<テーマ199>ラポール・転移・対象恒常性(3)

<テーマ199>ラポール・転移・対象恒常性(3)

(199―1)取り入れとイメージの変容
(199―2)自己へのエネルギー備給
(199―3)転移について
(199―4)投影と転移
(199―5)理想的同一化対象


(199―1)取り入れとイメージの変容
 相手と対面した際に、現実の相手に対して自分の中に在るイメージを相手に付与するということを私たちは日常的にしています。それによって、相手との関係形成が助けられるのです。このイメージは私には馴染みのある像であり、このイメージ像には私の感情が付随しています。馴染みのあるイメージ像を対象に付与すると同時に、そのイメージ像のまつわる感情も対象に付与されることになるので、私は相手と感情的に結びつくことになります。前項ではそこまで述べたと思います。
 感情的に結びついた相手のことは、私にとっては非常に気になる存在になります。私がN先生との面接を終えた後でも、N先生のことを考えていたり、その面接のことで心が占められていたりした時期がありました。言い換えると、当時の私にとっては、N先生は特別な存在であり、とても気になっている人だったのでした。
 このように相手が特別な存在で、相手のことが気になるということは、つまり、私の心的エネルギー(精神分析で言うところのリビドー)が、その相手に過剰に備給されているということであります。
 ここからが本節の中心なのですが、心的エネルギーが過剰に備給されている対象は、私の中に内在化される傾向を強めるのです。リビドー備給された対象は取り入れられるということなのです。
 そこで次のようなことが生じるのです。私の中に最初は<X>というイメージ像があったとします。私はこのXをN先生に付与します。この時、私は<XプラスN先生>と関係しているということになります。それが私に取り入れられて、内面化されるということは、この<XプラスN先生>が内面化されるということになります。
 この時、最初に私の中にあった<X>イメージ像は、<XプラスN先生>イメージへと変容しているのです。私の中の<X>は<XプラスN>へと席を譲っていくことになるのです。コフートの言う「変容性内在化」というのはこのような現象を指しているものと私は理解しています。この経験は、私の心の中にそれまで存在していた<X>を変えていくことになるのです。
 私の中にあった<X>は、N先生という具体的な対象を与えられ、そして、それが取り入れられ、内面化されていくことによって、<X>は姿を変えていくのです。
 もし、ある人の<X>が憎悪と敵意に満ちたものであるとすれば、彼の<X>は中和化されていかなければならないのです。<X>を消去するのではなく、それが中和されていかなければいけないのです。
 このタイプの人に臨床家を転々とする人がいます。それは仕方がないことなのかもしれません。でも、この人の中で<Xプラス臨床家A>に、<Xプラス臨床家Aプラス臨床家B>というようにXの変容が促進されていければ望ましいと私は考えています。しかしながら、<Xイコール臨床家Aイコール臨床家B>という内面化である限り、このXは望ましくない存在のまま彼の中に留まり続け、臨床家Aも臨床家Bも同様に望ましくない存在としてXと並列されてしまうことになるのです。
 相手に私のイメージ像<X>を付与し、相手と結合したXを再度私が内面化することによって、私の中にあるXが変化していくのです。私の心の中が変わっていくのです。「心の治療」というのは、こういうプロセスだと私は考えています。そして、このようなプロセスでなければならないと考えているのです。

(199―2)自己へのエネルギー備給
 私のXは今や<XプラスN先生>として内面化され、私は内面化された<XプラスN先生>に心的エネルギーを注いでいます。目の前にN先生がいなくても、私の中でN先生との関係が続いていて、私は私の中に内面化されたN先生にエネルギーを備給していることになります。
 これは言い換えれば、自分自身にエネルギーを備給している状態であります。自分自身にエネルギーを過剰に備給するということは、相対的に自分の外側にある不満対象に向けていたエネルギーが減少することになります。その分のエネルギーまでが私自身に注がれるようになり、それが望ましい対象を通して私自身に備給されているのです。
 こうした体験は次のような現象を私にもたらしました。
 まず、自分自身に心的エネルギーを備給するということは、自分への関心を高め、そして自己愛の回復へとつながったように思います。自分にエネルギーが備給される分、以前よりも自分に意識的になる私がいました。私は今までよりも自分の感情や欲求に目を向けるようになり、自分自身に関して、ごまかしたり、回避したりする傾向がそれによって少なくなっていったように、当時を振り返ってみると、思い出されるのです。
 この経験は、さらに、私が私自身に取り組もうという気持ちを一層高めてくれました。いまやN先生への関心は、そのまま私自身への関心となっていました。別の言い方をすれば、私はN先生を通して私自身への関心を取り戻していったのです。こうして私は私自身を再体制化していく過程に入ったのでした。
 そして、N先生への関心と私自身への関心とが一致してくるにつれて、N先生は私にとって理想的な人であるかのように、同一視したくなる対象となっていったのです。

(199―3)転移について
 ここまで私自身の体験を通して説明してきたのですが、十分に理解できたでしょうか。説明不足な点も多いだろうと思いますし、稚拙な説明を延々と続けているのではないかという気分に襲われています。でも、十分に理解していただけなくても、先に進みたいと思います。
 二つ目の重要な概念である「転移」に焦点を移していきます。
「転移」というのは、精神分析用語でありますが、一言で言えば、過去の重要な他者を臨床家に投影することであります。過去の重要な他者というのは、大抵は親とかかつての養育者であります。この転移関係を通して、クライアントは親子関係を象徴的に再現するのです。そして、象徴的にクライアントの親子関係を改善していくのです。
 フロイトは精神分析学を確立していく中でさまざまな概念を打ち出したのですが、転移はもっとも批判されることの少なかった概念です。「転移なんてありえない」とか「信じられない」といった批判がないのです。それだけ「転移」ということは誰もが理解できて、経験的に知っていることなのだと思います。
 初期の理論では、転移は「抵抗」と考えられていました。クライアントは治療を受けに来るのですが、その治療は寝椅子に横たわり、思い浮かぶことを口に出して言うというものであります。クライアントは治療してくれない医師とこの状況にフラストレーションを高めます。しかもクライアントにはこの状況を如何ともできないので、このフラストレーション状況はクライアントの退行を促します。欲求不満状況に対して何もできないので、心が以前の段階に戻るのです。そうしてクライアントは連想をする代わりに、子供時代のものを再現するような行動をとるようになります。この時、クライアントは臨床家に親転移を起こしているといえるのです。
 しかし、退行が促進されるおかげで、クライアントは子供時代のことをより思い出すようになり、この転移を操作していくことで、エディプス葛藤の処理が促進されることになり、転移は徐々に治療への「抵抗」とはみなされなくなっていったのです。
 精神分析においては、クライアントの神経症の治療のために、クライアントに「転移神経症」を発展させ、その転移神経症の治療を通して、治療を受けることになった本来の神経症症状を治療していく、そういう方法であるとも言えるのです。

(199―4)転移と投影
 さて、転移も投影と類似の現象なのですが、両者の違いについて少しだけ述べておきます。少々余談となりますので、先をお急ぎの方はここは飛ばしてください。
 例えば、あなたは夜遅くまで残業して、深夜、帰路についているとしましょう。あなたの目の前に空き缶が転がっています。あなたは無性に腹立たしい気持ちになって、思わずその空き缶を蹴飛ばしてしまいます。どうしてそういうことをするのかあなた自身も分からないけれど、空き缶を蹴飛ばした後は気分がスッとしています。
 あなたは後になってその理由に思い至るかもしれません。街灯の光を反射する空き缶のその様子が、憎たらしい部長の頭の光具合を連想させたのだということに。
 この時、あなたは部長を空き缶に投影していたのです。空き缶に対するあなたの感情は、部長に対するあなたの感情なのです。空き缶にとってはいい迷惑になるのですが、この空き缶に対してあなたが行為したことは、あなたが部長に対して行為したかったことなのです。
 これは投影に一例なのですが、要は、投影というのは「何でもあり」なのです。何を何に投影するかということに決まりがないのです。
 転移はそういうわけにはいかないのです。転移は過去に重要だった人を現在の重要な人に投影するということであり、投影する対象も投影される対象もかなり限定されているのです。
 また、その感情も限定されていると私は考えています。私の過去に重要だった人に対する感情は、その人が過去である限り、私の中で消化されず、処理されないまま残ってしまっているものもあります。現在の重要な人に対して投影される感情は、私の中のその未処理の感情なのです。それ以外の感情ではなく、達成されることのなかった感情、処理されないで残っている感情だけなのです。この点も投影とは大きく異なっていると私は考えています。

(199―5)理想的同一化対象
 前にも述べましたが、臨床家によってラポールと転移を同義と考えている人もありますが、私は両者を区別しています。どこまでがラポールで、どこからが転移であるかということは、明確に境界線を引くことができないのですが、ラポールは投影の段階であると私は理解しています。
 投影が発展して、その対象が限定されていけば、そこから転移と見做すように私はしています。
 これまで述べてきたN先生との関係において、私にとってN先生が特別な存在のように思え始めていた時点で転移の萌芽が認められるのですが、N先生に理想的な像を見出し、同一化したくなっている時にはすでにそれは転移に発展していました。
 私はN先生に対して「父親転移」を起こしていたのです。ちょうど小さな子供が「大きくなったらお父さんのようになりたい」とか「尊敬する人はパパです」と言うように、私はN先生を理想化し、N先生のようになりたいと思うようになっていたのです。
 ある時、私は恥ずかしながら「僕もN先生のようになりたい」とN先生に打ち明けたことがありました。N先生は反対しませんでした。それどころか、N先生は「それならウチで経験を積めばいい」と言ってくれたのです。後にN先生と一緒に仕事をするようになったのはそれが契機だったのです。振り返ると、N先生も私に対して「息子逆転移」を起こしていたのかもしれないと、そう思うのです。
 N先生との面接に戻ります。20代前半の私はそれはもうひどい状態でした。それでN先生の「治療」を受けることになったのですが、この「治療」は私にとっては辛いものではありませんでした。なぜなら、私の中で、私は理想的な「父-息子」関係を経験していたからです。
 私はN先生を理想化し、尊敬していました。N先生との一対一の面接は、この理想的な「親」を独占しているという体験になっていました。その時、私は「理想的な父親の自慢の息子」であるように私自身を経験していました。現実の父親からは決して得られなかった体験を、私はN先生との関係を通して得ていったのでした。こうして私の自己は回復の過程に向かっていったのです。
 ところが、悲劇的なことが生じたのです。ある時、N先生は「寺戸君が今のような状態になっているのは、親に問題があるからなのだ」という話をされたのです。これが転移関係の恐ろしい一面でもあるのですが、私はN先生がそういうのだからそれが絶対に正しいと思い込んでしまったのです。
 それから私はやたらと両親に対して反抗的になってしまったのです。親からすると私がおかしくなったと映ったことだろうと思います。20代前半の若者が中学生のような反抗をするようになったからです。
 でも、当然ながら、私の反抗など親に通じるはずがなく、私は失意しました。決してN先生の方が間違っていたなどとは思い至らなかったのです。それから数年、私は親に対する怒りを抱き続けることになったのです。私にとっては、別の意味で苦しい時期が始まったのでした。

(文責:寺戸順司)