<テーマ183>DV関係(2)~融合的関係(1)

<テーマ183>DV関係(2)~融合的関係(1)

(183―1)融合体験
(183―2)一緒に悪くなるということ
(183―3)自分に必要なことを相手に施してしまうこと
(183―4)分離の困難さ
(183―5)「外側」と「内側」の一致


(183―1)融合体験
 DVの問題を抱えて訪れるクライアントたちの話を伺っていますと、彼らの関係は時にとても「融合的」だと私は感じるのです。
「融合的関係」というのは、それがまず心的な体験であるということを指摘しておきます。身体的には別々に存在していることはお互いに理解できているのですが、心的領域においては、相手との差異や相違が度外視され、一体のようになっているという関係であります。
 「融合的関係」において体験されていることは「融合体験」であります。まず、この「融合体験」について先に述べておく方が理解しやすくなると思います。
 私たちは誰でも「融合体験」を経験するものです。もっとも一般的な例はスポーツ観戦などです。そこではお互いの違いに関係なく、そのチームや選手の応援団として一致しているという体験をします。
 もし、阪神タイガースが優勝すれば、感動して泣く人たちもいるでしょう。今、仮に阪神タイガース優勝の瞬間を目にした二人の人間が、抱き合いながら涙を流しているとします。一人は「今年こそはと優勝を祈願して、例年以上に試合に足を運び、応援に力を入れてきて、その努力が実った」ことに対する涙であるとしましょう。もう一人は、「大のタイガースファンだった父があと数か月長生きしてくれれば、父にこの瞬間を見せてあげられたのに」という父への思いから込み上げてくる涙であるとしましょう。
 しかし、阪神タイガース優勝の瞬間を目の前にしたこの二人にとって、双方の違いはどうでもいいのです。お互いにこの瞬間の感激を共有しているということが大事なのです。相手の背景、事情は考慮されなくてもいいのです。一心同体であるかのように、この瞬間を共体験しているということで、お互いに満たされている体験をしているのです。
 喩えが適切であったかどうか自信がありませんが、「融合体験」とはそのようなものなのです。そこでは、自分と相手との区別が取り払われて、一体性の体験をしているということなのです。
 このような体験は、祭りとか祭事、宴席などでも経験します。お酒を飲むということもこうした体験を得ることにつながっていると言えるでしょう。
 少しだけ補足しておきましょう。ある程度健常な心は融合することも分離することも可能であります。それは、言い換えると、心に自由があるということでもあります。融合するか分離するかのどちらかしかないというような硬直性もなく、融合して呑み込まれる恐れもなければ分離に伴う恐れもないのです。「融合体験」をすることが良いとか悪いとかいう意味ではなく、そのような心の自由があるか阻害されているかが問題になるという点を押さえておきたいと思います。

(183―2)一緒に「悪く」なること
 さて、DV関係においてはその関係が融合的であることが特徴であると私には思われるのですが、片方がより融合的である場合もあれば、双方がともに融合的である場合もあります。その関係においては、相手はあたかも自己の一部のようになっており、良く言えば一心同体感があるわけですが、悪く言えばお互いに一人の個人になることができていないという体験をされているのです。
 心的な領域において、自分と相手との区別がなくなっており、融合しているということは、次のような状況をもたらします。
 例えば、いろんな意味で相手が「良い」存在であれば、同時に自分自身も「良い」存在として、「良い」状態でいることができることになります。同様に、相手が「悪く」なれば自分も「悪く」なってしまい、悪い感情や気分に支配されたりします。一緒に「良く」なったり「悪く」なったりしてしまうのです。
 しばしば、DV「加害者」は自分が悪い存在であると体験しています。それは自分の行為に対しての反省からもたらされた感情であるよりかは、むしろ相手が「悪い」存在になってしまったという体験からもたらされた感情であることが窺われるのです。
 事例のI氏は、妻からひどい仕打ちを耐えていましたが、これは自分が「悪い」存在であると体験されていたからだと思います。自分が「悪い」存在だから罰を受けるのは当然だというような感覚でおられたように思います。しかし、その前に妻が人が変わってしまったように体験されているのです。妻が先に「悪い」存在になってしまったというようにI氏には体験されているわけなのです。
 H氏の場合、家事をしない妻を見た瞬間、妻を「悪く」なった存在として体験してしまっているのです。融合的な関係においては、それは自分自身の「悪化」をも意味してしまうのです。従って、悪くなった対象を徹底的に破壊しなければならなくなるのでしょうが、それは「良かった」ものを回復しようとする試みとして理解することができるのです。
 一方、悪くなってしまった自分、自分から良いものや望ましいものがすべて取り除かれてしまったという体験から「抑うつ」的になる人もあります。I氏には幾分その傾向が見られましたが、かなり重いうつ状態に陥ってしまった「加害者」とも私はお会いしたことがあります。
 「融合的関係」では、自分が良いか悪いかも相手次第ということになるのです。相手が良い存在でなければ自分自身が耐えられなくなってしまうのです。相手への暴力は望ましい自己を取り戻そうとする試みであることも多いのですが、もちろん、これは正しいやり方ではありません。問題なのは、良くなるのも悪くなるのも相手と一緒になるという、この関係の方なのです。

(183―3)自分に必要なことを相手に施してしまうこと
 「被害者」側にも目を向けてみましょう。「融合的関係」にある「被害者」にはどのようなことが起きるでしょうか。
 「融合的関係」とは自分と相手との区別、境界線が取り除かれた状態でありますので、しばしば相手への怒りが自分への怒りに容易に転換します。また、相手が自分の一部として取り入られて体験されているために、その怒りの表出が間接的なものになったり、非常に微妙で曖昧な形になったりします。つまり、自分自身に対して直接的な攻撃を加えることには躊躇してしまうのと同じように、相手に対してもそのようにしてしまうということであります。
 しばしば「被害者」は自分が殴られたことに対する怒りを、殴られる自分に対しての怒りにすり替えたりします。「加害者」が悪い人間になったのは、私が「悪い人間」になっているからだというように体験されていることもあります。これもまた両者の境界が不鮮明になっていることの証拠であるように思われるのです。
 カウンセリングに訪れる「被害者」は、多かれ少なかれ、自分を「悪くなった」存在として体験されていることもあります。そこで少しでも「良い」ものを回復したいと思うのでしょうか、だから時には執拗になるのだと私は考えています。
 例えば、満足のいく答えを得るまで帰ろうとしなかった「被害者」女性クライアント(<テーマ164>)もそうだったと思います。彼女の中では、きっとすべてが「悪く」なっていたのでしょう。だから何が何でも良いものとか望ましいものを獲得しなければいられなかったのだと思います。そうでなければ「悪い自分」を生き続けなければならなくなり、それには耐えられないのだと思います。
 カウンセリングに訪れない「被害者」の中には、自分は姿を現さず、「加害者」を治療の場に送り込むという人もあります。「加害者」を良かった存在に戻してもらうことで、自分自身の回復を望まれているのだと思います。しかし、それは「融合的関係」を今後とも継続していくことを前提としたやり方なのです。だから、私はそれも正しいやり方ではないと思うのです。「融合的関係」を継続していく限り、DVは再燃される可能性も高くなるので、「被害者」のこのやり方は望ましいものではないのです。
 さて、「融合的関係」ということは、自分と相手との区別が喪失しているがために、いわば、自分に対してすることと相手に対してすることとがイコールになってしまうということであります。その点が少しでもご理解いただければと思います。
 そのため、自分を許さないといけないという感情は相手を許さないといけないという感情と入れ替わることも生じます。「被害者」が相手を許そうと懸命になられるのは、同時に自分自身を許そうとされている行為なのだというように私には映るのです。
 また、相手に対しての混乱した気持ちは、そのまま自分自身に対しての混乱にもなり得るということも押さえておきたいところです。「被害者」も「加害者」も、お互い相手が分からないと体験しており、多かれ少なかれ、心的な混乱を体験しているものなのです。この混乱を整理しようとしても、何が自分の領域にあるもので、何が相手の領域に属しているものなのか、それがまったく見えなくなっているのです。

(183―4)分離の困難さ
 もし、それが「融合的な関係」であるとすれば、当事者たちによって「融合的関係」をもたらす何かがその関係に持ち込まれているということになります。実際、一方もしくは双方がそれ以前にも「融合的関係」を築きやすい人であることが確認できる場合もよくあります。
 融合の反対とは分離であります。分離が困難であるから「融合的関係」になりやすいということも言えそうであります。そして、分離とは、自分一人でいられること、個として確立できているということを意味します。
 そのため、分離が困難な人ほど一人でいることに耐えられなかったりするわけなのですが、それに耐えられないがためにより一層堅固な結合や融合を必要としてしまうのです。しばしば相手と結婚する以前にも、会社とか上司、親とか大学時代の教授とかに強固に結合してきたという「加害者」や「被害者」も少なくないように私は感じています。ここで結合という言葉を使ったのは、融合とまでは言えないかもしれないと思うからです。
 H氏やI氏においては、仕事や職場に強く結合している観を呈しています。それが仕事熱心という表面上の現象のためにしばしば彼らの評価を高めていますが、ある部分では、自己の寄る辺なさ、頼りなさに対して、頼れる対象にしがみついているとも言えるのです。
 さて、こうした対象に対する結合に関しては、私は少なくとも二つのタイプを分けることができるように思います。
 最初のタイプは、一つの対象と強く結合し、その対象が失われると次の対象を求めるというタイプで、いわば結合する「特定の」相手を渡り歩くといった感じのタイプです。
 もう一つのタイプは、対象を入れ替えながら常に結合するというタイプです。私が以前お付き合いした女性友達(彼女はDV「被害者」の経験があった)はこの傾向があったように思います。これは結合する「不特定の」相手を渡り歩くタイプだと言えそうです。
 前者が比較的一つの対象と長く結合するのに対して、後者は常に対象を入れ替えているので、フラフラした印象が感じられる人なのです。
 後者のような例を掲げます。ある男性が恋人に暴力を振るってしまったということでカウンセリングを受けに来ました。暴力のきっかけは恋人が他の複数の男性と性的な関係を持っていることが発覚したからでした。彼女は彼と交際していながら、複数の男性と肉体関係を持っていたわけですが、彼女はその男性たちとは交際していないと彼に主張するのでした。そうして彼には訳が分からなくなったのでした。
 この女性は常に融合する誰かを必要としていたのだと思います。詳細は省きますが、片時も独りではいられないという感じの人であったようです。恋人である彼と「融合的関係」にありながら、彼が不在の時はそれに代わる誰かと「融合」しなければならなかったのでした。
つまり、彼氏が不在の時には相手Aと、相手Aも不在の時は別の相手Bで同じことをするのです。ただし、彼女の中では彼氏と相手A、相手Bは違ったカテゴリーに属する存在だということなのです。
 不思議に思われたとすれば、私の説明不足だと思います。「融合的関係」というのは、何よりも孤独感や不安感を魔術的に癒してくれるものなのです。アルコールで酩酊する時には幾分外界とは融合的になっているのです。私もお酒を飲むのでよく分かるのですが、それは非常に「快体験」なのです。恐らく、その他の薬物依存にも同じ現象があるのでしょう。だから、この女性が「融合的関係」を築く相手を求めるというのは、自分自身の維持のため、または、自己治癒のためにどうしても必要なこととして彼女には感じられていただろうと思うのです。

(183―5)「外側」と「内側」との一体
 さて、本項最後に述べておきたいことは、「融合的関係」というのは、私たちの誰もが経験したことがあるものなのです。人生のごく初期において、私たちは他者とそのような関係を築いているのです。私たちの誰もが人生の最初で経験する関係なのです。乳児は融合的な世界にいると言われています。自分と自分以外の境界が十分に形成されていないからです。
 この「融合的状況」においては、外側に生じる悲しみはそのまま自分の悲しみとして体験されます。親に不安が強いと、乳児も落着けなくなるのはそのためなのです。
 この状況では、常に望ましいものが外に求められることになります。自分が望ましくなるためには、自分の外に望ましい何かを求めなければならないのです。外側に望ましいものを見出し、それと関係している時、自分も望ましい存在として体験できるのです。
 相手や世界の良し悪しは、そのまま自分の良し悪しにつながるのです。相手を破壊することは自分自身を、もしくは自分の中の何かを破壊することであり、相手を取り戻すことはそのまま自分自身を取り戻すことにつながるのです。
 この状況を理解することが、DV関係において、また、その当事者たちを理解する上で必要不可欠なのです。この視点を有していないと、「加害者」の言動は支離滅裂なものと「被害者」には映ったり、「被害者」は自分勝手だと「加害者」から評されたりして、さらに関係が縺れていくのです。

(文責:寺戸順司)