<テーマ202>夫婦という人間関係~結婚して不幸になるのか(2)

<テーマ202>夫婦という人間関係~結婚して不幸になるのか(2)

(202-1)溺れあう関係
(202-2)同程度の人どうしが一緒になる
(202-3)最初の柱が不十分だと負担が増えてしまう
(202-4)自分を断念し、放棄してしまうこと


(202-1)溺れあう関係
 結婚前のその人の生き方や生の方向付けの多くは結婚後も維持されます。「幸福・自己実現度」の高い人も低い人も、結婚後においてもそれらが持ち越されることになります。達成度の低い人は不幸を経験する機会が多いので、結婚に「救済」を、配偶者に「救済者」を期待してしまうことがあり、それが彼らの間違ってしまうところであるということを前項では述べました。
 私の言うことは酷だと感じた人もおられるかもしれません。結婚すれば救われると信じている人にすれば、それが間違っているなどと指摘されれば、希望が打ち砕かれるような思いを経験してしまうかもしれません。
 いわば、「溺れているところを、かろうじて一本の藁にしがみついて助かっているのに、その藁を断ち切るつもりか」と言いたくなるかもしれません。その憤慨も私には頷けるのです。
 でも、一本の藁にしがみついている限り、その人はずっと溺れ続けなければならなくなるでしょう。その人にはそれしか助かる道がないというように思われているかもしれませんが、こうして藁にしがみついていればいつか救いが来てくれると期待してしまっていないでしょうか。もしかすると、その藁を手放して、大海原に出てしまった方が助かる機会があるかもしれないのです。絶対にそうとは断言できないけれど、可能性としてはあり得ることだと私は考えています。
 場合によっては、自分が助かりたくて一本の藁にしがみついているのだけれど、「救済者」として期待されている相手もまた、隣で一本の藁にしがみついて溺れている人である場合だってあるでしょう。お互いに手を差し伸べたいと願いながら、相手に手を差し伸べると自分の藁を手放すことになるのでそれもできず、一本の藁にしがみつく以外に、お互いに身動きできないという状況もあるでしょう。
 極論は避けたいと思いますし、あまり断定するのも良くないと思いますが、結婚に「救済」を、結婚相手に「救済者」を期待してしまうと、多くの困難な状況を生み出すことになる可能性が高いように私は考えています。特に、双方が互いに「救済」を必要としているような関係であると猶更だと私は思うのです。

(202-2)同程度の人どうしが一緒になる
 さて、結婚すると配偶者の有する「達成度」も関係してきます。相手との関係で自身も影響を受けるので、達成度に多少の上下が生まれるかもしれません。
 ここで、達成度6点の人と8点の人が結婚したとしましょう。二人で14点になるので、平均して(こんなことは現実には言えないのですが、あくまでも原理として述べているのです)7点ということになります。6点の人は7点になり、8点の人は7点に下がるけれど、お互いにまだある程度の高さを維持しています。
 一方、達成度3点の人が1点の人と結婚したとします。上述の式を当てはめれば、平均2点ということになります。3点だった人は2点に下がり、1点の人は2点に上がるのですが、どちらも全体的に低い地点にあるということになります。
 この話を離婚経験のある女性クライアントにしてみたことがあります。彼女は「では、低得点の人が高得点の人と一緒になったらどうなるの?」と質問してきました。おそらく、彼女の願望が関係しているのでしょう。
 この質問に対して、私はとても否定的なニュアンスの返答しかできません。それは、高得点の人は同じように高得点の人を相手に選ぶことが多く、同じように低得点どうしが一緒になってしまうことが多いというものです。
 「幸福・自己実現度」の高得点者と低得点者とは、まったく違った生き方をしていて、時には正反対の人生上の目標や方向性を有していたりするのです。
 例えば、高得点者と低得点者の二人が交際しているとします。何か問題が生じるとします。高得点者は二人で協力して乗り越えようと促すかもしれませんが、低得点者は何をやっても無駄と言って諦めたりするかもしれません。一方が前に進もうと願い、他方がそこに留まるか後退することを願うかもしれません。高得点者はさまざまな場面でこうした「不一致」を相手との関係において見出すことになるでしょう。
 一方、低得点者は、高得点の相手との間に壁を築きたくなるかもしれません。つまり、相手がとても高いところに君臨しているように見えてしまったり、自分の低さをいやというほど見せつけられてしまう経験をしてしまうかもしれないからです。相手が素晴らしすぎて、自分はダメだという現実(この人の中で体験されている現実という意味なのですが)に耐えられなくなるかもしれません。
 従って、高得点者と低得点者が一緒になった場合、高得点者は相手とは「意見や価値観が合わない」と体験したり、時には「性格の不一致」を覚えることが多くなると私は思うのです。低得点者側は、「相手が私にはもったいない」とか「私では相応しくない」といった経験をすることが多くなると思うのです。
 こうして、高得点者は低得点者に対しては「ウマが合わない」という体験をし、低得点者は高得点の相手が素晴らしすぎて「敬遠したくなる」という気持ちが生じたりするのだと思うのです。
 そうなるとお互いに安心して付き合える相手というのは、自然と自分に近い人となってくるのだと思います。性格的にも、価値観や経験も、「幸福・自己実現」の達成度も、似ている人、同じ範疇にある人が配偶者として選ばれるようになってくるのだと思います。

(202-3)最初の柱が不十分だと負担が増えてしまう
 それでは次のような可能性はどうだと問われる方がおられるかもしれません。たとえ低い者どうしが一緒になったとしても、そこから高得点に至る可能性があるはずではないかと。私はその可能性は確かにありますとお答えします。ただし、相当の労力を要することになるという補足がつきますが。
 結婚前には、どの人も「自分自身の向上・完成」とか「自分の人生や生活の達成」といた課題に取り組んでいるでしょう。これを「自分の自己実現」と述べておきます。結婚前はこの「自分の自己実現」という柱を打ち立てることが課せられていると言っていいでしょう。
 結婚すると、そこに相手がいるわけなので、当然、「相手の自己実現」ということが関係してきます。双方はそれぞれ「自分の自己実現」を目指し、そして同時に「相手の自己実現」にも寄与することになるのです。
 それらは個々人の課題であるわけなので、ここにさらに夫婦のことが加わります。つまり、夫婦「二人の自己実現」ということを考えなくてはなりません。こうして双方は自分の自己実現に加えて「相手の自己実現」「二人の自己実現」にも参加していかなければならなくなります。
 ここに子供がいる場合、当然、「子供の自己実現」にも双方は関わって行かなければならなくなるでしょうし、子供を含めた「家族全体の自己実現」という課題も新たに加わるでしょう。
 つまり、結婚前は一本の柱を打ち立てることに専念してよかったのですが、結婚して、子供もいると、打ち立てる柱が3本にも5本にもなるということなのです。
 困難とはこの部分です。最初の一本目の柱を打ち立てることのできない人が、柱の数が増えてから改めて最初の一本目を打ち立てていこうということになるわけです。最初の一本目を十分に確立できていないのに、柱の数が増えてしまって、そのすべてに同時に関わって行かなければならなくなるわけですから、その人には負担がとても大きくなってしまうということなのです。
 この困難に対して、ある人たちは「自分の自己実現」だけを目指し、夫婦や家族よりもそれを中心に据えて生きようとしていました。また、別のある人たちは「自分の自己実現」が不十分であるが故に「相手の自己実現」を妨害したいという気持ちに襲われていました。もしくは「相手の自己実現」のために自分をすべて犠牲にするという人たちもありました。お互いに「自分の自己実現」しか考えていないという夫婦もあります。それらはすべてこの困難に対しての彼らなりの対処なのだと私には思われるのです。
 夫婦関係においても親子関係においても、個人は「自分の自己実現」を放棄するよりかは目指した方が良いと私は考えていますし、一つの柱にだけ関わり続けるより、全部の「自己実現」過程に関与できる方が良いと私は考えています。「子供の自己実現」だけに関わって、自分自身の「自己実現」を断念している親も多ければ、「自分の自己実現」だけに執着して他を一切無視する親もあるものです。いずれにしても、それらはすべて(本項の観点に立てば)、自分自身の「自己実現」の樹立が不十分なまま生きてきた人たちなのだと、私にはそのように思われるのです。

(202-4)自分を断念し、放棄してしまう生き方
 さて、「自己実現」などという曖昧語は今後は慎もうと思います。繰り返しますが、前項と本項は原理を述べるために簡略化して記述しています。そのために「達成度」とか「自己実現」といった言葉を使用しているだけであり、本来ならそれらの言葉の定義をきちんと記述してから使用するべきなのですが、そうした煩雑な作業を省いているということをご了承くださればと思います。
 要点としては、結婚前にしっかり確立できていなかったり、不十分にしか達成されなかったことは、結婚後に生じる「問題」と深く関係しているという点をご理解していただければと思うのです。そして、結婚後にそれをあらためて樹立しようとすると、多くの負担と困難が伴うことになるということであります。

(ケース2) DVの「問題」で、妻からカウンセリングに「送られた」男性「加害者」の中には、離婚に踏み出す人も少なくありません。その際に、彼らの中には「もう一度自分の人生を送りたい」という意味のことを述べる方々もおられます。つまり、もう一度「自分の自己実現」を目指したい、もう一度それだけのために生きてみたいということであります。妻がどうだからとか、妻との生活が嫌になったとか、そういうことではなく、かつて十分に樹立できなかったことをもう一度やり直したいという意味なのです。
 私はそれもいいことだと思うのです。彼らの中には思春期頃から躓いている人もいて、自分のために生きることを多くの場面で断念してきたという人も少なくないのです。それをもう一度やり直そうと決断される時、そしてそれを現実に実行していかれる時、その人はもう「加害者」ではないのです。その人は自分の課題に取り組み始めているのであります。

(ケース3) ある女性は、子育てのために自分の全てを犠牲にしなければならないと考えていました。夫のためにも尽くさなければならず、いわば、子供に対しても夫に対しても、彼女は自分自身であってはならないというように信じておられたのでした。
 数年間、そうした自己抑圧的な生を送ったのち、彼女はひどい抑うつ状態に陥り、時に希死念慮や孤立感にひどく苛まれるようになったのでした。言うなれば、彼女にはもはや生きがいがないのです。それを追及することを自ら禁じていたのです。良き母親として、良き妻として、懸命に自己を喪失してこられたのです。彼女は、自分の生き方を振り返って行く中で、自分自身のことをいかに諦めていたかを知って行きました。再度、生きがいと呼べるような、後の人生において追及していけるような価値のあるものを見出していくに従って、彼女に生気が戻り、家族関係も(衝突した時期が間にあるのですが)よくなっていったのです。

(ケース4) ひきこもりの子供を抱えていたある母親は、それまで子供に「尽くして」、子供の好きなようにさせてきたのでした。彼女は、子供のためとか子供には自由をと主張していく中で、いかに自分の問題をそこに持ち込んでいたかに気づいていきました。一言で言えば、それは「わたしはもう自分のことを諦めました。だからあなたはあなたの好きなようにすればいい」ということであり、子供を抱えているようで実は突き放していたのです。それは彼女が自分自身に対して取っている態度でもあったわけであります。
 この母親は無趣味な人でしたが、自分の趣味を取り戻し、再びそれに熱中して楽しめるようになると、子供もまた活動性を取り戻していったのでした。彼女はそれを不思議がっていました。母親が活動的になったのを子供が見て、それを学んだのかもしれないと彼女は言いましたが、私はそれだけではないと考えています。彼女が「自分を諦めず、自分の生を放棄しない」という態度で生を築くようになるに従って、「子供を諦めず、放棄しない」という態度としてなにかしらのものを子供に伝えていたのだと思います。もっとも、最終的にはその子供に訊かなければ分からないことではありますが、自分自身への態度が変わったので、他の人に対しての態度にも変化が生じたということが、私は十分にあり得ることだと思います。

 最後の二例、(ケース3)と(ケース4)の母親は、最初の柱を樹立していなかったわけではないのかもしれませんが、いつしかそれ以上樹立することを諦めてしまっていたと言えるかもしれません。でも、この二人の母親の自分自身に対してしていることを見ると、私には、「自分の自己実現」を十分に樹立してきた人のようには見えないのであります。そして、自分自身をあまりに容易に放棄できるのは、彼女たちが昔から抱えている自尊感情の低さに起因しているのであります。

(文責:寺戸順司)