<テーマ168>DV「被害者」とのカウンセリング(2)

<テーマ168>DV「被害者」とのカウンセリング(2)

(168―1)DV「被害者」は自分自身に開かれていない
(168―2)二例目のケース~「被害者」は何になろうとしているのか
(168―3)「被害者」の感じている責任
(168―4)「被害者」もまた「加害者」を必要としている

 本項も、かつての、<テーマ8>の改訂版です。以前の<テーマ8>の後半部分にて展開していた内容を取り上げています。

(168―1)DV「被害者」は自分自身に開かれていない
 前項、<テーマ167>にて一人の女性クライアントのケースを提示しました。彼女のような例は決して珍しいものではないのです。DV「被害者」が援助を求める際に、自分が苦しいのでどうにかしたいというようには訴えられないのです。
 その代りに、「相手とどう接したらいいか」とか「相手をどう変えたらいいのか」といった訴えをされるのです。本当は彼女自身が苦しい生を送っているはずなのに、その訴えには彼女自身が現れないのです。だから、それらの訴えは、本来的なものの偽装であると言ってもよく、何かを隠すような類の訴えであると私は考えています。
 前項の女性も、相手との付き合い方を変えればそれだけで上手くいくのだと、安易に、かつ頑なにそれを信じているようでした。そして、自分が相手との関係において、どのような体験をしているのかについてはほとんど語られることがありませんでした。
 彼女のようなDV「被害者」は、自分の内面や感情に開かれていないという印象を私は受けるのです。
 さて、彼女のケースを続けましょう。
 私は彼女に、彼との付き合い方が変わると、何が変わるように思われるのかを尋ねてみました。彼女の答えは「彼が『いい人』になってくれる」というものでした。
続いて、私は「彼がいい人になると、あなたにどういうことをしてくれるの?」と尋ねてみました。
彼女の答えは「優しくなる」ということでした。「私に優しくしてくれる」というように答えなかった点は注目すべき部分です。彼女の話には常に彼女自身が欠けているのです。そのことは次に続くやり取りからも窺われるのです。
私は「誰に優しくなるの?」と尋ねます。
彼女は「いろんな人に優しくなる」と答えたのです。決して、彼女自身を出さないのです。
 なぜ、彼女が自分自身を出さないのかということに関しては、十分に理解できませんでした。一回の面接ではそこまで取り上げきれなかったのです。私の察するところでは、彼女は常にバリヤーを張り巡らす必要があるからだろうということです。常に自分の身を守っていなければならなかったためかもしれません。
 その後、私は思い切って言ってみたのです。「彼との付き合い方を変えたとしても、彼が『いい人』になるとは限りませんよ。仮に『いい人』になったとしても、何年もかかってしまうかもしれませんよ」と伝えました。彼女は「それでも構わないです」と答えました。
 こういうことを伝えるのは残酷かもしれないと心のどこかで感じながら、敢えて伝えたのでしたが、それは彼女にもう少し問題の本質的な部分に触れて欲しかったからです。私は、「その時が来るまで、痛みに耐えるおつもりですか」と尋ねました。
「痛み」や「耐える」という言葉に幾分反応したようでしたが、彼女は平然と「そうします」と答えたのでした。
 彼女は大事な部分には目を向けていないのです。大事な部分というのは、彼がどういう人間であるかということではなく、彼女が彼との関係で痛みを体験し、その痛みにもはや耐えることができないということなのです。すこし誘い水をかけてみたのでしたが、彼女はあくまでも自身の痛みについては語ろうとしませんでした。
 そもそも、彼が「いい人」になったとしても、それで彼女が愛されるようになるとは限らないのですが、彼女はそういう可能性に対しては、まったく盲目でした。恐らく、自分が助かるのであれば、別に彼から愛されなくても構わないと思われていたのかもしれません。
 でも、彼女は「彼も苦しんでいるのかな」と語ります。彼とのことでしばらく話し合いが続いた後でした。確かに「加害者」には「加害者」の抱えている苦しみがあります。しかし、彼女はそこに目を向けなくてもいいのです。カウンセリングでは、彼女は彼女自身が体験している苦しみに向き合えばいいのです。ところが、彼女は「彼が苦しい」ということで、自分の苦しみに目を向けるのです。こういう投影同一視をする辺りに、彼女の特徴的な部分があるように思われました。

(168―2)二例目のケース~「被害者」は何になろうとしているのか
 上記のクライアントに限らず、「加害者」を変えようとする「被害者」は少なからずおられるのです。ここで、もう一人の「被害者」クライアントに登場していただくことにします。
 この女性クライアントは、来談に際して、「夫をまっとうな人間にするために知恵を貸してほしい」という訴えを携えてきました。
 夫はまっとうではないということですねと私は応じ、どんなまっとうではないことをあなたにするのですかと尋ねてみました。
 彼女の話すことは、要は暴力、暴言の類でした。彼女は夫から繰り返しそれを受けているのだと話します。
 ところで、この女性は、仕事に関してはとても有能な人でした。普通ではなかなか就けない職種に就いておられたのでした。仕事に関してはそれだけ有能な彼女でしたが、男性との関係においては、いつもそういう暴力的な男性と交際してしまうのでした。
 彼女はエリートなので、それなりに給料もいただいていたそうでした。でも、生活はかなり低レベルのものであるそうです。というのは、夫が妻の給料を当てにして、何ら仕事をせず、毎日ブラブラしているということだそうです。賭け事に妻の金を費やし、また、他に数人の女性と交際しているというような男性でした。彼女自身は、お金を稼いでも、自分のために使える分はほとんどなかったようです。
「どうしてあなたが彼をまっとうな人間にしてあげなければならないのでしょうか」と私は尋ねます。彼女は「私がしんどいからです」という答えをされました。自分のしんどさに気づいており、言語化できる分、一例目の女性よりは成熟度が高いようです。
 私は、「じゃあ、彼をどうこうする前に、あなた自身のしんどさがなんとかする必要があるのではないでしょうか」と振ってみました、でも、彼女は「いえ、彼がまっとうな人間になることが先決なのです」と答えられたのです。
 夫をまっとうな人間にするということが、彼女にとっては切羽詰った至上命令のように体験されていたのでしょう。これに関しては、彼女に畳み掛けてくる勢いがありました。つまり、それ以外の領域には決して踏み込ませないというような勢いがあったのです。
 夫との関係で起きたことを、私は彼女から聴いていきました。それは壮絶なもので、容赦なく浴びせる暴言と、手加減のない暴力の連続でした。それでも彼女は夫と別れるのではなく、夫を「改善」する方を望んでいるのです。
 彼女は夫の「治療者」になろうとしています。そして夫の「母親」役も担おうとされています。すでに彼女は夫の「殴られ」役であり、「責任を負う」役であり、「夫の悪や不運を担う」役をしてきています。一体、彼女自身は何者だろうと、そんな不思議な思いを経験したのを私は覚えています。

(168―3)「被害者」の感じている責任
 個人的に「被害者」に取り組んでほしいと思うのはその部分なのです。
 彼女たちのような「被害者」は「加害者」の「改善・矯正」をしようとしているのです。それのためにのみ専門家は協力してほしいと望んでいるわけなのです。
 本当に必要なのは、彼女たち自身の「改善・回復」である、自分自身を取り戻すことではないかと思うのです。彼女たちはその方向へはなかなか動き出しません。それに抵抗している何かが彼女たちにあるからだと思うのです。
 時に、「被害者」の中には、「相手がこうなったのは自分に責任がある」と信じている場合もあります。「こうなったのはお前のせいだ」とか「お前が俺を怒らせるからだ」というようなことを繰り返し「加害者」から浴びせられているせいでもありましょう。
 私から見ると、そうした「被害者」の信念はまったく根拠のないことです。「加害者」の言いがかりであったり、「被害者」のある種の思い込みのようなものに過ぎないと考えています。
「被害者」に原因があるとか、「加害者」が悪い、だから「治せ」という発想から、私たちは抜け出る必要があるように感じています。
 本項で取り上げている二人の「被害者」クライアントたちは、はっきりと明言されたわけではないのですが、相手との関係において責任を感じていた可能性もあります。自分が相手をそんなふうにさせてしまったのだから、責任を取って、相手を変えなければならないということになってしまっているのかもしれません。もちろん、彼女たちにも負うべき責任はあると私は考えています。ただ、それはもっと他の所にあるものなのです。
 従って、彼女たちは本来自分が負うべき責任から目を背け、他の領域において自分の責任を果たそうとされているかのようにも考えられるのです。彼女たちもしなければならないことがあるのです。でも、彼女たちの訴えている事柄の中にそれはないのです。

(168―4)「被害者」もまた「加害者」を必要としている
 さて、先ほどの事例を続けましょう。
「夫をまっとうな人間にしたい」と訴えた彼女は、結局、怒って、お帰りになられました。案の定、一回限りの面接となってしまいました。
 私が、「そこまで夫にしなければいけないことでしょうか」と尋ねたことが決定打となりました。
 彼女は呆れたように私を見て、「わたしが夫を愛しているということがあなたには分からないのですか」と言い放ったのです。
 彼女はひどく気分を害されたようでしたが、その一言で、今度は私が仰天する番でした。彼女の言う「愛」って、一体、どういうことなんだろうと思うのです。
 一回きりで終わってしまいましたが、「彼とどう付き合ったらいいだろうと」訴えたクライアントも、「夫をまっとうな人間にしたい」と訴えたクライアントも、少なくともその訴えの中に彼女たちの本当に望んでいることが含まれているとすれば、それは「相手をおとなしくさせたい」ということではないだろうかと思うのです。そして、「相手を自分の望むとおりの人間にしてほしい」もしくは「それを手伝ってほしい」と私に訴えられているのです。
 さて、この女性の訴えている事柄ですが、これは誰が見ても答えが明確に示されているのです。夫をまっとうな人間にしたいのであれば、夫に資金援助しなければいいということです。そして夫に少しでも職に就くように働きかければいいということになります。
 ところが、彼女は「それはしたくありません」と主張します。「ほう、それはどうしてだろう」と私が尋ねると、彼女は「したくないことはしたくありません」とだけお答えになられました。そこに彼女にとって重要な何かがあることが窺われるのですが、打ち明けようとはされませんでした。
 彼女が自分自身のことを話されないので、ここからは私の憶測になります。彼女は夫に「貢いで」います。これが失われるということは、彼女自身、仕事の甲斐とか生きがいを失ってしまうのかもしれません。つまり、底辺の人と関わることで、自分の有能感が得られ、上を目指すことができるということです。
もし、そうであるとすれば、彼女自身、極めて低い自尊心しか持ち合わせていないということになるのではないでしょうか。それなると彼女の取り組むべき人生上の課題は、自分自身のプライドを形成し、彼女自身のために生き直すということにならないでしょうか。
 彼女は夫のような男性を必要としていると言ってもいいのです。夫がそういう人だから、彼女はこれまで生きてこれたのです。だから、ここには矛盾があるわけです。彼女が自分を維持していくためには、夫が「まっとうにならない」方が都合がいいはずなのです。でも、彼女は夫を「まっとうにしたい」と望んでいるわけです。
 この矛盾が生じているのは、彼女自身がこれまでの生き方、関係などについて疑問を抱き始めているからだと思うのです。かつて親和性を有していたそれらが自我異質的に体験されるようになってきたのかもしれません。だから、彼女にとって自分を変えていく絶好の機会でもあったのです。夫のような男性を必要としない彼女になっていくことができたかもしれないのです。しかし、彼女は自分を変えるという方へは目を向けようとされなかったのでした。非常に残念なケースとして、数年経った今でも私の中に留まり続けているのです。

(文責:寺戸順司)