<テーマ174>「加害者」の反省(1)

<テーマ174>DV「加害者」の「反省」(1)

(174―1)「反省」について
(174―2)「反省」の第一の前提
(174―3)後悔としての反省
(174-4)罪責感情としての反省
(174―5)自責感情のもう一つの側面
(174―6)反省の期間


(174―1)「反省」について
 H氏の事例を述べてきましたが、「反省」ということに関しては後回しにしていました。本項でそれについて述べることにします。予め申し上げておきたいことが一つあります。それは私の考える「反省」ということであり、お読みになられている方々は意見を異にされるかもしれません。
 なお、もしここで私が「反省」とはこういうものだということを、あまり明確に提示してしまうと、そのようにすればいいのかと安易に信じ、あくまでテクニックとして「反省」を用いてしまう人も現れるかもしれないと危惧しています。そのため、幾分、曖昧な表現をすることをお許し願いたく思います。

(174―2)「反省」の第一の前提
 さて、私たちは「反省」ということを、人生のいろんな場面でします。それはDVの問題に限ったことではありません。
 私たちが何かを「反省」するときには、それが過去のものになっているということが条件です。現在進行中の出来事に関しては、私たちはいかなる反省もできないものです。目の前に起きていることに対処しながら、同時にそれに対しての反省ができるはずがないからです。
 それが終わって、それが過去のことに位置づけられて、初めて私たちはそれに関しての反省が可能になるわけなのです。つまり、「反省」ということの第一の前提はそれが過去の事柄になっているということなのです。
 H氏も自分なりに反省しているとおっしゃっていました。それは決して嘘ではありません。ただ、彼にとって、また他の「加害者」にとってもそうなのですが、それが相手との関係においてまだ継続中であるために、どうしても彼らの「反省」はどこか、何かが足りないものになってしまうのです。

(174―3)後悔としての反省
 H氏を始め、DV「加害者」はよく「反省」をします。反省はした方がいいとは思います。DVや暴力の問題ではそれは特に必要な作業だと私は考えていますし、それ以外の「問題」を抱える人であれ、「健康」な人であれ、「反省」をするということは自分自身を変えていくことに資するだろうと私は考えています。
 では、H氏はどのような反省をされていたのでしょう。H氏の反省の言葉をいくつか拾ってみます。「私は間違ったことをしてしまった」「悪いことをしたと思う」「もう二度としない」「自分がどんなひどい人間であるかがわかった」等々。概ねこうした内容の反省を延々繰り返しておられます。こうした傾向は他の「加害者」でも大同小異であります。
 彼らの「反省」がそのようになるのは、必ずしも、彼らが悪いわけではないのです。私たちが、学校なんかで反省文を書いたりする時は、そのような反省をするのです。それが反省だと学んでしまっているのです。そして、そのような反省が通用してしまっているために、私たちはその反省が正しいものだと信じ、そのことについて敢えて考えてみようとはしなくなっているだけなのかもしれません。
 反省には、実はいろんな種類の反省があると私は考えています。H氏たちのされている反省も、確かに反省には違いありませんが、それはどちらかと言えば「後悔」に近い反省なのです。もう少し踏み込んで言えば、H氏や他の「加害者」は反省の代わりに後悔をしているということになります。
 後悔というものは、そこには常にそれに関与した他者が不在なのです。「自分があれをすべきでなかった」「自分があそこでこうすべきだった」といった観念が後悔であるとすれば、そこには自分しか存在していないわけなのです。他者、迷惑を受けた相手はそこに含まれていないのです。
 例えば、あなたにはこういう経験がないでしょうか。目の前で延々と後悔し続けている人を相手にしなければならないという場面を経験したことはないでしょうか。その時、あなたは「君は悪くないよ」とか「早く忘れろよ」といった類の言葉を相手に投げかけたりしなかったでしょうか。なぜ、その時、あなたは「君はもっと別種の反省をした方がいい」とは言わず、上記のような言葉を与えてしまうのでしょう。
 私はこう考えています。あなたは相手の後悔にいい加減うんざりしていたのだと。だから手っ取り早く終わらせようと試みているのです。なぜ早急にその事態を終わらせる必要があるのかと言えば、相手の後悔があなたには何も響いてこないからです。その後悔の内容があなたに関する事柄であったとしても、あなたには何一つとして感じられるものがないだろうと思います。自分には何も響いてこず、感じるところもなく、ひたすら相手のことばかり延々と聞かされるということは苦痛ではないでしょうか。
 後悔は常にこういう形態を有するものです。他者不在でなされるのが後悔の常なのです。「私がすべきだった」「私がすべきでなかった」と、そこは「私」「私」「私」の連続なのです。
 このように考えると、なぜDV「加害者」の反省が「被害者」に聞き入れられないか、受け入れられないかということが理解できそうに思われます。「被害者」からすれば、自分のことを取り上げてもらえているようにはまったく感じられないという体験をされているのだと思います。

(174―4)罪責感情としての反省
 H氏が妻に対してしている反省は「後悔」に近いものだと言っているわけですが、このことで私がH氏に非があると述べているとは捉えていただきたくないのです。
H氏の反省は、それが後悔に近いものである限り、妻には受け入れられないものとなっています。反省が受け入れられないということがH氏の感情をさらに掻き立ててしまうので、関係は好転していきません。その事態を避けるためには、その反省を通して、両者の交流がよりスムーズになっていくことが望ましいと私は考えるのです。そのためにその反省は形を変えていかなければならないと思うのです。「被害者」に伝わる反省をしていく必要があるのです。
 さて、後悔よりも一歩進んだ反省が「罪責感」に近い反省だと捉えています。「相手に対して悪いことをした」とか「相手にひどいことをしてしまった」とか、そういう罪責感情は多少なりとも相手の存在が入ってきていることをも示します。
 なぜ、この種の反省が後悔よりも進んでいるのかと言いますと、「あれをしたのは不可抗力だった」という認識が放棄されているからです。H氏は「自分はあんなことをすべきではなかった」という後悔はできているのですが、「でも、ああしなければならなかったのだ。相手がそれをさせているのだ」という認識から出ることはありませんでした。罪責感はこの認識から出ている分、進んでいると考えられるのです。
 この罪責感情は、後悔よりも進んでいるとは言え、そこはやはり相手不在の傾向を強く残しているように私には思われるのです。自分の犯した罪だけがそこでは取り上げられているというところから、私にはそう思われるのです。
 私が考える「反省」に近づくためには、罪責感に近い反省をさらに推し進めなければなりません。後悔も罪責感も主体は常に自分にあるので、相手にはなかなか伝わらず、不十分なのです。
 また、「加害者」が罪責感情を発展させていくと、この罪責感に耐えられなく感じ、相手との関係を切ろうとする傾向も強まるのです。こういう時期に離婚の話が持ち上がることも多いのです。
 たとえ「被害者」との関係に好転の兆しが現れても、この罪責感は「被害者」と共にいる限り、「加害者」は繰り返し体験することになるのです。それに耐えられないということは、すなわち、相手と共にいる状況が耐えられないということでもあるわけなのです。そうして相手との関係を切る方がより安全であるように感じられるのだと思います。
 従って、関係を回復しようと思うなら、この「罪責感情に近い反省」はさらに形を変えていかなければならないということになります。罪責感情を持ち続けることは正しいことではないように私には思われるのです。

(174―5)自責感情のもう一つの側面
 しかし、この罪責感情に関してはもう一つの側面を見なければなりません。それは「加害者」が自責感情を相手に押し付けることによって、却って「被害者」が圧力を感じてしまうという側面です。
「加害者」が自責感情を訴え続けると、それを聞かされる「被害者」は圧力を感じたり、自分の方が悪いことをしているというような感覚に陥ったりして、本心では許していないけれど、「加害者」を許してしまうこともあります。これは「被害者」が苦痛を感じ、根負けしたから許しているのであって、本当に「加害者」を許しているのではないのです。
「被害者」から、「加害者」の反省状況を伺うと、「被害者」はよく分からないけれど相手を許さないといけないという気持ちになったと述べることがあります。その時は許したけれど、後々たいへんな不快感に襲われてきたり、激しい怒りを感じたりしたという例も私は耳にしたことがあります。このような例は、すべてではないにしても、「加害者」からなんらかの圧力や圧迫感を受け取ってしまい、そこから逃れるための一時しのぎとして「被害者」が赦しを与えていることが多いように私には思われるのです。
 それで自分は相手から許してもらえたと信じるのですが、「加害者」は繰り返し「被害者」の反対に直面してしまい、当惑するのです。「加害者」側からすれば、「許すと言っておいて、その態度はなんだ!」ということになるのでしょうが、「加害者」は本当には許してもらえていないのです。

(174―6)反省の期間
 ここで少し話が逸れますが、「反省」の期間と強度についても一言述べておきたいと思います。
 これまで述べてきたことから、「反省」はその内容とか種類ということが重要なのだということが何となくでも分かっていただけるのではないかと思います。
 しかしながら、「加害者」の中には期間や強度で「反省」を測る方もおられます。一年間も反省しているのにまだ許してもらえていないとか、これだけ真剣に反省しているのに伝わらないと言って嘆かれるのです。
 その場合、「加害者」は気づいておられないのです。その「反省」は、三年続けようと十年続けようと、「加害者」が同じ種類の反省をしている限り「被害者」には伝わらないのです。反省の期間は、「加害者」にとっては重要なことかもしれませんが、「被害者」も同じ期間それに付き合うことになっているということには目が届いていないことが多いように思います。
 また、これだけの長期にわたって反省してきたのだから、「被害者」は当然許してくれるだろうと「加害者」が期待してしまう場合もありますが、決してそうではないのです。それは、長時間反省すれば、それだけで自動的に許してもらえると信じているわけであり、いささか子供っぽい考え方であるように私には思われるのです。
 これがDVではなく、犯罪事件だとしたらどうでしょう。犯人は刑に服します。刑期を終えると、一応社会的には許されたことになります。しかし、被害を蒙った側は、犯人が刑に服したというだけで犯人を許すことはできないのです。自分は刑に服したのに被害者はいまでも自分を許してくれないと犯人は嘆くかもしれませんが、それは当然のことなのです。法的に許されても、被害者個人には許されていないという事例はいくらでもあると私は思います。
 DV「加害者」のことに話を戻しますが、先述のように、「加害者」の中にはこれだけの期間にわたって反省してきたのだから、「被害者」が許してくれるのが当然だと信じていたり、あるいは、自動的に許してもらえると期待したりしてしまう人もあります。この期待や信念は、私の見解では、一つの「甘え」なのです。「加害者」は「被害者」にそのような形で甘えているのです。厳しい見解のように聞こえるかもしれませんが、私はそのように考えております。
 他者に対する「甘え」にもいろいろな種類があると思いますが、その一つに、相手が自分の期待通りのことを当然してくれるはずだと期待することがあると私は考えています。
 私は「加害者」の立場の人に時々申し上げるのですが、相手が自動的に許してくれるなんて期待しない方がいいのです。許してもらおうと思うのなら、相手に対して実に多くのことをしていかなければならないのです。そして、それが相手に伝わる形になっていくまで、繰り返し続けなければならないのです。同じことを長期間繰り返しても、伝わらないものはやはり伝わらないだろうと私は考えています。

 以上、「加害者」の「反省」について述べてきましたが、長文となりましたのでここで項を改めることにします。

(文責:寺戸順司)