触を十分に持つことができないとすれば、それだけ周囲の出来事に大きく影響される可能性が高くなります。そのために、彼が自分自身との接触を達成して自己の確立を促進するために、しっかりした外枠を必要とするのです。
 夫婦で言えば、彼のような人の場合、夫婦の二人単位の関係、枠組みをしっかりしてあげる必要があるのです。その枠の中で守られている感じがあって、安心できるのであれば、彼にとって望ましいことであっただろうと思います。
 このような方とお会いすることも私には珍しいことではないのですが、このような人が配偶者に選ぶのは、不思議にも、彼の望むようなことに耐えられないという人であることが多いのです。
 つまり、彼は二人関係のしっかりした枠組みを必要とするのに、妻は夫婦の二人関係に耐えられない人であるように私には思われるのです。妻は母親を必要としていました。母親もまた娘を必要としていただろうと思います。妻と義母に関しては、後で取り上げましょう。
 比喩的に言えば、夫婦二人の周囲が柵でしっかり囲まれているほど、彼のような人は安心できるのです。その柵が強固であればあるほど彼にとっては望ましいということになるのですが、この柵を越えて入ってくる人、あるいは、この柵を壊してまで入ってくる人は、彼にとって脅威となるのです。彼からすると、その人が侵入してきたように体験されていることだろうと思います。
この侵入してくる第三者(ここでは義母です)の存在は、彼を脅かすことになるのです。もちろん、その第三者が具体的に何かをしたというわけではなくてもです。彼にとって、安全領域に踏み込まれるということだけで、彼にとっては耐え難い苦悩をもたらすのです。
ここが誤解されやすい部分なのです。具体的に何かをしたわけでもないのに、この第三者は敬遠されてしまうのです。だからどうして自分たちが避けられるのかが分からないということになるのです。この夫もそうでしたが、彼は義母を嫌悪しているわけではなかったのです。安全領域に踏み込みこまれなければ、義母を避けるようなことはしないのです。

(208-2)彼が辿った経緯
 昼間、妻は一人で家にいるのだと、彼にそう信じられていた間は良かったのです。彼を脅かすものは何もないのです。やがて、義母のことが明らかになり、この義母の存在がとても大きなものとなっていきます。
妻も義母も、彼に何が起きているのかは理解できていませんでした。また、自分たちが夫に苦悩をもたらしているということも気づいていないのです。親子なんだから一緒にいて何が悪いのといったところだったでしょう。彼が苦しいのはそこではないのです。安心できる関係、あるいは世界に、不安要素が持ち込まれてしまったというところに彼の苦しみがあると私は考えています。
 そして、彼は次のような経緯を辿ったのだと私は考えています。

A)義母の存在が彼に不安をもたらす。この不安は敵意に基づくものであることが考えられます。
B)この不安を彼は隠そう(抑圧しよう)としていた。そのように私には思われます。そうでなくても、彼は義母のことで何か負い目のようなものを体験していたように思われます。
C)しかし、この不安は隠しきれず(抑圧しきれず)、周囲に撒き散らされることになります(自我漏洩)。
D)また、この不安が周囲に投影されていきます。自分が近所の噂になっていると彼は信じ始めます。後には会社においても噂されていると信じるようになります(妄想的信念)。また、自分たちの子供が義母に似ているように見えているのも、投影が働いた可能性が考えられます。
E)彼は不安を抱えることができなくなっています。不安が妄想のような形で漏れる場合もあれば、攻撃、怒りとして表明されるようにもなります。妻に対する暴力が生じたのはこの時期だと思われます。つまり、不安は元のままの姿で、生の姿で表明されるようになっています。不安の基になっている敵意がそのままの姿で現れています。言い換えれば、敵意を不安の形に転換できなくなっているということであり、彼の自我の弱体化が生じているように思われます。
F)初めて妻に暴力を振るった時のことを彼はあまりはっきり覚えていませんでした。ここにはわずかながら解離が見られるのですが、この解離は彼の自我が持ちこたえられないところまできていることを示しているように思われます。
G)彼に必要なのは安心感を取り戻すことであるのですが、妻と義母はその正反対のことを彼に対してしてしまうのです。自宅には義母がいつもいて、彼が自室に閉じこもろうとしても、ズカズカと入り込んでくることをしています。
H)彼には安住できる場所がなく、さらにその上、この望ましくないものを追い出さなければならなくなっています。暴力がエスカレートしていった背景にはそれがあると私は考えています。従って、妻や義母に対する怒りは、彼が失った安心感を取り戻そうとする試みとして理解される必要があると私は考えています。

(208―3)妻と義母
 次に彼の妻とその母親について見てみましょう。
 妻は実家の近くに住むことを望みました。親を介護するようなことになれば近くに住んでいる方が便利だと、もっともな理由を挙げていますが、これは正しくないことが分かるでしょう。この理由が本当であれば、彼にも親がいるのだから、双方にとって便利な場所を探すということをしていたでしょう。あるいは、本当に介護が必要になった時にそうしようと決めていたでしょう。実際、妻の親が介護を必要とするくらいの年齢に達するまで、すくなくとも10年はかかるでしょうし、それ以上になるかもしれません。つまり、この介護は早急の課題ではないのです。
 私の経験では、上手くいかない夫婦において、片方が親から離れたがらないケースがよく見られるのです。妻は実家から、より正確に言えば、母親から離れることに困難を体験していたのです。ただ、自分に母親から離れたくない気持ち、あるいは、離れられない事情があるということは、意識されていないようでした。
 そして、義母は毎日のように彼らの家に来ます。妻も義母もそれに対して違和感を覚えていません。むしろそれで普通だと感じていたようです。
 まず、妻は義母の来訪を隠そうとしていましたし、夫と鉢合わせしないようにと注意していたようでありますが、どうしてそんなことをする必要があったでしょう。それが普通の関係だと信じられているのであれば、夫に堂々と伝えても良かったでしょう。何か後ろめたいような感情があったのでしょうか。
 私はこう考えています。妻と義母の関係において、そこに夫が入り込んでくることを極端に避けようとしているのではないかと。それだけ彼女たちの関係が密すぎるということであります。この妻は、夫との関係以上に、母親との関係が密だという感じが私にはするのです。そして、彼が義母に侵入されたくないように、彼女たちも彼に入り込まれたくないと感じていたのかもしれません。
 こんな言い方は酷かもしれませんが、義母と妻は一種の共謀関係になっていて、妻と夫の関係は付属的なものとして妻には体験されていたのではないかと思います。夫婦は建前のようなものであり、義母と妻との結合を合理化するために利用されているようにさえ、私には思われたのでした。
 私には、この妻という女性はそのまま母親だったと理解しています。彼女は彼女自身ではないのです。彼女がそのまま彼女の母親なのです。私に対して要望を述べる時でさえ、彼女は自分の意見ではなく、義母の意見を私に伝えているのです。
 私の邪推でしかないかもしれませんが、近所に住むということや、近所に住むことの理由も、すべて義母の考えだったのかもしれないとも思うのです。

(208-4)健全な親子関係は通常の人間関係から大きく外れない
 この妻と義母に関しては、これ以上述べないようにしましょう。この妻に関しては、分からないところも多く、あまり確かなことが言えないからであります。
 夫婦の領域に親が侵入してくるという例はけっこうあるものですが、この親たちは「自分の子供を世話して何がおかしい」といった反論をされることが多いのです。
 前項で少し触れましたが、心理的に「健康」な親の施す世話と心理的に「不健康」な親のそれとは様相がまるで違うのです。心理的に「健康」な親、親離れ・子離れがしっかりできている親が結婚した子供に施す世話とか援助は、通常の人間関係の範囲を超えることがないと私は考えています。
 通常の人間関係と言っても、これもまた実に曖昧な言い方であることは私も認めるのですが、要は、友人、知人、同僚などに対して与える世話とそれほど変わらないということであります。親子なので、少しは多めに世話をするかもしれませんが、それでも通常の人間関係と同じようになされるものだと私は考えています。
 特に注目しなければならないのは、施す援助の量ということではなく、その援助の性質なのです。これが通常の人間関係から大きく外れるのです。
 私には、この妻よりも、義母のしている援助の方に、より「邪悪」な印象を受けてしまうのですが、いかがなものでしょうか。この母親は、娘を取り込もうとしているようにも見えるのです。言い換えれば、娘が一個の個人になることを妨げたいという動機が感じられるのであります。
 印象の悪くなるような表現は慎まないといけないのですが、私には義母という人がこのように思われるのです。まず、義母は自分の人生をちゃんと持っていないだろうということ、そして分離に対して非常に恐れがあるということです。娘を手放さないために、母親は必死になっているようにも見えます。そして、娘は母親の期待に応じてしまって、いつしか、母のパーソナリティがそのまま自分のパーソナリティになってしまっている、つまり母親と生き写しになっているように思われるのです。母親にとっては娘が自分と一緒のようでなければならず、娘に自分との差異を見出すことに耐えられないでしょう。
 不幸にも、この娘は自分の人格というものをしっかり持たずに生きてきたように思います。夫がそうであったように、彼女もまた自分を持っていなかったのだと思います。彼女が母親を必要とするのは、母親がいなければ自分が「空っぽ」になってしまうからだと、私はそう考えています。今のは比喩ではなく、文字通り「空っぽ」になってしまうのです。夫は夫婦のしっかりした枠を必要としていましたが、妻は母親という枠を必要としていると言ってもいいかもしれません。だから、この夫婦はけっこう似た者どうしだったのであります。

(208-5)二人関係
 私の考えでは、夫婦はまず二人関係であり、この二人関係をしっかり築くことが大切だと思います。そして、この二人の関係は他の人間関係としっかり区別されていること(つまり、夫婦という枠がしっかりあるということ)が必要だと考えています。この二人関係が、あまりに流動的すぎても、また、あまりに強固的すぎるのも良くないことだと思います。流動的というのは、この二人関係の中に他の人たちがやたらと出入りするということであり、強固的というのは他の人の関与を一切許さないといった態度を意味しています。
 これを定式化することは難しいと思います。夫婦によって、個人によってそれぞれ異なるからであります。事例の夫は、あまり流動的な関係でない方が良かったでしょうし、そうであれば、彼も妻に手を上げることがなかったかもしれません。それとは反対に、常に誰かの出入りがないと、夫婦関係が維持できないという例もきっとあるでしょう。
 私は、どういうものが「正常」な夫婦であるかを考えるよりも、その夫婦にとっていい関係が維持できる条件は何なのかを、個別に考察していく方が望ましいと考えています。

(文責:寺戸順司)