<テーマ203>夫婦という人間関係~「治療者」(1)

<テーマ203>夫婦という人間関係~「治療者」になってはいけないこと(1)

(203―1)「救済者」役割の担い手
(203-2)夫婦、親子はお互いの「治療者」になってはいけない
(203-3)二人の母親の例


(203-1)「救済者」役割の担い手
 結婚後の「不幸」に関して、結婚を「救済」の手段としてしまうこと、配偶者に「救済者」役割を期待してしまうことにあると<テーマ201>で私は述べました。
 ところが、結婚は「救済」どころか、今まで以上の負担を強いて迫ってくる事態ともなり得ますし、相手から期待通りの「救済」が得られない場合もあります。そこには、相手の限界もあるでしょうし、相手の方もまた「救済」を必要としている場合もあるでしょうし、「救済者」になんかなりたくないと願っている場合だってあるでしょう。
 そうして、その期待は十分には満たされなくなります。時にはひどくその期待が裏切られるという経験をもしてしまうのです。こうして夫婦関係がこじれることもけっこうあることなのです。
 ここまでは「救済」を求める側の話でしたが、同様のことは、結婚して相手を「救済」しようとしてしまう側にも該当します。
「救済者」になることを願う個人は、相手を「救済」すると同時に、相手を「救済」の必要な人の状態に維持しなければならなくなるというジレンマに追い込まれてしまうのです。「救済」したいけれど、相手が「救済」されてしまっては困るのです。このため、相手を「救済」したいという期待は、常に不十分にしか満たされないことになるのです。
 しばしば、「救済」の必要な人と「救済」を与えたい人とが一緒になることも生じます。ここでは二人の関係は、一方が「被援助者」であり、他方が「援助者」ということになるので、双方の求めているものが一致してはいるのです。しかし、その関係はもはや夫婦とは呼べず、「治療者―患者」関係の様相を呈してくるのです。
 本項ではこの「救済者」役割を積極的に担ってしまう人たちの方を考えてみることにします。
 ゾンディテストで知られるレオポルド・ゾンディは、無意識が決定的に表れる瞬間がいくつかあると論じています。その中に「職業選択」と「配偶者選択」が挙げられています。(ちなみにその他は確か「友人選択」と「死に方」に現れるとあったように記憶しています)。つまり、ある人がどんな職業に就くかということと、その人がどんな人を配偶者に選んで結婚するかということには、同じ無意識的な動機が働いている可能性があるということであります。
 偏見に陥らないように注意したいのですが、夫婦関係において、「救済者」役割を積極的に担ってしまう人は、人を助ける職業に就いていることが多いようです。医師、看護師、福祉関係などをはじめ、弁護士や教師なども含まれます。当然ながらカウンセラーもこれに入ります。実際、私にもそういう傾向があることを自認しています。
 繰り返しますが、人が相手の「救済者」(この言葉には「治療者」「教育者」「弁護者」「介護者」などの意味合いをすべて含んでいます)になろうと欲する時、その人を動かしているのは、その人がその仕事を選ぶことになったのと同じ動機が働いている可能性があるということであります。
 もちろん、注意が必要であります。そういう職に就いている人のすべてが「救済者」役割を引き受けようとしてしまうという意味ではありません。そこは間違えないようにしたいのです。

(203-2)夫婦、親子はお互いの「治療者」になってはいけない
 個人的に私が思うところでは、夫婦や家族においては、相互扶助ということは確かに大切なことでありますが、決して配偶者や家族の「治療者」になるべきではないと考えています。家族はお互いに家族であって、夫婦もまたお互いに夫婦であって、「治療者―患者」関係になってはいけないし、そうならない方が望ましいのです。
 実際、夫婦や家族はお互いの「治療者」にはなれないのです。妻の「治療」を夫が引き受けることはできないし、親も子供を「治療」できないのです。当然、子供も親を「治療」できないのです。今述べた最後の、子供が親の「治療者」になろうとしてしまうというパターンに関しては疑問を覚える方もおられるかもしれません。でも、一般に(個人的な印象ですが)思われている以上に、子供は親を何とかしたいと願うことが多いのです。実際、苦しんでいる親を何とかしてあげたいと願いながら、何一つとしてそれが叶わなかったという体験を子供時代にしている人がなんと多いことかと私は思うのです。
 子供に対して親が「治療的」接近をすることを勧めている専門家や、妻を通して夫を改善できると信じている臨床家もおられるかもしれません。そのようなことを提唱している人も中にはおられるでしょう。でも、私は賛成しません。もし、そういうことをしなければならないのであれば、「治療者」役割を採る人が最低限の条件を満たさなければいけないと私は考えています。そうでなければ、それはものすごく危険な行為になるということが、私にはよく見えるようになってきたのです。そんなリスクを負うよりも、夫婦や家族はお互いに「治療」はできないし、しない方がいいという方向に私の考え方も変わってきたのです。
 例えば、この「治療者」役割の人が、とても自尊心が低いという場合、まず間違いなく、相手の「患者」に対してかなり極端なことをするのです、いわば「荒っぽい治療」を平然と施してしまうのです。当然、この「治療」は受ける側が相当苦しむことになります。

(ケースI氏) そのような一例は、離婚前のI氏に見ることができます。彼の妻は、彼の母親との関係のために彼がそのようになってしまったと考えていました。そして、妻はI氏を「教育」し、自分たちの監視下に置き(「入院」に例えられるでしょう)、I氏と母親との絶縁を試みていたのでした。
 妻はそれを夫であるI氏のためにしているのだと信じて疑っていなかったでしょう(ちなみに、I氏の妻は看護職でした)。そして、夫を「正常」にするために懸命だったことでしょう。これを「治療」と称するなら、かなり「暴力的な治療」だと言わざるを得ないのです。つまり、彼女はI氏から、母親に関する一切のことをI氏から「消去」しようとしているものだからであります。

 あまり個人例を出すのも控えたく思うので、いくらか比喩的に述べようと思います。
 もし、この「治療者」が待てない人だったら、腫瘍の様子をみていくことに耐えられず、すぐに切除したいという誘惑に駆られることでしょう。もしかすれば、様子をみていけば、そのうち腫瘍は自然と収まり、切除する必要がなかったということが分かるかもしれません。
 もし、この「治療者」が自分の信念や考えを持っていなければ、本に書いてあることをそのまま相手に押し付けるようなことをするでしょう。この時、「患者」の中にあってその本に記されていない部分は、一切無視されてしまうことでしょう。本に書いてあることという、いわば「型にはめる」ことを無理矢理にでも相手に対してやってしまうかもしれません。
 打たれ弱いとか傷つきやすいとか、責任を回避したいという願望の強い「治療者」なら、「治療」に着手しては突き放すということを繰り返してしまうかもしれません。
 自分を信用しない「治療者」であれば、自分が体験している不安から、「患者」を必要以上に急き立て、追い込んでしまったりするかもしれません。
 私も過去において、この種の間違いをしてしまったことを認めるのです。だから偉そうなことも言えないのですが、そのおかげで、大切なことは知識や技能ということではなくて、「治療者」の「自己達成度」の方だと理解できるようになったのです。
 このことを前項まで用いていた用語で表現するならば、「幸福・自己達成度」の低い人が他の家族成員の「治療者」になると、双方が苦しむ関係に陥ったり、ひどい時には相手をズタズタにしてしまうということであります。尚悪いことに、その人たちは自分がどういうことをしてしまっているかについて反省しないし、自己反省できるほど自我が成熟していない場合さえあるのです。こうした例をいくつも見てきたので、私には腸が煮えくり返るような思いをするのです。そのためにいささか語調がキツくなったかもしれませんが、本当にそれは危険なことなのだということを知ってもらいたく思うのです。

(203-3)二人の母親の例
 夫婦や親子が相手の「治療者」になってしまう例をいくつか見ていこうと思います。

(ケース5) 例えば、ある母親は不登校の娘の「治療者」になろうとしていました。ありとあらゆる手段をこの母親は試みましたが、何一つとして娘の改善には至らなかったと言います。
 あらゆる手段というものの一例を挙げますと、ある日、一日ずっと娘に自由を与え、娘を不安から解放させようとこの母親は試みたのでした。その夜、母親は「今日、自由にしたのだから、明日から学校に行くのよ」と娘に釘を刺したのでした。娘からすれば、一日自由にしていいと言われたので、その通りしたのに、後からそんなことを言うなんて、まるで罠にかかったようなものじゃないかと思うかもしれません。実際、これは「トラップ」なのだと私は思うのです。
 さて、この母親は、「治療」と称して、娘を苦しめ、時には雁字搦めにし、逃げ道を封じ、常に圧力を与えてしまっているのです。なぜ、この母親の「治療」はこんな形にしかならないのでしょう。
 カウンセリングをしていく中で、この母親は気づいたのです。娘が生まれてから、一度も娘がかわいいと思えたことがないということを。つまり、自分のこんな重篤な問題をそっちのけにして、娘の「治療」に当たっていたわけです。しかも、その「治療」は母親の「重篤な問題」に則ったものになっていたのでした。可愛いと思えない娘に対して、「治療」と称して、娘に苦痛を与えるようなことばかりをしてしまっていたのです。
 もう少し、上記のことを言い換えれば、母親は自分の問題、つまり娘を愛せないという問題を維持させるような形で娘を「治療」しようとしていたのでした。従って、この母親のカウンセリングでもっとも困難を極めた部分が、いかにして彼女を娘の「治療者」でなくするかというところにあったのです。
 ところが、それは母親の価値観と反しているのです。と言うのは、彼女がカウンセリングを受けに来たのは「娘の不登校をなんとかしたい」という理由だったからです。でも、このカウンセリングで、「娘の不登校をなんとかしたい」という気持ちは却下されなければいけないと示唆されてしまったのです。この母親はこの時、どうしたでしょう。
 彼女は言います。「私が娘を愛せないのはそのままでいいけれど、とにかく娘には学校に行ってほしい」と。つまり、娘が登校するのが先で、自分の問題は後でいいと考えておられるのです。しかし、母親のそれが改善されない限り、娘さんはこの母親から何一つとして望ましいものを受け取ることができないのではないかと私は思うのですが、母親はあくまでもそれは認めないのでした。
 彼女が自分の娘を愛せないのは、彼女の何かが娘を愛することの妨害になっていることが考えられ、その妨害物を処理することが先決なのではないかと、私は伝えましたが、それ以来、彼女は私のカウンセリングから去って行きました。
 何が何でも自分の問題には取り組みたくなかったのでしょう。そして、その問題は娘が生まれる以前から、結婚する以前から彼女が抱えていたことなのです。

 「うつ病」の項目でも取り上げました事例ですが、もう一度取り上げます。

(ケース6) ある母親は「うつ病」と診断され、医師から休養が必要なこと、それも「何もしてはいけない」ほどの休養を取らなければならないのでした。
 この母親は、医師の指示通りに休養していたのですが、夫や子供たちが自分に代わって家事をするのを見て、余計に苦しい思いに駆られ、手伝おうとします。そういう彼女に対して、夫は「休め」と言って、半ば強制的に休ませるのです。
 この夫は医師の言葉に従っただけであり、「治療者」になろうとしているのではないと言うことができるかもしれません。しかし、この母親に対して「休みなさい」と指示できるのは医師であり、夫がそれを妻に言うことは、夫が意識していなくても医師役割を採ってしまっているということになるのだと思うのです。
 医師の言葉ではなく、夫として、家族としての言葉をこの時にかけることができればよかったと私は思うのです。
 例えば、「そりゃあ、母さんが手伝ってくれたら助かるんだけれど、お医者さんからは母さんを休ませてあげるように言われているしなあ、どうすればいいのかなあ」と、おそらく夫が感じていたであろう困惑をそのまま言葉にする方が、「休め」と言うよりもよっぽど良かったのではないかと思うのです。
 彼女は夫や子供から「休め」と言われたことをかなり気にしていて、おそらくとても傷ついたのだろうと思います。上述のように、夫が困惑をそのまま表現したらどうなっていたでしょう。「自分が医師の指示に背くようなことをすると、家族が困ってしまう」ということを彼女は学んだかもしれませんし、「休養して回復することを一番に考えないといけないことだ」と考えるようになったかもしれません。

 家族成員のちょっとした「治療者」役割でも、「患者」側は傷つくことがあるということは、覚えておいて損はないことだと私は信じています。

(文責:寺戸順司)