<テーマ204>夫婦という人間関係~治療者(2)

<テーマ204>夫婦という人間関係~「治療者」になってはいけない(2)

(204-1)夫婦、家族は大きな影響を与え合う
(204-2)「疾病利得」
(204-3)「相手がおかしい」とはどういうことか
(204-4)一方的で強制的な「治療」は人権侵害であること


(204-1)夫婦、家族は大きな影響を与え合う
 どの人も決して周囲から孤立しているわけではなく、周囲を遮断して生きるわけにはいかないので、どうしても周囲の影響を受けることになります。一緒に生活している人がいればお互いに影響を与え合うことになります。
 心理学の理論でも「後光効果」とか「ピグマリオン効果」などとして知られている現象がありますし、間接的には「不安の自己成就」といった現象も含めることができるでしょう。他者や周囲の期待とか見方がいかに個人に作用するかを、それらは示しています。
 サルトル系の哲学に親しんでいる人の中には、他者の視線にさらされた時、自己が規定されるということ、「見られる自己」がそのまま「私」として刻印されるというようなことを説く人もいます。
 サリヴァンもまた、他者から承認されたものが自己体勢に組み込まれ、それ以外は解離され、人格残余部に含まれるということを述べていますが、類似のことを述べているように思われるのです。
 私が家族成員はお互いの「治療者」にならない方がいいと考えているのは、家族や夫婦というのは、他の人間関係よりも距離が近く、親密であったりするので、そうした影響や作用が大きく働く可能性があると思うからです。

(ケース7) ある男性は「妻が精神的におかしい」と私に訴えてきました。
 「奥さんが精神的におかしいとは誰がそう言っているのですか」と私は尋ね返しました。
 おそらく、彼はここで「どんなふうにおかしいのですか」と訊かれるものだと期待していたでしょう。彼には「妻がおかしい」というように現実に見えており、おそらくその証拠をいくつも挙げることができたでしょう。そこをいきなり「誰がそんなことを言っているのですか」と尋ねられたものだから、相当面食らったのではないかと察します。でも、これほど重要な問いはないと私は考えています。
 この妻は実際に医師から診断名を貰っているかもしれません。その場合、医師が患者を診る目で、夫は妻を見ているということにはならないでしょうか。
 もし、診断を貰ったのではなく、妻が「精神的な病」に罹っているというように夫に見えているだけなのだとすれば、それは彼が妻を「医学的」に見ているということになるのでないでしょうか。「医学的」に見るべきではない相手を「医学的」に見てしまっているということになるのではないでしょうか。
そもそも「医学的」な見方は、人間全体を見るものではないのです。個人全体の中のごく一部分を見る見方なのです。
従って、夫が妻を「医学的」に見る時、この夫は妻のことで多くのことが見えなくなっているはずなのです。言い換えれば、「医学的」な見方を相手に採用した時点で、相手を一人の人間として見ることが難しくなってしまうのです。第三者の医師がそれをするのは構わないのですが、その人ととても身近な家族がそれをすることが望ましくないのです。
 従って、この男性の訴えは、「妻が精神的におかしい、妻をなんとかしてくれ」ではなく、「妻が精神的におかしいというようにしか見えない私をなんとかしてほしい」となる必要があるのです。恐らく、それでは何も解決しないと彼は反論するでしょうが、私はこれこそ一番の解決だと考えています。
 先述のように、この妻という女性が、実際に精神科医などから診断名を貰っているという場合もあるでしょう。もし、そうであれば猶更上記のことが大切になってきます。医師は医療行為を行うために患者に診断名を付与します。これは医師の特権であって、この診断があるからこそ、医師は仕事ができるのです。だから私はそこが間違っているとは言わないのです。ただ、この時、夫は妻ではなく、医師の下した「診断名」を見てしまっているのです。妻は夫から「病名」で見られてしまうということになってしまうのです。そして、その「病気」しか見てもらえなくなるという事態になるかもしれないのです。
 この事態について少し説明すると、それはこういうことなのです。妻が精神的におかしいというように夫には見えています。この妻という人にもよるのですが、彼女はその夫に適合しようとしてしまうかもしれません。つまり、妻が「病気」だと夫が見ているので、妻はその「病気」の部分をもっと夫に見せなくてはならなくなってしまうということです。夫の期待に無意識的に応じてしまうとそうなるでしょう。そして、それ以外の部分が夫からは見てもらえないのだとすれば、見てもらえる部分だけをもっと前面に出してしまうでしょう。その方が、まったく見てもらえなくなるよりもましだと妻には思えてしまうかもしれないからです。
 こうして、この妻はわずかな「病気」の部分でのみ夫との関係を維持するようになるかもしれません。こうなると、妻はその「病気」を手放すことができなくなってしまいます。なぜなら、「病気」が自分の中で夫が唯一関心を持って見てくれている部分であり、夫と結びつけているたった一つのつながりであるならば、それを失うことよりも「病気」である方を積極的に引き受ける方が望ましいと思えてくるかもしれないからなのです。
 
(204―2)「疾病利得」
 家族、夫婦が「病気」で結びつくことは望ましくないことであり、そのために一方が他方の「治療者」になってしまうことは、事態をさらに悪化させることになりかねないと、私は考えています。
 前項の(ケース5)の不登校の娘をもつ母親は、娘ではなく、娘の不登校しか見えていないといってもいいでしょう。娘もまた母親からそこだけしか関心を持ってもらえないという体験をしているかもしれません。
 この時、もし、娘の中に少しでも登校してみようかなという気持ちの萌芽が生まれても、娘はそれを表に出すわけにはいかなくなってしまうでしょう。なぜなら、これを表明すると、途端に明日から学校に行けと追い出されるかもしれないし、せっかく手に入れた母親の関心も失うことになるかもしれないからです。望ましい感情は自分が見捨てられる恐怖と共存してしまうのです。
 よく「疾病利得」と言われるのですが、私はこの言葉には注意が必要だと考えています。この言葉は、病気になることで得ることができたもののために、病気から抜け出せなくなることを指していますが、その本質的な部分は、望ましい感情体験と喪失の感情とがセットになってしまっているところにあると私は考えています。その両者がセットになってしまうのは、自分と周囲の人とが自分の「病気」で結びついてしまっているためにそうなるのだと思うのです。本人は確かに「病気」かもしれません。しかし、周囲の人は、積極的にその人を「病気の人」と見ており、「病人」としての尊重とケアを当人に与えているにすぎないのです。
 この時、「病者」は一人の人間として全体的にみてもらうことを断念し、少なくとも「病人」として大切にされている方が、まったく大切にされなくなるよりましだと体験しているのだと思います。ごくわずかな一部分だけでも見てもらえている方が、すべて見てもらえなくなるよりいいという感覚は、私たちの誰もがある程度子供時代に経験したことがあると私は思いますし、けっこう、頻繁に見られることではないかとも思って慰安す。
 そうして、「病者」がその一部分をさらに前面に押し出し、周囲の人もそれにだけ関わるような事態がさらに進展してしまうのです。双方が個人の「病気」や「問題」のみでつながることになるのです。
 ここに述べたことはいささか極端な話かもしれません。ここでの要点は、人と人とが「病気」や「問題」のみでつながることは、弊害も多いと思うのです。それが家族や夫婦であれば、猶更そうなってしまうと私は考えているということなのです。

(204-3)「相手がおかしい」とはどういうことか
 さて、家族の誰かに「問題」が生じているとか、夫あるいは妻がおかしいといった訴えを聴くことが私にはよくあるのですが、もう少しこの現象について述べようと思います。
 例えば、妻が「夫がおかしい」という種類の訴えをしているとします。もちろん妻と夫を入れ替えても同じことが言えるのですが、ここでは妻がその訴えをしているとしておきましょう。
 まず、問題になるのは、「夫がおかしい」と妻が言う場合、妻の中では何が生じているのかということです。この時、妻から見て、自分の中の何かの「基準」から外れたことを夫がしているということを意味しているのだと言えるでしょう。医療現場での診断のように、
診断手続が取られているわけではなく、また、客観的な診断データに基づいてなされているということではないのです。大抵の場合でそうなのです。妻の個人的な基準から外れたものを夫に見ているわけであり、この診断は極めて主観的なものであるということが言えるのです。
 ここで妻は、主観性をできるだけ排除しようとして、いくつかの専門書を紐解いたり、専門家の意見を窺ったりするでしょう。それでもこの「おかしい」は主観的なものであり、感覚的、印象的な体験なのです。
 この妻の話を聴いて、専門家もあるいは彼女の友人知人も、確かに夫にはおかしいところがあると賛成するかもしれません。けっこうそういうことも起きているのです。しかし、この時、一体何が診断されているのかは曖昧なのです。と言うのは、それが妻の話に基づいているからであり、現実に夫と対面しているわけではないからです。従って、夫を診断しているのか、夫に関する妻の見解を診断しているのか、非常に曖昧になってくるわけなのです。
 そのような場面で、私はいつも困惑するのです。妻は夫がおかしくなったと言います。それは妻の中に在る基準から外れたことを夫がしているということになるのでしょうが、それは妻にとってどのような体験になっているのかが分からないし、妻のその基準そのものが問われる必要もあるのだけれど、その糸口がつかめないとか、そうした困惑を私は体験するのです。
 妻の持つ基準そのものは、大抵の場合、問われることなくきたでしょう。また、相手がおかしいと感じる時に、自分がそれにどのように関与しているかということも問われずにきていることも多いのです。ひどい場合には、「おかしい」要素は常に相手の側にあって、それは自分とは無関係だという態度に徹する人もあるくらいなのです。
 また、相手が「おかしくなった」という訴えをよくよく吟味していくと、それは相手に満足できなくなったとか、自分が不都合な体験をしているということを意味しているだけの場合もあります。そうなると、本当にそれが相手の「問題」なのかどうかも怪しくなってくるのです。

(204-4)一方的で強制的な「治療」は人権侵害であること
 ここでも、妻には夫が「おかしくなった」とか、夫に「具合の悪い何かがある」というように見えているとしましょう。先ほど述べたことは、夫が「おかしい」ということと、「夫がおかしい」という妻の見方の区別に関してでした。援助する側としては、実際に夫にお会いしてみない限り、両者の区別はどこまでも曖昧なのです。また、実際に夫という人と会うことができたとしても、私はその両者の区別に関することは頭の片隅に残しておくようにしています。
 さて、夫が「おかしい」ということで、妻が夫の「治療者」役を進んで引き受けるとしましょう。この妻にはそれは献身的な行為として体験されているかもしれませんが、私から見るとけっこうひどいことではないかという気がしないでもないのです。なぜなら、その「治療」は夫から頼まれたものではなく、妻の一方的な施しとなる場合が多いからなのです。
 医療行為も援助行為も、利用者の依頼があって初めて行えるものなのです。それが通常の過程なのです。夫婦関係で、一方が他方の「治療者」になるという場合、この通常の過程を経ないでなされることが非常に多いように私は感じています。つまり、それは、本人に依頼されたものではなく、また、本人の動機とか意向を「無視」してなされる、「治療者」側のかなり一方的な「治療」となることも少なくないのです。この「治療」の最大の難点はそこにあると私は考えています。
 医療行為も援助行為も、利用者の依頼があり、もしくは両者の同意があって初めて施行されるものなのです。これは平たく言えば、利用者の「人権」を認めているからなのです。もし、措置入院とか強制入院といった例があるではないかと、あるいは、一方的に援助サービスが施行されることもあるではないか、それは人権侵害ではないかと問う人もあるかもしれません。そういう時には、必ずしも利用者の「人権」を侵害しているとは言えず、その人の権利と他の人の権利とが衝突しているというような事態が生じており、できるだけ最善の策を取ろうとしているわけなのであります。
 こうしたことを念頭に置いておくと、家族間、夫婦間での「治療」というものがいかにずさんであるかが見えてくるのです。
 さて、妻が夫の「治療者」役を買って出る時、そこには夫を「治せる」という信念があるのだろうと思います。自分にその能力があると信じていることになるわけです。でも、その根拠はどこにあるのだろうかと私は訝しく思うのです。
 もし、その根拠が、「私は夫をどうにでもできる」といった類のものであれば、私から見ると、これはけっこうな人権侵害ではないかと思われてくるのです。「治療者」役割を取る側に、そういうことが意識化されているだろうかどうか、私には疑問であります。
 そして、妻が夫の「治療」にやたらと熱心になるというような状況が生まれるとします。ちょうどI氏夫妻のようにです。こうなってくると、それは明らかに妻の抱える問題の表れなのです。妻は自分の何かのために夫の「改造」を試みようとしているものであり、人権という観点から見れば、相当な侵害行為なのです。

(文責:寺戸順司)