<テーマ201>夫婦という人間関係~結婚して不幸になるのか(1)

<テーマ201>夫婦という人間関係~結婚して不幸になるのか(1)

(201-1)はじめに
(201-2)達成できていることと得られるもの
(201-3)人は結婚してから不幸になるのか
(201-4)結婚前のものが再燃する
(201-5)救済を求めてしまうこと


(201-1)はじめに
 特に「夫婦療法をしています」とも「夫婦の相談を承ります」とも謳っているわけでもないのに、私のところには夫婦のことで来談される方々がたくさんおられます。また、夫婦でなくとも、間接的に夫婦の問題が語られることもあり(それは例えば、クライアントの両親などです)、結果的に、あらゆる相談には夫婦に関することが含まれていると言ってもいいかもしれません。
 そうして、幾組もの夫婦のことを聴いてきた中で、私なりに思うところや見えてきた部分もあるので、それを「夫婦という人間関係」と題し、各主題について取り上げていこうと思います。
 いろいろなテーマを取り上げようと思うのですが、当然、他のテーマと重なるところや、離婚とかDVなどのように重複するテーマも出てくるだろうと思います。また、多くの例、私が実際に見聞した実例を挙げることもあるでしょう。事例に関しては、他の事例同様、個人が特定できないようにアレンジを加えています。
 また、どのような方々がこの文章をお読みになられるのか、私には一切分かりません。私はできるだけ自分の思考や印象を正直に述べようと思います。時には耳に痛い話をしてしまうかもしれませんし、読んで不快な思いをされる方も現れるかもしれません。そこはどうか自己責任でお読みいただくことを願います。
 さて、本項では「結婚して不幸になるのか」と副題を付けました。夫婦問題でカウンセリングを受けに来る人たちの多くは、その夫婦生活で何らかの不幸を体験しておられるのです。本項では、この不幸の源泉はどこにあるのかという認識について考えてもらいたく思うのです。彼らは「結婚してから自分が不幸になった」という意味付けをされるのですが、それは問題のごく一部しか見ていないような気が私にはするのです。

(201-2)達成できていることと得られるもの
 幸福とか満足というのは心的な体験であり、具体的にこういうものだと説明できない種類のものです。それらが心的な体験であるなら、そのような体験と個人が心的に有しているものとは関係があると見做してもいいのではないかと私は考えています。
 そこで、まず、このような例を考えてみましょう。とても不幸なことに、乳幼児が育児放棄されて餓死状態で発見されたといった報道に接することがあります。もし、この乳幼児が自分のそれまでの生を語ることができたとすれば、どのような言葉になるでしょう。きっと、私の人生は苦悩と絶望と貧苦の連続だったと回想するだろうと思いますし、この世には幸せなことは何もなく、私が生まれてきたのは間違いだったと言うかもしれません。
 つまり、乳幼児には、自分の力で幸福や満足を獲得することが極めて困難だということなのです。それらを得るためには常に誰か他の人の協力が得られなければならないのです。
 子供が少し大きくなると、思考が発達し、身体の発達が進み、それによって活動や感情体験が増えるでしょう。さらに年齢が進むと、心身の能力も、その他の技能も飛躍的に身に付けるので、行動範囲やレパートリーも広がり、世界が広がり、体験を共有するために必要な言語表現も増えるでしょう。こうなると、さらに幸福感を体験すること、自分の生活から満足を得ていくことが以前よりも増えていくことになるでしょう。
 何が言いたいのかと言いますと、心的な成熟、経験や世界の広がり、身体的な発達などが増えるほど、幸福や満足、充実感を獲得したり、それらを体験することが増えるということなのです。多くを獲得しているほど、それらの体験をする機会が増え、わずかしか持ち合わせていない人は人生や生活からわずかなものしか得ることができないということなのです。特に、幸福や満足というのは心的な領域に関する事柄なので、心的な成熟の度合いがそれに大きく関与すると私は考えています。
 結婚するまでに、それまでの人生において夫婦の双方が獲得してきたものには差異があると思いますし、個々人それぞれが違っているだろうと私は思います。たくさん獲得したうえで結婚する人もあれば、わずかの獲得だけで結婚してしまう人も当然おられるわけであります。
 つまり、夫婦問題と言っても、どのくらいの成熟達成度で結婚を迎えたかによって、DVといった同種の問題であっても、夫婦ごとにその様相が異なりますし、援助する側も夫婦を構成する個人ごとに違った風に考えなければならないのです。

(201-3)人は結婚してから不幸になるのか
 ここで話を簡略化するために「幸福・自己実現達成度」という尺度を仮定します。もちろん、このような尺度は現実には存在しないし、数値化することもできない領域のことですが、この原理を説明するために便宜上そういうものを仮定するだけなのです。
 さて、結婚前にどれだけのことを獲得してきたか、あるいは達成してきたかということは、結婚後の生活にも影響を与えるだろうということは頷けるのではないかと思います。また、結婚してからも、そこで生活や人生が途切れてしまうわけではないので、結婚前の生き方や在り方が結婚後にも継続することになりやすいということも理解していただけるのではないかと思います。
 従って、例えば、いろんなタイプの人と人間関係を築くことのできた人は、特定のタイプの人としか関係を築けないという人よりも、結婚後の夫婦関係により適応しやすくなることが推測できます。不安を体験することが少なく、また不安によく対処してきたという人は、そうでない人と比較すれば、結婚相手にしがみつく度合いが少なくなるでしょうし、相手に見放されないために自分を犠牲にする率も低くなるでしょう。自尊感情のより高い人は、それのより低い人と比べるなら、自分の結婚や自分の選んだ相手に関して後悔することが少ないでしょう。自己充足をしっかりやってきた人は、そうでない人よりも、結婚後も自分の生活から満足や充実を追及していくことができるでしょう。困難な状況により耐えることができたり、より適切に処理できる人は、それらの不得手な人よりも、結婚後の生活の困難によりよく耐えることができるでしょうし、より適切な対処を目指していくでしょう。
 他にもいろいろ挙げることができるでしょう。肝心な点は、結婚前にその人が達成したことは結婚後も引き継がれることになるということなのです。そのため、個人の結婚前の「幸福・自己実現達成度」の度合いは結婚後も引き継がれ、夫婦生活に大きく影響することになるわけなのです。
 さて、ここでこの「幸福・自己実現達成度」が10点満点で評価されるとしましょう。もちろん、10点満点の人なんていないのですけれど、あくまでも仮定です。
 結婚してから不幸になったという現象に関して、私はその原理が至って簡明なものだと考えています。もし、結婚して幸福になったという人は、結婚前にすでに達成度が8点くらいあるのです。そこまでの達成を実現しているのです。この人にあっては、結婚することによって、自分一人では実現できない部分の達成を、相手との関係と共同生活において、目指そうとするのです。ここでは、結婚はより上を目指すこと、もしくは自分自身と人生の完成が目指されていると言えるのです。
 ここにもう一人、その達成度が3点しかないという人を仮定してみましょう。もし、この人が結婚して、その達成度が上がったとしても、3点が5点になるくらいのもので、まだまだ足りないということになるのです。この人の夫婦生活には、たとえ5点まで上がったとしても、不幸や不満がまだまだ多く見られることになるでしょう。
 これはいささか極論と言いますか、極端な意見かもしれませんが、要するに、結婚してから不幸に見舞われる人の多くは、結婚前からすでに不幸だったと私は考えているのです。結婚前からすでにその人の自己充足度、自己実現度、幸福達成度が低いということがよく見られるのです。

(201―4)結婚前のものが再燃する
 もちろん、人それぞれの事情があるのは確かであり、性格や認知にも個性と言いますか、個人差があるのも確かです。そうした要因はここでは一切除外して、あくまでも原理だけを述べているということを見失わないでほしいのです。
 先述の達成度が8点という人は、自分を良くするためにこれまでに努力してきた人でもあるのです。自分自身の向上とか自己実現のために必要な努力をしてきた人なのです。それに伴う困難や苦難をある程度克服してきた人なのです。この人たちの生の様式はそのように方向づけられているので、結婚してもそれを維持するでしょう。
 一方、達成度が3点という人は、自己実現の達成や人生と生活を満足のいくものにしていくという課題に対して、不十分にしか達成できていないのです。人によっては、そうすることがどういうことなのかも知らないという場合もあれば、必要な努力の方向さえ見えなかったり、方向違いのことに労力を費やし過ぎてきたという場合もあるでしょう。こうした人の中には、これまでの人生においても、困難に尻込みしたり、右往左往したり、見当違いの努力ばかりしてきたということが多く、結婚後もやはり迷い続ける人生を維持してしまうのです。
 このことは次の仮定をもたらします。結婚してから遭遇する諸問題は、その人が結婚前から抱えていることと関係しているという仮定です。時には、結婚前の諸問題が結婚後に顕在化することもあるのです。そこで新たな問題が生じているように体験されているかもしれませんが、それは当人たちにはそう見えているだけであって、結婚前に抱えていた問題の再燃であることも少なくないのです。

(201―5)「救済」を求めてしまうこと
 ここまでお読みになられて、私がすごく一方的な見方をしていると感じられた方もおられるかもしれません。特に達成度の低い人に対してとても厳しいとお感じになられた方がおられるかもしれません。そのように感じられたとすれば、私としては遺憾に思うのです。
 もし、ある人の心的な成熟度とか達成度が低かったとしても、それはすべてその人の責任であるとも言えないのです。さまざまな状況や条件の中で、その人なりに生きてきたわけであり、そうするしかなかったということも少なくなかったでしょう。
 ただ、その人たちは、結婚に関して、一つだけ誤ってしまうのです。
 その人たちは、結婚前から多くの不幸を経験する機会があったと思います。自分でもどうにもならない状況で、手も足も出せないまま生きてきたという背景もあるでしょう。達成度や成熟度が低いと言っても、それなりに懸命に伸ばそうとしてきた人も中にはおられることでしょう。
 ここで取り上げたい点、つまりそうした人たちがしばしば間違ってしまう点は、これまでが不幸や不満足の連続であったがために、結婚にある種の「救済」を期待してしまうということです。
 つまり、結婚すれば救われるとか、結婚すればこの状況から逃れられるとかいうように、結婚に何らかの「救済」の意味を付与してしまうということです。
 言い換えれば、もはや「自己救済」が不可能なので、誰かにそれを代行してほしい、相手に手助けしてほしいという気持ちになるということであります。そのために結婚が求められてしまうということなのです。
 こうなると、相手を「救済者」として求めてしまうのです。この「救済」には、例えば「私を支えてくれそう」とか「守ってくれる」など、人それぞれ違ってくるでしょうし、「この人となら経済的に大丈夫」という形で「救済」を示す場合もあるでしょう。その人が求める「救済」に応じて、相手に対しての期待も変わることになるのです。
 しかし、その人たちはさらに不幸を重ねてしまうことになるのです。そうした期待が裏切られてしまうということを彼らはしばしば実体験してしまうのです。思っていたよりも相手が頼りにならないとか、支えてくれないとか、そういう場面に繰り返し遭遇するのです。

(ケース1) ある女性は、自分がこれまで貧乏だったので、金振りのいい男性と結婚したのです。そこに含まれているのは「この人と一緒になったらこの貧乏から抜け出すことができる」という期待なのです。ところが、夫になった男性は実は一文無しで、金振りがよかったのは彼の親の遺産のおかげだということが分かったのです。彼自身は自分で稼ぐことをまったくしようとしないし、いざやろうとしても挫折ばかりしているという男性だったのです。

 時には、期待の方が大きすぎて、相手の能力を超えている場合もあるでしょう。現実に相手から満たしてもらえる以上のものを相手に求めてしまって、そのために常に不満足だというような例です。
 また、私の出会った人たちに限った話かもしれませんが、相手もまた「救済」を必要としている人である場合も多いように思うのです。

(ケース1続き) 先ほど述べた金振りのいい男性も、経済的には「自己救済」できない人でした。親の遺産という「救済」のおかげでやっていくことができていたというだけだったのです。彼もまた彼女にある種の「救済」を期待していたようでした。そして、彼女の方は今までとおり「貧苦」の問題を抱え続けなければならず、その結婚生活は彼女にはなんら良いものとして体験されていないのでした。彼の方でも同じような感情を経験していた節があるのです。二人は、いわば、自分たちの期待だけで相手と一緒になってしまったのであり、その根本には「救済」を求めていた感情を見て取ることができるのであります。

 本項は長文となりましたので、ここで項を改めることにします。次項では、この原理に関しての補足をしておきたいと思います。

(文責:寺戸順司)