<テーマ182>DV関係(1)

<テーマ182>DV関係(1)

(182―1)はじめに
(182―2)基本的観点
(182―3)行き詰まりの打破~感情コントロールという迷信
(182―4)行き詰まりの打破~行為上の問題という誤った認識
(182―5)「融合関係」と「認識」


(182-1)はじめに
 H氏とI氏の事例を綴ってきました。両者はどちらもDV「加害者」としてカウンセリングに訪れたのでしたが、まるで違うタイプの二人であることが理解できることと思います。
 同じことは双方の「被害者」にも言えることです。「被害者」たちはカウンセリングの場面で登場してきませんでしたが、H氏の妻が過去の被暴力を忘れてしまう「経験に開かれていないタイプの被害者」だとすれば、I氏の妻は「力を回復したいと望むタイプの被害者」と言えるかもしれません。
 「加害者」も「被害者」も、そこにはさまざまなタイプの人が含まれているわけであり、その組み合わせは無数であるために、双方が形成する関係も種々のものが存在しているわけです。
 最初に上記のことを述べるのには理由があります。もし、この文章から明快な解答を期待している方がおられるとすれば、申し訳ないことですが、必ず失望されることと思います。それはDV関係という事柄が、「DV関係とはこういう関係だ」と一言で要約できない種類のものであるからです。むしろ、こういうパターンもあり、ああいうパターンもあるという形でしか論じることができない類の問題なのです。
 従って、中には、これは自分たちに当てはまるけど、これは当てはまらないなという体験をされる方も出てくることと思います。どれか一つが当てはまらないからといって、それがDV関係ではないとも言えないということも強調しておきます。また、逆に、一つだけ当てはまるものがあったとして、他がすべて該当しないから自分たちはそれとは違うと考えてしまうかもしれませんが、その一つを足掛かりにしてもう一度自分たちの関係を振り返ってみられることをお勧めしたく思います。

(182―2)基本的観点
 私のDVに関する基本的観点を再度述べておきましょう。
 この観点はとても単純なものです。それは「DV関係の形成されているところにDVが生じる」というものです。
 これにはさらに、「人間関係は双方の人格が基礎となる」という観点が続くのです。
 そして、「人格とはその人のこれまでの生において身につけてきたもの、その人の歴史である」という観点で締め括られます。
 従って、双方のこれまでの人生上のあらゆることがその関係に持ち込まれることになり、お互いの何がそこで持ち込まれているかによって、そこで築かれる関係の種類も変わってくるということになります。
 このことから分かるように、関係というものは、特に人間関係というものは、非常に複雑なものです。人間関係が複雑であるということは、後に重要になる概念でありますので、少し記憶に留めて欲しく思います。

(182―3)行き詰まりの打破~感情コントロールという迷信
 「DV関係が形成されているところにDVという行為が生じる」という視点を取り入れることによって、DV当事者たちが巻き込まれている袋小路のような状況から身動きが取れるようになっていくと、私は考えております。
 多くのDV当事者たちは、それを行為上の問題として、あるいは感情のコントロールの問題として捉えてしまいがちなのです。これは問題の一部しか取り上げていないものであり、もし、この観点に固着してしまうと、ある行為をするかどうか、特定の感情を発散するか抑制するかという二者択一的な状況に当事者が追いやられるだけになります。これは当事者をひどく拘束してしまう状況であります。
 まず、感情のコントロールということを考えてみましょう。DV「加害者」は初めはそれを目標にされることが多いのですが、考えてもみてほしいのです。大部分の「加害者」は他の場面では感情のコントロールを上手くされているのです。
 「加害者」の多くは、その他の場面においては、適応が良かったり、望ましい関係を他者と築くことができていたりするのです。「被害者」に対してだけそのような現象が生じるのです。従って、これは「被害者」とその他の人との違いが「加害者」の中ではあるわけであり、築いている関係の違いがこの差異を生み出すのだと考える方が理に適っているように思われるのです。
 従って、感情のコントロールという目標は、それも一部では大切なことかもしれませんが、幾分的が外れているように私には思われるのです。

(182―4)行き詰まりの打破~行為上の問題という誤った認識
 一方、DVを単に行為上の問題として捉えてしまうことについて、当事者たちがそこに拘泥し続ける限り、同じように事態は進展しないのです。
行為上の問題であるとみなすことは、常にその行為だけが取り上げられてしまうことになります。行為だけが取り上げられるとは、その行為を相手がしたかどうか、自分がその行為をしたかしなかったかと、その部分しか注意されなくなるのです。その行為が生じる場面とか、プロセスといった他の諸側面はここでは見落とされてしまうのです。
 「加害者」はしばしば、自分がその行為をしなければいいのだと安易に考えてしまいます。そして、二度としないと決断するのですが、これは大抵は失敗します。その行為の奥にある「経験」に触れていないからです。私たちは、通常、何かを経験し、その上でその経験に即した行為をなすものです。
また、「被害者」側にも同様のことが言えるのです。「追い込まれる加害者」の項で提示した例においては、「被害者」である妻が相手の行為だけを捉えて、「DV騒ぎ」が繰り返されていました。彼女は夫の行為しか見ていなくて、自分がこの関係にどういうものを持ち込み、どういう役割を担っているかなどについては考えることができませんでした。
一方、次のような事例も私は体験しています。
 クライアントはDV「加害者」とされる男性で、自分の行為をひどく後悔していました。彼は自分の問題にどう対処していいか分かりませんでした。私はDVはDV関係であることを彼に説明し、一緒にその関係を見直していきましょうと提案したのでした。
 ところが、彼は「すごく腑に落ちました」と顔を輝かせます。「関係が悪かったのですね」と言って、それで彼は大丈夫だからと言って、一回のカウンセリングで去っていきました。私の説明が歪められてしまったようでしたが、私は彼に申し訳なく思います。彼は一層悪くなって帰られたからです。
 私の説明は彼の自責感情を幾分緩和しました。「加害者」を援助する場合、自責感情を緩和するという過程は必要な作業なのですが、この例ではそれを非常に良くない形でされたのです。彼は自責感情から解放されたけれど、それは合理化によるものであり、なお悪いことに私という一専門家の後ろ盾に支えられているものなのです。
 どの人も自責感情から解放されると力が回復するものです。彼の場合、この力は幻想なのですが、この幻想的な力は再び「被害者」の上に行使されることでしょう。
 このような経験があるので、私は「人間関係は双方がそこに持ち込んでいるものが深く関係している」という観点を特に強調しておきたいのです。

(182―5)「融合関係」と「認識」
 さて、関係を分類することは可能でありますし、人格をタイプ分けすることも可能であります。「こういうタイプとこういうタイプの人格の人たちは、このタイプの関係を築きやすい」というように述べることも可能です。
 そうして、「何々タイプの関係」とか「A人格―B人格結合タイプ」などと分類していってもいいのですが、私はそれはあまり意味がないと考えています。
 分類は常に整理には役立つものですが、現象の理解にはそれほど資さないものだと思います。従って、今後、特定のタイプや分類を取り上げることはないでしょうし、むしろ様々なタイプやパターンを取り上げることになると思います。そのために統一感がないとか、散漫ではっきりしないと印象をもたれるかもしれません。
 ただ、DV関係を考察していくにあたって、二つの軸を立てて論を進めていこうとは考えています。一つは「融合関係」という軸であり、他方は「認識」という軸です。
 両者は、一応、個別に論じられることになりますが、それらは相互に関係し合っているものであり、この軸に沿ってさまざまな現象を取り上げることになります。
 各々は、今後、詳しく論じられていくことになりますが、ここでは簡単に概要程度のものを述べておこうと思います。
「融合関係」というのは、これはDV関係の基礎にある部分だと私は考えるのですが、自己と相手がどこか未分化な関係であるということです。自分と相手との境界が不鮮明であり、相手が自分の一部とか延長であるように体験されていたり、ある意味では一心同体といったような関係に陥っているということを指しています。
 この関係は、親密な関係を通り越して、濃密な関係と言えるかもしれません。お互いに親密になるためには、両者が個別化されていなくてはならないのです。別々の人格、二人の人間であることが、親密になることの条件なのです。「融合関係」においては、もはや二つではないということになるので、決して親密にはならない関係なのです。
 この「融合的関係」の上に、双方それぞれのパーソナリティが持ち込まれるので、この関係はさまざまな様相を帯びることになります。すべてを論じることはできないと思いますが、現時点において私が考えているところのものを順次述べていくことにします。
 もう一方の「認識」ということですが、これは私たちが物事を見たり、世界を感じ取ったりすることであり、その個人の見方、感じ方のことであります。
知覚は「認識」の第一歩ですが、私たちは知覚の上にさまざまな思考や判断を加え、私たちにとっての現実を構築しています。ここで言う認識というのは、その人にとっての現実、その人から見える現実という意味合いを含んでいます。
 さらに、世界や相手、相手との関係をどのように認識しているかによって、関係の中で生じる事柄はさまざまに意味づけられることになります。客観的な現実というものがあると仮定すれば、私たちの認識が客観的な現実から離れていけばいくほど、私たちの認識は歪んでいるということになります。
認識が歪むということは、その場面・状況・関係において、事実とか客観性の要素が弱くなり、幻想や思い込み、錯覚などの要素(ある意味では非現実の要素)が強くなってしまうということを意味します。
 こうして、自分や相手の行動、言動が歪んで意味づけられるということが生じます。大雑把に言えば、相手や相互のイメージが歪んでくるということであります。現実の相手とはかけ離れた相手イメージを相手に投げかけ、当人はそれと気づかないままそのイメージと関わっていると思われる現象がよく見られるのです。もちろん、これは「加害者」であれ「被害者」であれ、双方に生じる可能性のあるものであります。
 また、相手イメージだけが歪むだけでなく、自己イメージもそれに影響されます。自己イメージが歪むから相手イメージも歪むのか、あるいはその逆であるのか、正しいことは私には分かりませんが、相手イメージと自己イメージの双方が歪んでいるということは、それは妄想的な色彩を濃く帯びた関係になっており、論理性よりも非論理性が優位になっている関係であることが窺われるのです。
 そして、認識が歪むということは、相手とのコミュニケーションにも大きく影響します。コミュニケーションの歪みということはDVの問題では特に重要なことであります。例えば、H氏は妻の手紙、それも妻の現状を綴っただけの手紙を受け取って、それを「洗脳された妻の言葉」として読みました。文面に表されているものとは全く違ったものをH氏は読んでいるのです。
 また、「追いこまれる加害者」の事例における妻は、夫のあらゆる行為を「攻撃」とか「暴力」として受け取っていました。この認識に基づいて、妻は「DV騒ぎ」を展開していたわけなのです。同じように、I氏の妻は自分はDVの「被害者」だと主張していましたが、裁判ではI氏の行為はDVとは見做されませんでした。I氏の言動、I氏が発するメッセージをこの妻は正しく受け取ることができず、歪めて体験していたことが窺われるのです。

 さて、どこまでのことを私が論じることができるかは定かではありません。まとまった内容のものになるかどうかも、私には確信が持てません。また、これは最終稿とはならないだろうとも私は感じています。新たにクライアントと会うと、新たなことを学び、考え、私の考察に追加ないし変更がもたらされることになるでしょう。平成26年現在の私が考えているものであるということをお断りしておきます。

(文責:寺戸順司)