<テーマ167>DV「被害者」とのカウンセリング(1)

<テーマ167>DV「被害者」とのカウンセリング(1)

(167―1)「被害者」とのカウンセリングでの私の反省点
(167―2)クライアント側の要因
(167―3)「方法」と「病名」を求める女性のケース


 本項は<テーマ8>の改訂版です。内容は以前の<テーマ8>に沿っていますが、いくつかの箇所において、追加、削除をし、大幅に書き直しています。なお、本項で「当時」と表記されている部分は、私が<テーマ8>を書いた時期を指しています。

(167―1)「被害者」とのカウンセリングでの私の反省点
 当時、私のカウンセリングを受けに来られたDV「被害者」のうち、その6割が継続しなかったり、十分な改善が見られる以前にカウンセリングから離れていかれたということを、私は<テーマ7>において記述しました。
 DVに限らず、上手くいかなかったケースに関しては、私自身にも拙かった点があったということを、私は正直に認めるのでありますが、一方、クライアント側にもその要因がなかっただろうかとも考えてみることにしています。両方の観点から考察することが大切だと私は考えているのです。
 私自身の要因として、DV問題で特に大きかったことが、私自身が暴力から目を背けてしまう場面があるという点にあったと思います。目の前の「被害者」がいかにボコボコにやられたかということを話しています。私はその人が殴られている姿を思い描いて、いつの間にか心を閉ざしている自分に気づいてしまうのです。
 夫から殴られてきたというクライアントの話を聴いていて、私自身に痛みが走るような経験をしてしまうのです。現実に顔に痣をつくって来談された女性もおられました。それを見るのはなんとも痛ましい限りでした。
 私が暴力を回避してしまうがために、クライアントは拒絶されてしまったかのような体験をしてしまったかもしれないと、そう反省するのです。理解してもらえたとクライアントは体験できず、また、私が回避しているがために見当違いの介入をしてしまっている場面も、振り返ると見られるのです。
 暴力の話は、聴いていて苦しくなるのです。私も痛みを感じてしまうのです。もちろん、最初から目を背けるというようなことはしないつもりでいるのですが、できるだけ耐え、忍耐の限界が来ると、どうしてもそこを避けてしまっている自分に気づくのです。
 こうして、私とクライアントとの間にはズレが生じ、こういうズレの生じているカウンセリングは長く続かないし、上手くいかないものなのです。私はそれを私自身の反省点と改善点として取り組むことにしています。

(167―2)クライアント側の要因
 私は私で上記の点を反省し、克服することを目指していますが、一方、クライアント側にある要因にも目を向ける必要があるようにも私は考えています。
 本項では、以下において、クライアント側のそうした要因に焦点を当て、後に二つのDV「被害者」事例を提示する予定でおります。
 先述のように、上手くいかなかったケースでは、常にクライアントと私との間でズレが生じてしまっているということは言えるのです。でも、まったくズレが生じないカウンセリングというのも考えられないことであります。問題なのは、クライアントにとって肝心な部分で私がズレてしまっているために好ましくない結果を導いてしまっているということなのです。
 このズレは、私が暴力から目を背けてしまっているために生じたという可能性が確かにあります。クライアントは自分の受けた暴力を話し、私はそれを耐えられなくなり目を背けてしまっている、こうしたズレは確かにあるのです。
 一方、こういうズレもあります。クライアントが着眼し、焦点を当てている部分と、私が着眼し、焦点を当てようとしている部分との間のズレも認められるものです。これに関する事例を後に提示しようと思います。

「被害者」クライアントは、しばしば、「彼とどう付き合ったらいいか教えてほしい」とか「彼をまっとうな人間にするためにはどうすればいいでしょうか」といった訴えを持って訪れます。当人にとって、それがカウンセリングの主訴であり、受けることになった動機ということになります。
 これらの主訴、動機は、必ずしも当人が本当に求めているものではないと私は仮定しています。と言うのは、それを教えたところで「被害者」は満足なさらないことが多いからなのです。「被害者」の内面が混乱しているために、そうした主訴になってしまうのでしょう。
 また、余談になりますが、DVに限らず、人間関係に関して、こうして方法を求めてしまう人がけっこうおられるのです。親切な専門家は「こうしたらいい」というような方法を伝授します。しかし、それは人間関係を貧弱にするだけの結果になると私は考えています。つまり、そこでは相手との関係で、「自分がうまくできたかどうか」だけが重要になってくる可能性が高く、相手との関係で有意義な何かを体験する機会を奪ってしまうものだと私は考えているのです。
 さて、「被害者」はカウンセリングを受けにきて、そうした方法を求めているということが言えるわけなのですが、それを与えても当人は満足なさらないし、それだけで終わってしまう面接になるでしょう。
 ちなみに、私がそのような質問を受けた時、いつも答えることが「私には分かりません」ということです。そう答える以外に答えようがないからなのです。
 それよりも肝心な点は、「どう付き合ったらいいか教えてほしい」という質問が出てくるということ自体、既に相手との関係において何か良くないことが生じているということの証拠ではないかと思うのです。それならば、どういう種類の良くないことが起きているのか、相手との関係においてどのようなことを体験してきたのか、さらにその関係がどうなっていくことが望ましいと考えているのか、そうした点に焦点を当てていく方が有益だと私は考えているのです。
 一方の、「彼をまっとうな人間にするには」という質問は、さらに答えることが困難な質問です。その「彼」はこの場にいない人です。この場にいない人、私もお会いしたことのない人に対して、その人を変える方法を教えてほしいと頼んでいるわけですから、この要望自体に無理があるものなのです。
 そもそも、彼をまっとうな人間にすると言っても、それは誰にとってまっとうであると映る必要があるのかということを、まずは取り上げなければならなくなるでしょう。
 上記のような私の考え方は、「被害者」の訴えること、少なくともその瞬間に望んでいることとの間にズレを生み出していることになるのです。
 ところで、「被害者」は真剣にそうした問いをなされるのです。答えを伝授するよりも、「被害者」がどうしてそのような方法を求めたくなっているのか、その気持ちの方に私の関心が向いてしまうのです。クライアントは、逆に、そこを隠そうとされることが多いように思います。ここにもまた一つのズレが生じてしまっているのを私は感じてしまうのです。
「被害者」がそのような方法を求めているという背景には、ある意味で手っ取り早く終わらせたい、変えたいという気持ちがあるのではないかと、そう感じることがあるのです。つまり、「被害者」は相手との関係の枠外に身を置きたくなっているのかもしれないということなのです。従って、ある意味で限界に達しているのではないかとも思うのです。ただ、「被害者」はそういうことを認めはしないし、そのような認識をされていないことも多いようです。

(167―3)「方法」と「病名」を求める女性のケース
 さて、ここから事例に入りたいと思います。
 ある女性が「暴言を吐く彼とどんなふうにして付き合ったらいいのか分からない」という訴えを携えて来談されました。
 彼女は、同じ訴えを携えて、これまでに何軒もの相談機関を回ったそうでした。でも、どこからも思うような答えが得られなかったと述懐します。
 結果を言いますと、案の定と言うべきでしょうか、彼女はやはり私とのカウンセリングにおいても望むような解答が得られなかったということで、一回きりで私からも離れていきました。
 相談機関やカウンセラー、精神科医などを転々としているという人は、私の印象では、かなり状態が悪いと言えるのですが、彼女もまたそうである可能性が高かったように思われるのです。それについては追々理解されるでしょう。
 ところで、彼女が求めている答えというのは、彼が「病気」であるかどうかということでした。彼は彼女に暴力や暴言を振るうのです。彼がそういうことを自分に対してするのは、彼が病気だからだという説明を誰かにしてほしかったのだろうと私は思います。もし、そうでなければ、彼女は自分の体験している事柄を意味づけることができないからです。つまり、なぜ自分が暴力や暴言を振るわれなければならないのかの説明がつかないということになり、その状況は彼女に耐えられないほどの不安をもたらしてしまっているのです。
 私に対しても、彼の「診断」を彼女は求めてきました。それを手に入れるまで、絶対にあきらめないという態度が彼女には見られました。
 しかしながら、実際にお会いしていないのに、その人を「病気」であるとか「診断」はできないものです。まともな臨床家、相談機関なら、そういうことは決してしないだろうと私は考えています。専門家はそれに答えることができず、彼女もまた望んでいるものが得られずに苦悩していたことでしょう。
 もう一つ付け加えれば、彼女は自分の求めている解答と、まさに同じものを与えてくれる臨床家を探していたのだと言ってもいいでしょう。もし、求めている解答と違っていれば、そういう解答が得られるまで延々と専門家めぐりをし続けることになるでしょう。

 さて、面接では、とにかく彼女の訴えに添うように私は務めました。
 そこで、「彼とはどのように付き合ってこられたのですか」ということを尋ねます。
 彼女は、それに対して、彼がどういう人間であるかを話し始めます。彼がいつ、どんな状況で、どういうことを言ったとか、無視したとか、手を上げたとか、そうした話が続くのです。
 私の問いかけは、彼との関係を尋ねたものでした。彼女は彼の行為しか話せないのです。私の問いが十分に理解できなかったのかもしれませんし、彼女が無意識的にそこを避けてしまっているのかもしれません。
 ただ、彼女が彼のことに話を集中すればするほど、彼女は自分がどんな体験をしてきたかを見る余裕を失い、彼女自身が不在の話に従事することになるのでした。
 彼女が自分自身を語る様にすること、それを目指して、またそれを手伝うつもりで関わっていたのでしたが、私はやはりここでも失敗しているということを認めないわけにはいかないでしょう。
 これは別に彼女のせいにしているわけではないのですが、私の見立てでは、彼女は自分自身に目を向けることが困難であり、それは彼女自身の精神的な成熟の度合いとか、現状の大きすぎる苦悩などとも無関係ではないと考えていました。
 それでも、彼女の話によれば、私の説明は他のカウンセラーの説明よりも「腑に落ちた」そうでした。それはそれで結構なことなのですが、私としては「それで良かったのだろうか」という後味の悪さを残したのでした。何か彼女にとって本当に大事なことが取り上げられていないという気がしてなりませんでした。
 そこで、面接の最後に、「あなた自身のことについても、今後、話し合っていきたいと思うのです」と誘いかけたのです。
 彼女は、「それもいいことだと思います。だけど、今しばらくは自分で何とかやっていきたい」と、そうお答えになられたのです。ここには矛盾が含まれているのですが、当人は気づいていなかっただろうと思います。

 彼女は、あくまでも「暴言を吐く彼との付き合い方」という、その方法を求めていたのです。そのために彼がどういう「病気」であるのかを特定しなければならなかったようでした。彼女はそれを求めていました。
 また、彼女はそうした姿勢を頑として譲りませんでした。そういう頑固さみたいなものが、彼女から感じられていました。それ以外の事柄に関しては、触れられると嫌な感情を体験してしまうのかもしれません。彼女は自分自身のことに話が触れないようにと、頑ななほど、その「方法」と「病名」という側面にこだわり続けていたのでした。この頑固さ、頑なさは、「執着的」「粘着的」な色彩を帯びているように私には思われるのですが、それは別項にて論じることにしたいと思います。

 長文となりましたので、本項はここで一区切りつけようと思います。次項において、上記の女性クライアントに関しての補足と、もう一人の女性クライアントのケースを提示し、考察することにします。

(文責:寺戸順司)