<テーマ206>夫婦という人間関係~「診断者」(2)

<テーマ206>夫婦という人間関係(6)~「診断者」になってはいけない


(206―1)診断は簡単にはできない
(206―2)「被救済者」が同時に「診断者」になることもある
(206―3)「歪んだ診断」は方向を誤らせる


(206-1)診断は簡単にはできない
 相手がおかしい、あるいは自分たちにおかしなことが起きていると感じる時には、当人は意識していなくても、何らかの形での「診断」がそこでなされていることになります。この「診断」は当人の感覚的な色彩が濃いものである場合が多いのです。
 精神科医なども「診断」をするのですが、この「診断」は大抵の人がイメージされる「診断」とは大きく異なると思います。
 まず、記述的診断があります。患者さんの病像を観察、記述し、該当しそうな診断概念と照合します。つまり見立てを立てるということです。
 次に、テストバッテリーを組むこともあります。つまり心理テストなどをいくつか組み合わせて、診断の補助資料とするのです。
 そして、転移感情による診断がそれに加わります。医師が患者と対面した時に医師の側に生じる感情体験による診断です。
 これらの資料から医師が拠り所とする診断基準に照合して、そこから診断名が下されることになります。しかし、この時の診断はあくまでも暫定的なものであり、経過に応じて診断名が変ることもあります。(ある研究では、初期の診断がそのまま維持されることを示していますが、そうでない場合ももちろんあるのです。)
 複雑な病像を示すような場合であれば、入院の形をとることもあります。これは一時的に外部の環境からその人を隔離して、外部の刺激のない状態において、その人がどのようになるかの経過を観察して、その上で診断が明確になるという場合もあります。
 こうした例をいちいち挙げるのは、「診断」をするということがいかに困難を伴う作業であるかということを理解してもらうためです。決して、本に書いてあることと似ているから、あの人は「○○病」だといった診断の仕方はしないのです。

(ケース13)  これは家族ではなかったのですが、ある会社の人たちが部下がおかしいということで意見を求めに来られました。団体で来られてウンザリしたケースですが、それ以上に辟易させられるのは、彼らの部下に対する「診断」でした。
 私はその「診断」の根拠を問うのですが、彼らは確たる資料を有していませんでした。日常の勤務場面においての部下の行動しか彼らは見ていないのであり、そこから決定的な結論を導き出そうとしているのです。正直に言います。槍玉に上げられているその部下の人が可哀そうでした。
 案の定、「その部下の方はどんな人ですか」という問いに対して、彼らは十分に答えることができません。「その部下と一緒にいてどんな気分になりますか」に対しても、大して答えは期待できませんでした。彼らが自分の感情体験ではなく、理論を見ているからだと思います。
 そんな状態で、本人抜きで、本人にどう対処したらよいかと意見を求められる私も苦痛でした。結局、その部下の方のことはほとんど分からないのです。その上で、対処なり接し方なりを教えてくれと言われるのです。私は無難なところのものを伝え、それでその吐き気を催すような面接を終わりにしたのでした。
 何の役にも立たないし、意味のない面接をしたと思います。おそらく、その部下の方が今後不幸になっていくことに私は加担したことになるのでしょう。私の意志に反して、そういうことになってしまうでしょう。なぜなら、彼らの中で、部下のその人は「おかしい」ということが決定されており、自分たちのその見解そのものが検討の対象にされていないからなのです。もっと理解すれば、一見すると「おかしい」と見える言動であって、その人の中では意味と理由がある筋の通った言動であるかもしれないのに、そんな話し合いにはならなかったのです。

(206-2)「被救済者」が同時に「診断者」にもなることがある
 救済を求める人の中には、同時に「診断者」になるという例もあります。この人たちは、自分の体験している不幸とか不遇に対して、他者に「診断」を下し、その人に「治療」を半ば強制して、自分の不遇に対処しようとしているのです。

(ケース14) ある男性が自分の親子関係の問題を処理したいという訴えをもって訪れました。彼の話を聴くと、確かに親との関係で彼が苦しんできた経緯があるのです。ただ、親との問題がどうして今の彼にとって重要なことになったのでしょうか。
 彼自身、自分と親との関係には上手くいってないところがあったということは意識していたのですが、実はその頃、彼の妻がそれを何とかするようにと彼に求めているのでした。
 妻の要求を満たすためにも、彼は自分の親に働きかけるのですが、親は取りつく島もない様子で、事態は平行線を辿っていました。それもそのはずで、親からすれば、なんで10年も20年も昔の話をいきなり子供から持ちかけられるのか訳が分からなかったことでしょう。彼の方にはそれをする背景や事情があるのですが、親の方にはそれがないわけなので、当然のことだと私は思います。
それでも彼は努力しているのですが、妻は彼の努力が足りないと言います。その状態が長引いて、ついに彼は自分の手では負えないというところまで追いつめられていました。
 彼の妻は、どうして彼にそれを強いるのでしょうか。きっかけとなる出来事がありました。彼の親と彼の妻との間でちょっとしたいさかいがあり、それ以来、妻は彼の両親を毛嫌いするようになったのです。それ以来、彼にあの親を何とかしろと要請するようになったのでした。
 しかし、私は腑に落ちなかったのですが、妻は彼にどうなることを期待しているのでしょう。彼が親と絶縁することでしょうか、それとも親に謝罪に来させることでしょうか、それとも彼に親殺しをさせたいのでしょうか、まったく不明なのです。
 実際、妻の要求していることはひどく漠然としていて、彼はそれに何とかして応じようとしていたのでした。私に指摘されるまで、彼は妻の要求がひどく漠然としていて、曖昧で、具体的にどうしてほしいということを述べていないということに気づいていなかったのでした。自分の親のせいでこうなったということで、彼の中に罪悪感が生じていたために、そこに気づくことができなかったのでしょう。
 私の見解では、これは妻の陰性の感情転移であって、彼の両親に妻は「悪い対象」を見て取っているわけであります。妻はこの「悪い対象」と関わり続けることになっているのです。妻はこの「悪い対象」を放逐しようとしているのです。彼女の中で生じている闘争に、彼は巻き込まれているというのが私が正直に思ったところであります。
 従って、彼がいくら努力しようとも、彼女の中のものが改善されない限り、不毛な努力に終わってしまうのです。
 妻の要求はエスカレートしていきます。彼にしてもどうしようもできないことで、妻が不満を言い立てるようになります。彼が親と似ているということだけで、妻は耐えられなくなり、夫である彼に何とかしろと要求するのです。
 お分かりのように、「何とかしろ」という妻の要求は「私を何とかしてくれ」という意味合いなのです。彼に「あの親を何とかしろ」と言うことは、「私からあの親を何とかして」を意味することになるのです。
 ところが、妻という人は、それに気づいていないのです。外側の何かを変えることで、内側のものが自然解消されることを彼女は期待しているようでもありました。
 そうこうする中で、彼の容態がみるみるうちに悪くなっていきました。妻と親との間の板挟みになって、彼はとことんまで追い詰められていたのです。彼の見る夢は混沌と破壊、精神病の様相さえ帯びるようになってきましたし、彼の中から生気が失われていくようになっていきました。
 私が彼に伝えるところのものは、とにかくその争いは、妻と親とのケンカなので、彼がそれを引き受ける筋合いはないのだということを示し、この争いから彼を撤退させることが最重要の課題となりました。
 彼はそれに不服そうでした。自分が撤退したら妻はどうなるとか、親がもっとのさばってくるとか、そうした心配ばかりするようになったのです。それでもそのケンカの外に出るように(これはつまり、妻の問題の外に出るということです)と、それだけを話し合いの中心に据えるようにしたのです。
 結局、この夫婦関係は破綻しましたが、彼の破綻は免れました。破綻したのは妻の方でした。その後、妻は精神病的な症状を派手に示し始めたのでした。
 このケースに関して、私の見解を述べておきます。問題の核にあるのは、妻の内的体験なのです。彼女は自分が破綻してしまいそうに自分自身を体験していたのかもしれません。そのきっかけとなったのは彼の親との間で生じた揉め事でしたが、これはあくまでも誘因に過ぎず、彼女の破綻の原因ではないのです。
 その誘因は3年近く前の出来事だったのですが、彼女はそこから抜け出ることができていませんでした。彼女の中でどういうことが生じたのかは推測するよりほかに仕方がないのですが、彼女はそこですべてが「悪」になってしまったのだと私は考えています。望ましいものが自分から一切失せてしまって、悪いものに自分が支配されると言いますか、「悪」一色に染まってしまったかのように体験されているのだと思います。
 自分が悪い存在であり、外部の人も悪くなり、世界もすべてが悪くなったと体験されている中で、彼女は夫を通して自分を「望ましい存在」に変えようとしているのです。
 しかし、「良い」ものから「悪い」ものへと変わったのは、彼女の心的な体験なのです。夫は以前と同じ夫なのですが、彼女の中では別人になってしまっているのです。夫もまた望ましくない人間になっているのです。そして、夫の親も彼女からすれば望ましくない対象であり、彼女は夫と親との区別がつけられないでいるのです。未分化な対象世界に彼女は生きているということなのだと思います。
 こういう背景があるとすれば、彼がいくら努力したとしても、彼女の中のものが変わらない限り、彼女の要求は止まるところを知らないのです。こうして、彼女が自分を悪いものとして体験すればするほど、夫に対してさらに激しく要求するようになり、感情もエスカレートしていったのでした。

 本題に戻りますが、まず、この妻は不幸を体験しているのであり、その不幸からの救済を夫に求めていることになります。しかも、その救済は夫が親を「何とかする」ことによってもたらされると信じています。ここで、夫の親に問題があるという「診断」を彼女は下しているわけであります。しかし、この「診断」は彼女の主観と感情に彩られたものであり、まったく正確さを欠くものとなっています。彼女はそれに気づいていないようであり、また、絶対にそうでなければいけないという頑なさが彼女にあるようにも私には感じられました。
 彼女の「診断」に焦点を当てると、この「診断」は彼女の「症状」の一部を形成しているものであることが窺われるのです。夫の親とのいさかいをきっかけにして、彼女から望ましいものがすべて失われてしまったかのようであります。幸福、希望、光はすべて失われ、不幸、失望、闇が彼女の心や生活を占めるようになっています。彼女はそれに必死になって抗おうとします。自己救済しようと試みるということなのですが、それをすべて夫に委ねていることになるのです。
 そして、自分に望ましいものがもたらされないと言っては、夫に何とかするようにと要求し、事態が早急に改善されていないといっては、彼の努力が足りないからだと、彼を責めるわけです。ここにはある種の「頑固」さが見て取れますし、ある意味ではとても「支配的」でさえあるのです。彼女のこの頑固さ、融通のなさ、支配性というのは、そのまま彼女の心の状態を示しているように思われるのです。破綻の危機に瀕しているように彼女には体験されていたのかもしれず、そのために頑なに自説に拘らなければならなかったのかもしれません。動揺に耐えられないからです。

(206-3)「歪んだ診断」は方向を誤らせる
 本項の冒頭で示したように、現実の診断には多くの作業を重ね、いくつもの資料や見立てを通じて、暫定的になされるものであります。
 そして、この「診断」に基づいて、その後の行為が方向づけられることになります。それは臨床家であれ、夫婦や家族であれ、職場の上司であれ、同じなのです。最初の「診断」に基づいて、「診断」された人への対応が決定されていくことになるのです。
 ここで問題にしているのは、この「診断」の妥当性ということであります。本項で取り上げた二つのケースでは、その妥当性がまったく問われていないのです。ケース14のように、この「診断」が歪みに基づいていれば、それだけ自身も周囲の人も間違った方向に進むことになるのです。
 何が本当の問題であるのかを特定すること(これもすでに「診断」の一部です)、そして何が悪いのかの見当をつけること(この部分が「診断」に相当するのです)、それに基づいて方向を定めること、この一連の作業の中に歪みが持ち込まれれば持ち込まれるほど、この「診断」は「病的」なものになっていくと私は考えています。そして、歪んだ認識に基づく、歪んだ「診断」は、周囲の人を巻き込めば巻き込むほど、苦しむ人を生み出すことになるのです。
 あの人がおかしい、自分たちの不幸の原因はあの人にある、そうした「診断」というものを人はしてしまいがちではあり、決して悪意でなされたものではないとして、本項で述べたいことは、その「診断」そのものが疑われ、考察の対象とされる必要が最初にあるということなのです。

(文責:寺戸順司)