<テーマ205>夫婦という人間関係~「診断者」(1)

<テーマ205>夫婦という人間関係~「診断者」の問題(1)

(205-1)「診断者」に関する三つの問題点
(205-2)主観的「診断」はある感情の表現である
(205-3)「診断者」は何と関わり、何と関わっていないのか
(205-4)理解の幅と「分からない」について


(205-1)「診断者」に関する三つの問題点
 もし、あの人は精神的におかしいとある人が言う時、その人は相手を「診断」していることになります。前項は「治療者」を見ましたが、ここでは「診断者」の問題を取り上げることにします。
 一人の悩める個人の家族や同僚たちは、彼の「治療者」にはならなくても、「診断者」になっているケースがけっこうあるのです。家族や身近な人に「あなたはカウンセリングを受けた方がいい」と伝える時、その人は「治療者」になろうとはしていないのですが、相手に対してなんらかの「診断」をしているのです。
 この「診断」はその診断を下す人の観念と関係するものです。その人からすると、その人の有する「正常」の観念から外れたことを相手がしているように見えているわけであります。ここにはいくつかの問題を孕んでいるのですが、私の考えでは大きく分けて、次の三点に絞られると思います。
 まず、その「診断者」の「正常」観念の由来です。その観念はどこからその人に生じることになったのかということ、そして、その観念は十分に検討された観念であるかということです。従って、「あの人がおかしい」と感じられる時には、何よりもその人のその観念自体が検討の対象になる必要があるのです。
 もう一点は、「相手がおかしい」と言う時、その「診断者」が何を見ているのかという問題であります。
 そして、最後に、相手を見ておかしいと結論づけるまでのプロセスであります。
 この三点をここでは取り上げることにします。

(205-2)主観的「診断」はある感情の表現である
 私たちは、意識していなくても、どういうものが「正常」であり、どこまでが「尋常・普通」の範囲かといった観念を何となくでも有していると思います。こうした観念は誰もが有しており、人によってその観念の性質や姿が異なっているものと思います。
 もし、「夫が精神的におかしい」と訴える妻がいるとすれば、妻は夫の言動が自分の「正常」観念からかけ離れているように見えているのだと思います。つまり、何らかの「逸脱」を夫に見ているということになります。
 確かに、「逸脱」という観点は「正常・異常」を区別する際に有効ではありましょう。では、それが妻に「逸脱」と見えるのはどうしてでしょうか。その妻は何をその決定因子としているのでしょうか。
 大抵の場合、それは理解とか了解という決定因子によるものです。つまり、相手のしていることが、この私には理解不能で了解困難だということが先にあり、そこからこの私に理解不能なことをしている相手が「おかしい」という結論に導かれているということです。そういう例が多いように私には感じられるのです。
 今の文章に「この私に」という語をいちいち挿入したことに注意してほしいのです。相手が「私に」理解できないから、相手がおかしいと見做すという構図は、夫婦関係に限らず、その他の人間関係においてもけっこう見られるものなのです。
 もし、第三者がこの二人を見れば、相手のことを理解できない「診断者」の方がおかしいという評価を下すかもしれません。つまり、この「おかしい」はあくまでも「診断者」の主観であり、もしくは主観的色彩が濃厚な一つの結論なのです。
 ちなみに、この主観的「診断」のレベルで交流すると、何も進展しないものです。

(ケース8)例えば、理由もなく殴ってくる夫はおかしいと訴える妻がいます。これは妻の主観的な「診断」であります。
 彼女の周囲の人は、理由もなく殴るなんて、確かに夫はおかしいと判断するかもしれません。これも一つの「診断」を下しているのです。周囲の人たちの「診断」もまた主観に彩られた「診断」であり、しかもそれは夫に対しての「診断」でるのか、彼女の何かに対しての「診断」であるのかは非常に曖昧であります。
一方、他の人は、理由もなく殴る男性と結婚した妻の方がおかしいし、そんな男性といつまでも一つ屋根の下に暮らしている妻の方が異常だと判断するかもしれません。これもまた一つの主観的な「診断」なのです。
この女性に対して、さまざまな主観的「診断」を下すことができるでしょう。この主観的「診断」どうしのやりとりは、結局のところ、相手が悪い、どちらもおかしい、あなたも悪い所があるといった、悪者探しや悪因探しに従事するくらいが関の山なのです。もしくは彼女が正しいか間違っているか、周囲の人が正しいか間違っているかの議論に終わるだけということも生じ得ることでしょう。
この「診断」が主観的なものであるが故に、なかなかそれを証明することもできないでしょう。従って、この女性は、自分のとは異なる「診断」に対して、妥当に検討することも取り上げることもできなくなるでしょう。だから、自分の「診断」と異なる価値観に直面すると、面食らい、戸惑い、容易にお手上げ状態になってしまうことも多いように思います。
 私の結論はこうであります。こうした主観的「診断」は、言い換えれば「自分には分からない」ということを述べているだけなのだと私は考えています。「相手がおかしい」は、イコール「相手のことが理解できない」と述べていることになるのだと思います。つまり、家族や夫婦が相手に対して下す主観的な「診断」は、その「診断者」のある種の感情表現として理解しなければならないということなのです。上述の例で言えば、夫がおかしくなったといった「診断」は、妻の中にある感情の表現だということになるということです。

(205-3)「診断者」は何と関わり、何と関わっていないのか
 次の点に移りましょう。
 ある人が「相手がおかしい」という時、その人は何を見ているのか、あるいは何と関わっているのかという問題であります。
 その人は相手が精神的におかしいと、つまり相手を見て「おかしい」と言っているわけだから、相手を見ているのだと思いがちですが、実はそうではないのです。相手を見ているようで、実は自分の観念を見ていたり、自分の観念と関わっているということがけっこうあるのです。
 こうした「相手がおかしい」という主訴を持って来談するクライアントが、カウンセリングで経験することの最も多いのは、「相手のことがよけい分からなくなった」とか、もしくは「相手のことが全然分かっていなかった」といったものです。どちらにしても、こういう経験をするのは、その人がいかに相手を見ていなかったかを示すものであり、どちらも本当は望ましい発見なのです。
中には、よけいに分からなくなったと言ってカウンセリングから離れていく人もあるのです。それは個人の選択なので私は引き留めることもできません。しかし、その人は気づくべき点が間違っているのです。

(ケース9) あるDV「被害者」側の女性と面接していた時、私は「加害者」とされる夫のことをかわいそうだと述べたことがあります。彼女はとても意外そうでした。なぜそう思うのですかと彼女は私に尋ねます。誰一人として彼のことをちゃんと見ようとしないから彼がかわいそうだと感じたのだと私は答えました。彼女に理解できたかどうかは定かではありませんが、彼女の中で何かの転機になればと望むだけであります。

(ケース10) ある人は相手がおかしいという証拠を持参してきました。それは心理学の本で、その人は該当箇所を指し、ここにそう書いてあると私に示します。なるほど、本にはそう書いてあります。では、本に書いてあることを相手に当てはめたということでしょうか、私は疑問に思うのです。この人は相手を見ているのか、それとも理論を見ているのか、どちらなのでしょう。

 専門家だって理論を勉強するだろうと言われそうですが、確かに(ケース10)の人は専門家が勉強するように理論を勉強されているようでした。しかしながら、その理論の使い方が違うのです。
 私が目の前の人を理解しようとします。理解するのは私であります。理論は私に理解の枠組みや視点を与えてくれます。それでも理解するのは私であり、言い換えれば、私は「私の理解」を求めているのです。上記の人はこの「私の理解」の部分をそのまま理論で置き換えてしまっているのです。なぜ、そう言えるのかと言いますと、本に書いてある通りの人なんて本当はいないからなのです。
 今のことを絵で例えてみましょう。理論とは画材道具のようなものであり、絵を描く主体は私なのです。私がどのような絵を描くかということは、そこでの私の課題になるのです。画材道具をたくさん用意しておくことは、絵を描く上で有益ではありますが、それらは絵そのものではないのです。理論を当てはめるとは、画材道具だけ揃えて、それで絵を描いたことにしているようなものなのです。画材道具だけ眺めていて、それで絵を描いたような気分になっているようなものだと私は思うのです。取り組むべき方の絵はそっちのけにされてしまっているのですが、当人はそのことに気づかないのです。
 家族の誰か、あるいは職場の誰かが「おかしい」ということで来談される方の中には、彼らのために勉強されてきたという人も少なくありません。でも、一たび、「その人はどういう人ですか」と私に質問されると、途端に答えられないのです。かろうじて答えたとしても、それはせいぜい問題となっている人の「外観」とか「様子」を描写する程度なのです。実は、その人たちは(決して責めるつもりではありませんが)、相手を見ているようで見ていなくて、相手のために勉強してきたけど、相手のことを本当には理解しようとしていなかったことが明らかになるのです。でも、それに気づくことは、その人たちにとって本当は価値があることなのです。
 私の本音を言えば、ある人が「相手がおかしい」と訴えている時点で、その人は相手を見なくなっており、いっさい関わらなくなっていると、そう信じています。そこに気づくことは、不愉快な体験となるかもしれませんが、とても大事なことだと私は考えています。

(ケース11) このことを私に教えてくれた家族がいます。問題を起こした息子がおかしいといって、両親がカウンセリングを受けにきました。父親は息子のためにいろいろ勉強していたようでした。私には父親がそれをすることで、現実の息子さんとの関係の代わりにしているように見えたのでした。そして、それは息子さんからすれば、自分が家族から切り離されるという体験になっていたかもしれないのです。傷つくのは、家族からお前がおかしいと言われることではなくて、そう言われることで家族から疎外されてしまう体験にあると私は信じています。言う方は、そんなことはないと主張するでしょうが、結果的にはそうなってしまっていて、尚、ひどいことには、その結果にこの父親は気づいていないということなのです。
 その家族とのカウンセリングですが、息子さんの「問題」云々は二次的なもので、両者を隔てている壁をいかにして父親から取り払い、両者のつながりを取り戻していくかにかかっていました。詳細は省きますが、息子さんは今でも「問題」を抱え、それに取り組んでいますが、後日、家族関係が良くなって幸せだという知らせを母親から受け取りました。

 相手を理解しようとして勉強するのは構わないのですが、その理論がいつしか自分と相手を隔てる壁になることもあるものです。その壁を拵えた側の人にはそれが見えないことも案外よく生じることなのです。

(205-4)理解の幅と「分からない」について
 第三点の相手がおかしいと結論づけるまでのプロセスに移りましょう。大方のことは既に記されましたので簡潔に済ませたいと思います。
 ある人の言動に直面して、衝撃を受けます。相手がどうしてそんなことをするのか訳が分からないのです。理解不能なので、あの人が「おかしい」という体験につながるのですが、このわけの分からない感じは当人に不快感を与えるので、何とかしてそれに形を与えたいと思うのです。理解不能で、自分ではとても考えられないから、その人は自ずと外部の理論を当てにするようになるのです。そして、その人の言動をうまく説明している理論に遭遇すると、その理論を固持します。その理論のフィルターを通して相手を見ると、相手がますますその理論通りの人だという認識を強めることになるのです。
 ここでの問題点は、その人の理解の枠ということであります。もちろん、相手を理解するということは難しい作業です。そのためには訓練とか経験、成熟といった要素が関係してきます。そのために他者理解は人によって幅があるのです。

(ケース12) あるDV「被害者」女性との面接で、彼女の理解の幅を広げようと試みたことがあったのですが、惨憺な結果になって、彼女は私の意図をまるで違ったふうに解釈しました。彼女は夫のことを理解しようとしていますが、それはとても一面的で狭いものでした。そこでもう少し視野を広げてみようとしたのですが、この作業は彼女にはただ苦痛でしかなかったように思います。無理なことをして申し訳ないと今でも反省する次第です。

 相手がおかしいと訴える時、確かに相手に具合の悪い箇所があることも少なくありません。しかし、その相手のことをどう見ていて、どう理解しているかということは、その訴えをする人に属するテーマなのだと思います。
 上手くいかない夫婦関係では、相手理解がとても狭いという印象を私は受けています。決して相手を理解しようとしないわけではないのですが、その理解が一面的すぎたり、狭すぎたり、あるいは、固定的で違った観点を受け入れることができなかったり、そういうことが起きていることも多いように思います。
例えば、泣いている人を見れば、その人は悲しいのだなと理解するかもしれません。これは一番分かりやすい理解です。しかし、人が泣くのは悲しい時ばかりとも限りません。嬉しくて泣くこともあれば、悔しくて泣くこともあるでしょう。もっと複雑な感情で、感極まって泣くこともあれば、感動して泣くこともあるでしょうし、寂しさや孤独感から泣く場合もあるでしょう。
泣いている人を見ても、どういう事情でその人が泣いているのか、その文脈を丹念に見ていかなければならないのです。そうでないと理解できないのです。表面的な理解というのは、泣いているのを見て、短絡的に「悲しいのだな」と決めつけてしまうということです。狭い理解というのは、そこで「悲しい」以外の感情に思い至らないということです。
従って、相手の行為が複雑であればあるほど、その人は容易にお手上げ状態になるのです。訳が分からず、混乱し、相手の理解は自分の手に余る状況になるのだと思います。そのため、このような人は「相手がおかしい」という結論にすぐに至ってしまうのだと私は思うのです。
 本項も分量が多くなったので次項へ引き継ぎます。「相手がおかしい」という類の訴えはとても多いものなので、特に注意したい事柄なのです。次項では、もう少しこの論点を考察してみることにします。

(文責:寺戸順司)