<テーマ200>ラポール・転移・対象恒常性(4)

<テーマ200>ラポール・転移・対象恒常性(4)

(200―1)「治療」と「洗脳」は紙一重であること
(200―2)破壊と建設
(200―3)なぜ録音するのか
(200―4)愛情と憎悪
(200―5)臨床家の理論と哲学
(200―6)「何も足さない。何も引かない」


(200―1)「治療」と「洗脳」は紙一重であること
 転移に関して話を進める前に、ここで重要な指摘を二つほどしておきたく思います。
 前項での私のN先生に対する転移関係をお読みになられて、何か気づいた点はあるでしょうか。
 転移関係の状況では、N先生の言葉は絶対的に真理であって、おそらく同じ言葉であっても他の人が発する言葉とはまるで違った色合いを帯びていただろうと思います。こうした状況について、あなたはいかが思われるでしょうか。
 もし、「それは洗脳じゃないのか」と疑問に思われた方がおられたとすれば、私はそれは一部において正しいとお答えします。
 私の考えではカウンセリングとか心理療法は「洗脳」と紙一重なのです。その人の「治療」や「問題解決」のために専門家がしていることと「洗脳」の手段とはとてもよく似ているのです。似ているけれども両者は違うものなのですが、それは紙一重の差異なのです。後で述べるように、手段や意図、そして専門家の有しているもののわずかの差異なのです。
 そのことに専門家の方が気づき、意識していなければ、臨床家のやることはいとも容易に「洗脳」となってしまうのです。この危険性をしっかり把握している専門家は意外に少ないと私は思っています。事例のH氏は、DV被害者のシェルターに避難した妻に対して、妻はそこで洗脳されていると訴えていました。それは「洗脳」ではなかったのですが、私はH氏がそのように訴える気持ちはよく分かる思いがしていたのです。両者がとても似た営みだということを知っているからなのです。
 洗脳という言葉こそ使っていませんが、サールズの重要な論文「相手を狂気に追いやる努力」は臨床家必読のものだと思っています。私も折に触れて繰り返し紐解く論文なのです。この論文での重要な指摘は、人を狂気に追いやる(つまり精神病にする)努力と治療とが非常に近いものであるという点にあると私は捉えています。

(200―2)破壊と建設
 この望ましいことと望ましくないことが紙一重であるという領域は他でもあります。例えば医師の仕事がそれです。医療事故などで患者さんが亡くなったという記事を耳にすると、医療と「殺人」は紙一重だという感覚を私は覚えるのです。
 教育もそうでしょう。人を育てるはずの教育が、例えば「体罰問題」のように、人を壊す行為となってしまうのです。
 専門家だけでなく、利用する側もそれに対する覚悟をしておくことが肝要だと私は考えています。病院に行くということは、一方では医療ミスに遭遇する可能性に接するということでありますし、入学するということは体罰を受ける可能性が増えるということを意味しますので、利用する私たちもそれを認識し、それに対する覚悟をしておく方がいいと私は考えるのです。
カウンセリングでも同様なのです。だからもっと気軽にカウンセリングを受けに行きましょうというような啓蒙活動に私は参加する気にはなれないのです。むしろ、何事も必要な覚悟をした上で受けにいきましょうと私は訴えたいのです。
 建設と破壊は常に紙一重で、うっかりすると、それはただの破壊行為になってしまうのです。私も過去にどれだけこういう間違いをしてきたことでしょう。だからこそ、私はその認識を常にしていなければならないのです。

(200―3)なぜ、録音するのか
 ところで、なぜ面接を録音するのか、そう問われることが私にはあります。ある書き込みで「それは裁判対策だろう」などと揶揄されているのですが、実に無学の徒による言葉で、無知この上ない説だと思います。私には裁判のことなど頭にないのです。裁判対策をするなら心理学や哲学は勉強していないでしょう。裁判に絶対に有利な学問分野に入っていたでしょう。「クライアントがそのような行為をしたのは、その時のクライアントの状態によるものであり、直近の診察において脳波にこれだけの数値が現れていて、これは通常の範囲をはるかに超えたものである」と、裁判で確実な証拠とはこういうものなのです。
そうではないのです。私がクライアントに対してやっている行為が援助行為なのか「洗脳」行為なのかを、私はチェックしなければならない立場にあるのです。
 だから、面接を録音しないようなカウンセラーなんて、私からすると、まったく信用できないのです。クライアント側からすると、録音されることに違和感を覚えると言う人も少なくないのは分かりますが、これはどうしても臨床家側がしなければならないことなのです。危険だからなのです。その点はご理解していただくしかないのです。

(200―4)愛情と憎悪
 では、援助的な行為と「洗脳」とが紙一重であるとしても、その相違はどこに求められるでしょうか。
 まず、その意図にあります。相手を援助したいという気持ちで発した言動であるのか、それとも相手を操作するための言動であるか、また、相手の利益になるように意図されたものであるか、それとも自分の利益のためだけに意図されたものであるかの違いがあるでしょう。
 そして、手段は大きく異なります。洗脳は明らかに相手を苦しめるという手段を取ります。援助行為は、相手にとっては苦しい時期を経ることがあったとしても、決して相手を苦しめたいと意図してなされているわけではないのです。
 これらの相違の個々の部分を見ればもっと違いはあるかと思います。しかし、最も大きい違いは、相手に対する感情にあるだろうと思います。援助は相手への、人間への愛から発するものであり、洗脳は相手への、そして人間への憎悪から発するものだと私は考えています。
 従って、私のカウンセリングが如何なる「洗脳」要素も含んでいないものにするためには、私の人間に対する愛の能力が常に私に問われることになるのです。私が人を恨まず、本当に愛する能力を持っているかどうか、その部分が本当に問われているのです。
 
(200―5)臨床家の理論と哲学
 転移関係にある臨床家とクライアントは、確かに「洗脳者―被洗脳者」、あるいは「催眠者―被催眠者」の関係に近づくと私は考えています。この関係において、臨床家の存在やその発する言葉は、特別な意味合いと力を伴ってクライアントには届くのです。
 余談ですが、アドバイスということは、確かに人を援助する上では有効な方法です。ただし、アドバイスが功を奏するのは、こうした転移関係が発展してからなのです。多くの場合、助言が功を奏さないのは、被援助者に転移関係が生じていないためだと私は考えています。
 さて、次に問われるのは、そこで臨床家がどんな理論を持っているかなのです。臨床家の有するその理論が、クライアントに愛をもたらすものなのか、それとも憎悪を持ち込んでしまうものなのか、それが問われるのです。
N先生は私とのカウンセリングで親への責任という視点を私に持ち込んでしまいました。「アダルト・チルドレン」とか、その種の理論が危険だと私が考えるのはこのためなのです。
その時、私にはなかった観念が新たに私に植え付けられたのです。憎悪のなかったところに、憎悪が持ち込まれてしまったのです。私自身はこの呪縛から解放されるまでに数年かかりました。そして、これは非常に苦しい体験だったということも付け加えておきます。
 ここで思い出されるのは1990年代の、主にアメリカで問題になった「催眠による心的外傷場面の想起」問題です。これは何かと言いますと、PTSDの症状が見られるクライアントに催眠療法を施し、幼児期に経験したことを想起させたところ、親から暴行されたとかレイプされたといった記憶が出てきたのです。それで親が起訴されたりもしたのですが、実際にはそのような記録がなく、この記憶は催眠によってもたらされたものだとして、今度は親たちが臨床家を訴え始めたのです。
 これはつまり臨床家側、催眠療法家側の理論なのです。この人におかしな症状が起きているから、この人は過去にひどい心の傷を受けた経験があるはずで、それが意識化されていないだけであり、催眠によってそれを想起することが必要だと考えているのです。そしてクライアントはその催眠療法家の理論に適合した記憶を作り出してしまっていたということなのです。これこそ「洗脳」ではないかと私には思われるのですが、いかがなものでしょう。
 だから、臨床家は健全な思考をしなければならないと私は考えています。誰かを悪者にするような理論とか、その理論「しか」有していない臨床家というのは、私からすれば非常に危険な存在だと思うのです。
 もちろん、一人の臨床家は自分の理論を持っていいし、いろんな見方を身に付けておく方がいいとは思います。しかし、自分の思考を思考対象として取り上げ、自分の理論を推敲、洗練していくという作業も必要になってきます。私にもそのような時期がありましたし、繰り返しそれをしようとしているのですが、その時、哲学の勉強をする必要が私に生じたのでした。
 確かに、哲学の専門家になる必要まではないかもしれません。ただ、ニーチェがどう言ったとか、サルトルはこう述べているということではなく、それぞれの哲学者がどのように現象を捉え、考えを重ねて行っているかを追うことが大切なのです。だから哲学はあらゆる専門家にとって必修の科目だと私は考えているのです。

(200―6)「何も足さない。何も引かない」
 カウンセリング、心理療法は一歩間違えると「洗脳」になってしまうと私は考えています。そして、それが「洗脳」に近い営みであるがために、臨床家の愛情能力や健全な理論が不可欠なのです。私はそう考えているのです。
 だから、「心の治療」は医学的に行ってはならず、科学的にやってもいけないのです。同じように宗教的に行ってもいけないのです。それらは、私から見ると、あまりにもクライアントに何かをしようとし過ぎるのです。ベネデッティの述べるように、「哲学的な語らいを引き受けることができる者のみが病者の語りに耳を傾けることができる」のです。私にそれができているか自分でも分かりませんが、私が目指しているのはそういう方面なのです。
 ところで、カウンセラー批判の中に「カウンセラーは何もしてくれない」というものをよく見かけます。一応、この字義通りに受け取りましょう。その上で申し上げるのですが、何もしてくれないカウンセラーに出会った人は、むしろ幸福なのです。何かをしたがるカウンセラーの方がむしろ危ないのです。私はそう考えます。
 正直に申し上げますが、私は時代遅れのカウンセラーなのだと自分でそう思っております。今はとにかくクライアントを「治そう」とする傾向が強いのです。「治る」ということを視野に入れておくことは賛成なのですが、「治そう」とし過ぎるのです。クライアントもまた自分を「治して」もらおうとし過ぎてしまうのです。そのために「洗脳」要素が強くなってしまうこともあると私は思うのです。それが現代の主流であるなら、私は時代遅れの人間なのだと思います。
 究極の「心の治療法」は、私の考えでは、クライアントに「何も足さず、何も引かない」(某ウイスキーの宣伝文句なのですが)ことだと思います。クライアントに転移が生じるまで、できるだけ影響を控えて、私は待つのです。私がクライアントにとって転移対象となれば、私は私自身をクライアントに差し出すのです。私の存在と、私の時間と場所を、そっとクライアントに差し出すのです。クライアントが私の何かを内面化していくと、クライアントの心の中が再体制化し始めるでしょう。その過程を私は静かに見守りたいと思うのです。それ以上のことをしてはいけないと私は思うのです。
 ちなみに、究極の心理療法はクライアントに「何も足さず、何も引かない」ことだと述べましたが、最後に少しだけこれに触れておきます。
 あなたは人から傷つけられたという経験をしたことがおありでしょうか。もし、そういう経験があればその時のことをよく思い出してほしいのです。あなたは傷ついたという体験がどういうものであったかが見えるでしょうか。
 例えば、ある人から「お前はダメだ」と言われて傷ついたとします。あなたは自分が否定されたから傷ついたのだと理解するかもしれません。でも、その理解は表面的なのです。その言葉であなたが傷ついたのは、あなたの中にその言葉、観念がなかったからなのです。「お前はダメだ」という観念は、それを発した人の中にある観念であり、あなたのものではなかったのです。あなたは相手に属する観念が一方的にあなたに付加されたためにあなたは傷つくのです。つまり、あなたは何かを「足され」たのです。
 人が苦しむのは、常に何かを足されたり、何かを引かれたりする状況があると私は考えています。あなたになかったものを押し付けられたり、あなたに在ったものを消去させられたりという状況なのです。そして、これもまた「洗脳」なのだと思うのです。
 カウンセリング、心理療法と洗脳との類似点の一つがここにもあることになります。洗脳は相手に対して何かを付け足したり、何かを消し去ろうとするものです。心理療法も同じようなことをしてしまうのです。だから、カウンセリングを洗脳とは違う営みにするためにも、カウンセラーはクライアントに対して「何も足さず、何も引かず」を心がけなければならないのです。私はそう考えております。

 とりとめのない文章を綴り、まとまりのない内容となってしまいましたが、ここでどうしても述べておきたいと私が思うところのものを綴らせてもらいました。次項より、転移の考察を進めます。転移から対象恒常性へと論を進める予定をしております。

(文責:寺戸順司)