<テーマ170>H氏の事例(2)

<テーマ170>H氏の事例(2)

(170―1)H氏の抵抗感が強まる
(170―2)二回目のカウンセリングの実現
(170―3)「洗脳」の意味
(170―4)「暴力」の正当化と「暴力関係」に留まること


(170―1)H氏の抵抗感が強まる
 H氏との初回面接を終えました。私の所見では、H氏は非常に危うい立場に立たされており、カウンセリングを継続していくためには、彼の立場をさらに悪いものにしてはいけないということが最重要な課題でした。
 立場の悪化を防ぐためには、彼の言い分や主張を時には抑えてもらわなければならず、相手側の言い分に従う必要もあります。私もまた相手の弁護士の監督下で彼のカウンセリングを引き受けているようなもので、私にとっても分が悪いカウンセリングなのです。不利な状況下でやっていくという点に関しては、私もH氏も同じでした。
 彼の抱えている問題がいくつかあるということも前項で指摘しました。DVの問題だけではなく、暴力の問題もあるということは述べました。あと、彼の衝動性とDV関係、並びに「闘争」関係もまた問題だと感じていました。
 彼もまたカウンセリングの継続を求めていると、口ではそうおっしゃいました。私は一緒にやっていくことを約束し、次の面接へとつなげます。
 彼は非常に忙しい人で、仕事の関係でよく方々へ出張されたりもしました。そこで、カウンセリングは彼が確実に来ることができる日を選ぼうということになりました。彼は次の休日にカウンセリングの予約を入れたのでした。
 ところが、彼はその2回目のカウンセリングをキャンセルしたのです。なんでも急な仕事が入ったそうで、休日出勤を頼まれたそうでした。まあ、仕事をしている人であればそういうことが生じることもあるでしょう。しかし、私はH氏に見込がないと感じ始めていました。
 家族が崩壊しそうな状況において、妻と子供を手放すことになりそうな状況で、休日出勤を引き受け、将来のためのカウンセリングをキャンセルしているH氏に、私は失望を隠せませんでした。彼になんとかして自分の置かれている立場を示すことができていればといささか後悔もしました。
 DVの問題は離婚に直結することが多いのです。そして、離婚とは人生上の大きな危機となるものです。私は離婚の経験もないし、結婚の経験すらない人間ですが、離婚という問題が軽く考えられているように思い、危惧しています。
 離婚はただ相手と別れるだけでなく、双方に人生上の大転換を迫るものです。そこで生き方が大きく変わってしまうわけです。さらに、双方が負債を抱えなければならない出来事なのです。離婚はしたものの、こうした変化に対応できない当事者たちがどれほどいることでしょう。安易に考えてはいけないことであり、真剣に取り組まなければならないことだと私は思うのです。
 自分の問題のために、これからの生のために、休日に頼まれた仕事を断れないようでは、先が思いやられるのです。一体、報告書にそれをどう書けばいいのだろうか、仕事が急遽入ったためにキャンセルになったと、ありのまま書いたとしたら、相手の受ける印象はどのようなものになるだろうか。こうしたことをH氏は考えただろうか、私は疑問に思うのです。
 いや、彼がカウンセリングよりも仕事の方を選んだのは、私の失敗にも起因していることは認めなくてはなりません。初回面接で、彼は自分の意に反することを多く経験したと思います。
 例えば、暴力のきっかけは妻が作ったという一文を報告書に挙げてくれという彼の要求を私は断りました。断った理由は前項に述べた通り、それが彼の立場をより悪くすると考えたからでした。
 こうした意に反する事柄は、H氏をしてカウンセリングへの抵抗感を強めてしまったと思います。もっと直接的に言えば、H氏は妻と抗争しようとしているのです。それを望んでいるのです。私はそれをしてはいけないと禁じているわけなのです。この対立が私たちの間に生じていたのです。

(170―2)二回目のカウンセリングの実現
 初回からおよそ一月後、ようやくH氏の二回目のカウンセリングが実現しました。
 状況はあまり変わっていませんでしたが、彼と妻との間では雲行きがいっそう怪しくなっていました。
 彼の妻は、子供を連れて、DV被害者のシェルターに駆け込んでいます。そこでは同じようなDV「被害者」たちとの共同生活があり、また回復のためのプログラムが組まれたりしているそうです。
 H氏に言わせると、妻はそこで洗脳されているということでした。ちなみに、その考えはH氏自身になんら寄与するところのものはないのですが、彼はそれを頑なに主張します。
 私との間でそれを主張するのは構わないのです。しかし、「暴力のきっかけは相手が作った」という主張と同じように、「妻がそこで洗脳されてしまっている」などと主張しようものなら、たちどころに彼の立場を悪くするでしょう。彼が一層「危険人物」視されてしまうことになるだけです。
 H氏が自分のためにしなければならないことは、彼が「危険人物」視されなくなるように取り組むことだと私は考えていました。私はH氏にそのことを伝えます。彼は頭ではそのことは理解できているようでした。しかし、自分の言動の何がそれにどう影響しそうであるかというところまでは考えが及んでいないのでした。
 彼が「危険人物」視されなくなるためには、口を慎まなければならないことは慎み、取り組むべきところには取り組む必要があり、それを相手側に示さなければならないのでした。どうも、彼には分かってもらえなかったようで残念に思うのです。

(170―3)「洗脳」の意味
 さて、ここでH氏の言う「洗脳」ということについて述べようと思います。
 DV「加害者」はしばしばその言葉を使います。時には「被害者」側の人間から聴くこともあります。どちらも言い分は相手の周囲の人や援助者によって、相手が「洗脳」されてしまっているということです。
 一部の人にしか見られないことかもしれませんが、どうして彼らにはそれが「洗脳」のように映ってしまうのでしょうか。また、どういう現象を彼らは「洗脳」と見做しているのでしょうか。その辺りを考察したいと思います。
まず、「洗脳」という言葉はあまりいい響きのものではないと思われるので、H氏をはじめ、この言葉を使う人はこれをかなり否定的な意味で捉えていることが窺われます。H氏にとって良くないことが妻に起きているということです。
 さらに、「洗脳」とは個人の思考や価値観を意図的に変化させることを意味するので、「相手が洗脳されている」と彼らが言う時には、相手の中にある種の変化を認めていることが理解できます。
 その変化が彼らにとっては非常に不都合なものであったり、受け入れがたいものであったりしているわけです。後は個々のケースを見なくてはなりませんが、多くの場合、相手が攻撃者に転じたと感じられたときに、相手が「洗脳」されていると見做しているように思われます。
 従って、妻は味方をたくさんつけ、完全に武装し、攻撃してくるようにH氏には見えていたのだと思います。そして、妻をそんなふうにしたのが「洗脳」によるものだと考えているように思われます。
 しかし、お気づきのように、この思考にはH氏自身が不在なのです。H氏自身がその状況にどのように関係しており、どのような影響を与えてきたかということは考慮されていないのです。
 いずれにしても、相手が「洗脳」されていると当事者が言う時、それは相手が攻撃者に転じたかのように見えている可能性が高いということです。それはとりもなおさず、当事者がDV関係の中に、暴力の世界にまだまだ浸ってしまっていることを示すのです。そこから抜け出すことがまだできていないのです。

(170―4)「暴力」の正当化と「暴力関係」に留まること
 H氏の言う「暴力のきっかけは妻が作っている」とか、「妻は施設に入って洗脳されている」という言葉は、H氏の何を表現しているでしょうか。
 確かに、H氏の観点からすれば、上記の言葉は事実のように体験されているのです。私はそれを否定しようとは思わないのです。取り上げたいのは、彼がそれを言うことによって、彼が何をしようとしているかということなのです。
 例えば「暴力のきっかけは妻が作っている」という表現は、その問題は妻がもたらしたものであり、自分の暴力は不可抗力だったということを意味していることが理解できます。その暴力は避けられないことであって、「私がそれをしたのではない」という主張を含んでいるわけなのです。
 これは不思議なやり方のようにも見えます。暴力を正当化することによって暴力を否認しているわけです。彼は一方ではそれが暴力であることを認めています。つまり、自分のしたことは暴力であって暴力ではないという主張をされているようなものなのです。
 しかしながら、H氏にとって不幸なことは、妻に対する暴力の履歴がしっかり残ってしまっているということです。いくら彼がそれは不可抗力だったと主張しても、その事実を消去することができないのです。
 こういう時に、彼は自分が弁護されていないという感じを抱いてしまうのだと思います。自分だけが不当に責められているというような体験もしていたかもしれません。その痛々しい思いは私にも伝わってくるように体験しましたが、暴力の履歴、怪我を負わせた事実がある以上、そこに目を向けなければならないと私は考えていました。
 彼は、理由やきっかけはどうであれ、相手に手を上げたこと、相手に怪我までさせてしまったということを見なければならないのです。彼がそこを見ない限り、事態は進展していきそうもありませんでした。
 彼は自分の暴力行為を本当には認めていないのです。きっかけを作ったのは妻だと言って、妻の方ばかりを見ているのです。繰り返しますが、私は彼の言い分を否定しているのではありません。ただ、彼が自分の暴力に目を向けないがために、この暴力関係が今も続いてしまっているということなのです。
「そのきっかけは相手がつくった」と主張することは、H氏の中でその闘争が今でも継続していることを意味しています。心の中で妻に対して手を上げ続けているのです。それが終わったものとして見ることができないでいるのです。過去になっていないのです。
 心の中において、ある出来事が過去のこととして措定されて初めて、私たちはそれに対して反省したり、悔い改めたりできるのです。現在進行中の事柄に関しては、いかなる反省も不可能なのです。それが現在でも引き続いている限り、H氏の主張や関心事は、どちらに責任があるか、どちらが悪いかに従事してしまうことでしょう。つまり、闘争を続けるしかなくなるのです。
 同様に、妻が施設に入って洗脳されていると考えてしまっていることも、彼がまだ闘争の関係に留まり続けていることを示しています。
 ここでもH氏は自分自身ではなく、その他の事柄に目を向けています。もし仮に、H氏が正しかったとしましょう。そういう施設には「被害者」の立場の人がたくさん集まっており、そこでは「加害者」が徹底的に悪者視されているとしましょう。仮にそういうことがあったとしても、H氏はそれに関与しなくてもいい事柄なのです。そこに関与する限り、H氏は自分の問題を他の事柄にすり替え続けることになるでしょう。
 つまり、妻が施設で洗脳されているかどうかは彼にとっては問題ではないのです。妻がそういう施設に駆け込むことになった最初の要因こそ彼にとって問題とすべき点ではないでしょうか。
 H氏は過去にも暴力の経験があります。妻に対するもの以外でも多くのエピソードを有していました。暴力に対するH氏の見解を見てみましょう。
 H氏は本当はケンカとか、暴力とかはしたくないのだと言います。ただ、向こうから攻撃された時には、自分を守るためには戦わなければならないのだと言います。筋が通っているように見える言い分ですが、その戦いは常に暴力でなければならないのでしょうか。彼はその辺りを考えてみたことはなさそうでした。
 そこに暴力の正当化が行われているからで、この正当化は同時に自分の暴力の否認につながっているからです。否認している限り、彼がそこに問題意識を抱えることはなかっただろうと思います。

(文責:寺戸順司)