<テーマ175>「加害者」の反省(2)

<テーマ175>「加害者」の「反省」(2)

(175―1)前項の振り返り
(175―2)「償い」としての反省
(175―3)「懺悔」としての反省
(175―4)「テクニック」としての反省
(175―5)愛を知ること
(175―6)いくつかの補足
(175―7)再びH氏の事例に戻って


(175―1)前項の振り返り
 DV「加害者」が「被害者」に対して行っている「反省」についての考察を続けることにします。まず、前項のおさらいをしておこうと思います。
 私の考えでは、まず反省にはいくつかの種類があるという前提から始め、その種類はその反省に「被害者」のことがどれだけ含まれているかによって分けることができるということでした。
 最初に取り上げた反省は「後悔に近い反省」ということでした。ここでは「被害者」のことがまるで取り上げられていないし、そのために伝わらないということを述べました。
 続いて「罪責感情・自責感情に近い反省」ということを述べました。これは「後悔」と比較すると、「被害者」の存在が少し入り込んでいるという点で「後悔」よりかは進んだ反省ではありますが、これもまた不十分であり、時には「被害者」を別の意味で苦しめるということも述べてきました。
 私たちは次の段階の「反省」に移って行こうと思うのですが、ここでは相手のことがもっと含まれていることになります。私はそれを「償いに近い反省」と理解しています。

(175―2)「償い」としての反省
 DV「加害者」はしばしば「被害者」に対して何らかの償いをしていこうとされます。例えば、育児をもっと手伝うようにするとか、こういう場面ではこういうふうにやっていくといったことを誓約されるのです。それはそれでいいと思います。関係が回復したらそれをされたらいいとは思います。
 ただ、注意しておきたいことは、「加害者」側が出している償いはしばしば取引の様相を呈しているということです。「被害者」が先に許してくれたら、今後これこれのことをしようと言っているわけなのです。従って、正確に述べれば、これは償いではないということになるのです。
 また、ここで「加害者」が間違ってしまうことは、「被害者」が先に許してくれるという条件を押し付けてしまっていることです。先にそっちが許してくれたら、今後、こういう償いをしていこうと、そういう順序になっているのですが、これは本当の「償い」とは真逆の順序なのです。
 先に償いがあって、それから赦されるというのが、私の思うところでは、正しい順序であるように思われるのです。「加害者」はこれを逆の順序でしようとされているわけです。
 当然ながら、「被害者」側がその条件を受諾するのは難しいのです。「加害者」が本当にその償いをしてくれるのかが信用できないし、その保証が何もない状況でその受諾を求められているからです。
 こうした状況は「被害者」を追い詰めていることになっていることも多々あることなのですが、「加害者」にはそれが見えないのです。時には「被害者」にとって有利で公平な条件を提出していると信じきっているような「加害者」とお会いすることもありますが、やはり、その条件の提出が「被害者」を困窮させているかもしれないという可能性は考慮されていないのです。
「被害者」のことが含まれているとは言え、そのような可能性に関しては「被害者」抜きで考えられているという点で、この反省もまだ十分ではないと、私は考えています。

(175―3)懺悔としての反省
 反省の中に「被害者」のこと、「被害者」の立場とか視点がより多く含まれてくると、私の考えでは、その反省は「懺悔に近い反省」になっていくと思います。
 今まで、後悔、自責、償いと述べてきました。「被害者」がどれだけ含まれているかによって違いがあるという立場で述べてきました。「加害者」側の視点でこの差異を説明するならば、それは、どれくらい「加害者」の「利己主義」が少ないかということになると思います。
 後悔、自責、償いも、すべて「加害者」が自分の利益のためにそうしていると言えるものなのです。すべてにおいて「利己主義」が見られるのです。この「利己主義」とは、とにかく自分が許されればいい、自分が幸福になったらいいという観念であり、そのために相手は利用されていたり、相手の感情や人格は度外視されていたりするのです。
 もし、そのような「利己主義」がまったく含まれない反省があるとすれば、それは懺悔に近づいていくということなのです。そこでは、自分のためだけではなく、相手のために反省されており、相手の立場や視点に立っての反省がなされるようになっていくでしょう。自責も他罰もなく、交換条件も出されることなくなるでしょう。純粋に反省を目的にした、反省のための反省になっていくことでしょう。

(175―4)テクニックとしての反省
 ここから先は、具体的なことは述べないようにします。また、そうした反省を指導してほしいと頼まれても私は引き受けません。
 もし、具体的に「こういうものが懺悔に近い反省ですよ」と私が実例などを挙げれば、きっと、その通りにすればいいのだと安易に考えてしまう方が出てくるだろうと思います。その人は「反省」を「テクニック」に貶めようとされているのであり、それは関係をさらに悪化させることになるでしょう。
 テクニックや技術というのは、常に「上手くやったか、否か」にしか関わらないものであり、個人の内面や成長・成熟には関与しないと私は考えています。従って、「加害者」の変容や成長によって違った種類の反省が導かれなければならないのですが、そうした変容を抜きにして技術的に上手くいく「反省」を拵えることも可能なのです。しかし、それをすることは「加害者」にとっても弊害になると私は考えております。技術は変容をもたらさないからです。
 私はこのように考えています。「被害者」にとって、本当に受け入れることのできる「加害者」の反省とは、そこに自分に対しての配慮や共感、自分の視点で述べられた反省の言葉で綴られた反省であると。通常、「加害者」の反省はそれらを欠いているのです。すべて「加害者」の視点、立場のみで綴られており、相手への配慮や共感性を欠いているのです。
 例えば、私があなたを殴ったとします。私はあなたに対して詫びることもできます。「あなたを殴るんじゃなかった」と後悔することもできますし、「殴ったりするなんて、僕はなんてひどい人間なんだ」と自責感情を高ぶらせることもできます。でも、恐らく、あなたは私を許す気にはなれないでしょうし、謝ってもらえている感じさえしないかもしれません。
 もし、私があなたのその時の体験に思いを馳せることができれば、私は「私に殴られて、あなたはどれほどの痛みを経験してしまっただろう。私はあなたにどれほど怖い思いをさせてしまっただろう。あなたの痛みや恐怖がどれほどのものだったろう」という観点で反省をしていくことができるでしょう。ここでは自責も他罰もないし、自己弁明も後悔も見られないのです。ただ、あなたがそこでどういうことを体験してしまったかについて、そのあなたの体験に焦点が当てられていることになります。こうなってくると、この反省は懺悔に近づくということなのです。

(175―5)愛を知ること
 もしDV「加害者」の反省がそこまで深まっていったとすれば、その人はもう「加害者」ではないと、私は太鼓判を押します。暴力の問題を抱えている人であっても同じです。そういう反省に至ったなら、その人はもう暴力の問題から抜け出ることができたと私は宣言します。ただ、そこに至るまでが難しいのです。
 後悔に近い反省が自分自身の事柄ですべてが占められているのとは対照的に、懺悔に近い反省に至ると相手の事柄が大部分を占めるようになっていきます。相手が経験してしまったことについて、その痛みや苦悩、恐れについても「加害者」は見ることができていなければならないのです。
 しかし、懺悔に近い反省とは言え、これは「加害者」を苦しめるために行ってはならないということも押さえておかなければなりません。相手が受けた苦しみや痛みに思いを馳せることができ、他ならぬこの私が、理由はどうであれ、相手にそのような体験を与えてしまったということを知り、同時に、そういう自分でもこれまで通り生きていくことが許され、他者から支えてもらえていることを知り、受け入れられているということも体験していかなければならないのです。
 そうなっていくと、周囲や他者はその人にとってはかけがえのない存在として、彼の前に立ちはだかってくるのです。彼は今まで以上に他者を大切にするようになるでしょうし、他者とともにある自分をも大切にしていこうと動き始めるでしょう。言い換えれば、懺悔を通して人は愛を知るということなのです。これはいくつかの宗教において強調されている視点であり、決して私の独断ではないと信じております。

(175―6)いくつかの補足
 さて、「懺悔に近い反省」について述べていますが、いくつかのことを補足しておこうと思います。
まず、「罪責感情」に近い反省と「懺悔」に近い反省との差異がよく分からないという人もあろうかと思います。
先ほど、それは相手のことがどれだけ入ってくるかの違いとして説明しましたが、それだけではありません。
 罪責感は常に自分のある行為に対してなされるものです。行為のレベルでなされると言ってもいいかもしれません。抽象的な表現になりますが、懺悔は自分と相手と双方の存在に関わるものであり、実存の基盤でなされると言うことができるように思います。
 「懺悔」に至ると、自分の行為、あるいは相手の行為という視点はほとんど意味を持たないのです。行為を通して、自分の在り方、相手の体験など、双方のより深い部分の事柄に触れていくのです。
 また、DV「加害者」が本当にそこまで反省できるのかという疑問も生じるかと思います。
正直に申し上げれば、そこまで反省が行き着く人はほとんどいません。DV「加害者」に限らず、私たちの大部分がそういう反省をできないのです。宗教の力が弱くなったとか、そういう反省を私たちが学んでこなかったとか、背景になることがらはいくつも挙げることができるでしょう。でも、一番肝心な点は、私たちが「自己中心的な視点」から抜け出ることがいかに難しいかということにかかっていると思います。
相手のことで本当に反省しようと思うのなら、私たちは自分の枠から外に出なければならないと思います。完全に相手の立場に立って考えるということは不可能だと思いますが、相手の枠に少しでも自分を近づけることは、努力次第では、可能だと私は考えています。
 これを「相手を理解すること」と表現してしまうと誤解が生じるのです。なぜならDV「加害者」は「被害者」のことをよく理解しているのです。彼らなりの理解であるかもしれませんが、時には驚くほど相手のことをよく理解している例もあるのです。だから相手を理解しましょうと提案したところで、自分はすでに相手のことをよく理解していると信じている人には訴えるものがないのです。
 また、そこまで反省が深まる以前に、関係が解消されてしまうことも多いのです。DVは常に離婚の可能性が付き纏うのです。DVと離婚については別の機会に述べたいと思いますが、多くの場合、離婚によって双方がその関係性の外に出ようとするのです。

(175―7)再びH氏の事例に戻って
 事例のH氏についても触れておこうと思います。このような「反省」について考察していきますと、H氏がいかに「反省」の困難な状態であったかが分かるのです。
 まず、暴力についての反省がなされる場合、暴力と自分との間に距離がなければなりません。つまり、その暴力が過去に属していなければならないのです。でも、H氏においては、それは過去に属しておらず、暴力とか相手をやっつけることを現在も進行中でした。
 H氏を援助する際に必要なことは、彼が現在も進行中の彼の「暴力」の問題から抜け出ることだったと私は今でも考えています。
 また、真に反省に至るには自分の行為が見えていなければならないのです。でも、H氏は自分の暴力を本当には見ることができていないのでした。自分を見ているようで、相手のことしか見えていないのでした。そして、相手から見たその行為、つまり相手の視点に立ってみるということが、少なくとも「被害者」である妻との関係においては、それができていないのでした。
 それらが可能になるためには、H氏は彼の個人史的な問題を解消しなければならなかったと思います。彼が物事を十分に処理することの難しかった子供時代に目撃した数々の暴力について、彼は現在の彼の自我で処理し直さなければならなかったと思います。

(文責:寺戸順司)