<テーマ166>DVと「DV関係」

<テーマ166>DVと「DV関係」

(166―1)DVに関する二つの疑問
(166―2)度外視される「関係」
(166―3)関係についての素描
(166―4)「DV関係」とは~その三つの特徴
(166―5)DVという構造の外へ


(166―1)DVに関する二つの疑問
 DVとは、主に夫婦間やカップル間で生じる行為を指す言葉です。不幸なことに、私たちはこの言葉に馴染みになっています。一昔前なら「夫から暴力を振るわれて」と言って恥ずかしそうに来談されていた既婚女性も、今では「夫のDVで」と言って堂々と訪れるほどです。この言葉が、それだけ社会現象化し、人口に膾炙するようになったことは、ある面では幸せなことでありますが、他方ではずいぶん不幸なことだと思います。
 DVという問題意識が浸透したおかげで、当事者たちは速やかに「問題解決」へと方向づけられることになったのは利点だと思います。一方、あらゆる事柄がDVとして認識されてしまうという弊害も生じているようです。
 私はもう一度DVということを考え直してみる必要があるのではないかと、そう思うのです。DVとはそれほど明確で、分かり切ったことなのでしょうか。

 ところで、私は今二つの疑問を抱えています。
 一つ目の疑問は、このDVとして総称される行為は何かの結果なのでしょうか、それとも進展中のプロセスにおける一つの随伴現象なのでしょうかという疑問です。
 この疑問を生んだきっかけは、やはりクライアントとの面接を通してです。彼らはしばしばDVを起きてしまったこととして、語ります。一つの終着点であるかのように訴えられるのです。しかし、それは進展中の事柄、あるいはプロセスの途上にある一時点の出来事であるかもしれないのですが、そういう視点は彼らには欠けているように思うのです。
 二つ目の疑問点は次のことです。DVを主訴とするクライアントたちとお会いして、彼らのお話を伺っていく中で、私もいろいろと気づくことや考えさせられることがあります。このクライアントたちは、「加害者」「被害者」を問わず、「関係」ということを度外視しているという印象を私は受けております。「関係」という要素抜きで、ただ相手の人格上の問題としてしまっているケースが多いように感じています。なぜ、「関係」が無視、ないしは過小評価されてしまうのかということがもう一つの疑問なのです。
 本項で取り上げるのは、後者の疑問点である「関係」に関する事柄です。しかし、この問題点は第一の疑問とも無関係ではないと私は考えていますので、第二の疑問を考察することは、そのまま第一の疑問を考察することにもつながるだろうと思います。

 後に詳しく見ていこうと思うのですが、初めに私の見解を簡潔に述べておこうと思います。それは「DV関係のあるところにDVが生じる」という単純なものです。DV関係とは、正式な名称ではなく、私が便宜上そう名付けているだけのものですが、それは後にDVへと結実してしまう関係という意味です。
そして、先にDV関係が両者間で築かれており、それがいつか、何かの契機でDVとなって表面化するのです。私はそのように考えております。従って、その逆の順序、つまりDVが生じてからDV関係が築かれるということは、あり得ないと私は考えています。

(166―2)度外視される「関係」
 DVの当事者たちは「関係」ということを度外視していると私は述べましたが、いきなりそう言われてもピンとこないかと思いますので、よく見られる例を挙げたいと思います。
 DVの問題で訪れるクライアントと接していますと、「加害者」と「被害者」との間で、ある地点から話が進展しないということがよく観察されます。
 例えば、「被害者」は「加害者」に「治療」を要望します。「被害者」にとって、それは「加害者」の人格的な問題に由来していると認識されていることが分かります。
「加害者」側の人はそれに応じます。多くの場合、それは自分の人格上の何かを変えるためではなく、「被害者」の要望を叶えることで相手を失わないでいたいという願望に基づいてなされます。つまり、「被害者」との関係を修復するという目的で、その要望に応じているというケースが多いのです。
関係を修復したいという「加害者」のこの願望は、後々修正されていくものであるとは言え、私の経験した範囲では、初めのうちは真剣にその願望を実現しようという努力を「加害者」側の人は試みるのです。
 さて、動機はどうあれ、とにかく「加害者」が「治療」を受け始めます。双方にとって、それは一つの進展であるように映ずるのです。確かに進展ではありますが、大抵の場合、そこから一向に進展することはないのです。むろん、ここで述べている進展とは、「治療」の進展という意味ではなく、「関係」においての進展ということです。
「加害者」が「治療」を受けても、「被害者」は言うのです。「以前とは変わったということが証明されるまでは加害者を信用しない」と。
 一方、「加害者」は「ああいうことは二度としない」と約束し、尚且つ、それを確信するようになります。
 しかしながら、ここから話が平行状態になるのがパターンなのです。一方は「変わったという証拠を示せ」と言い、他方は「二度としないと約束するから」と言うのです。そして、「約束しても、それをしないという証明が得られなければ信用できない」と一方が言うと、他方は「二度としないと約束しているのだから、それを見れば証拠になる(つまり、先に信用してもらわないとそれが証明できない)」ということを言うという、その状態が続くのです。
 多くのDVケースで、この状態が続くことがあるのです。この平行状態は双方にとって苦しい体験となります。この平行状態を打破する一つの方法が「離縁する」ということです。つまり、離婚へと踏み出すのです。
 ところで、この平行状態を生み出している要因は、お互いが相手の行為や人格のみを見ている点にあると私は思います。もし、この平行状態を変えていこうとするのなら、そのためには他の要因にも目を向ける必要があると私は考えています。その一つの要因が「関係」ということなのです。
 上記のDV当事者は、お互いの間でどういう関係が築かれ、この関係の間に何が生じつつあるのか、まるで見えていないのです。

(166―3)関係についての素描
 話を進める前に、「関係」ということを簡単に素描しておくことにします。
 私の考えている「人間関係」とは、二人以上の人間の「あいだ」にあるものです。両者の間で形成される空間とか雰囲気、世界といったものが「関係」だということです。
 この「あいだ」には、双方の持つものが投げ出されることによって形成されます。もちろん、片方だけが投げ出してきて、他方は何も投げ出さないという「関係」もあれば、双方が何も投げ出さないという「関係」ということも理論上は可能ですが、どちらも本当はあり得ないことだと思います。
 そして、双方がどういうものを持っていて、その「あいだ」に何を投げ出していくかによって、関係の質は変わってくるのです。そのため、関係を築く以前に、双方がどういうものを有しているかということも無関係ではないのです。
 今、仮に、私とあなたとが関係を築くとしましょう。私たちはお互いに初対面で、ある場所で会っているとします。
 あなたにはいくつもの経験や記憶があり、積み重ねてきたものがあります。同じように、それは私にもあります。仮に、あなたはA、B、Cを有しているとします。私はA、D、Fを有しているとしましょう。
 あなたがAを差し出すとすれば、私もその場にAを差し出すでしょう。すると、このAはあなたと私の関係を築く一つの要因、絆となり、私たちの関係はAの性質を帯びるということになります。
 一方、あなたはBを差し出してきます。それに対して私はDをお互いの間に差し出します。BとDがあまりに相容れないものであれば、私たちは合わないと感じるでしょう。しかし、BDで特色づけられた関係を維持するようになるかもしれません。
 BDで結合している関係であっても、関係が続いている間にお互いのAを知るかもしれません。また、あなたは私にFがあるということを知るかもしれませんし、私もあなたにはCもあるのだということを発見するかもしれません。
 こうして、関係は双方が差し出し合うものによって多彩に変化していくものなのです。
 ABCとかDEFとか、記号で述べましたが、それぞれに「愛」「嫉妬」「憎悪」「庇護」「敵意」「甘え」などの言葉、それこそどんな言葉でも当てはめてみると理解しやすくなるかと思います。
 あなたが「愛」を差し出して、私も「愛」をその場に差し出すなら、私とあなたとは「愛」でつながった関係であり、「愛」ということがこの関係を特色づけることになります。
 また、あなたが「愛」を差し出しても、私が「敵意」をその場に差し出すことも可能です。この場合、関係は破綻するかもしれませんが、あなたの「愛」と私の「敵意」とで関係が維持していくかもしれません。その場合、「愛―敵意」という様相が濃い関係となるでしょう。
 このことを理解しておくと、DVの「加害者」が常に「加害者」であるわけではないということが分かるかと思います。「加害者」は「被害者」との関係においてそのような役割を付与されているのであり、他の人との関係においては「加害者」ではないことも多いのです。それは「加害者」が相手によって差し出しているものが違うからであり、両者間で差し出されているものが異なれば、関係の在り方も、役割も相違してくるからなのです。

(166―4)「DV関係」とは~その三つの特徴
「DV関係」という言葉は、私が勝手にそう呼んでいるだけで、明確な概念として存在しているわけではありません。また、それを明確化することも困難だと思います。
 ここではその簡単な素描だけをしておきます。その後、二つの「加害者」事例、H氏とI氏の事例を考察して、再度、DV関係ということを論じたいと思います。
 さて、DV関係とは、主に三つの傾向、特徴があるように感じています。
 一つ目は、「対等性の欠如」という特徴です。お互いが決して対等にならない関係ということなのです。
 対等性が欠如している関係というのは、「愛し合う男女」の関係よりも、「上位―下位」の関係、「養育者―被養育者」「支配者―服従者」といった様相が濃い関係になるということなのです。
 また、この上下は、立場とか地位とか、経済的な意味ではなく、関係性と言いますか、精神的な領域においての差異という点を指摘しておきます。
 そして、この「上下」は、常に一定ではなく、相互に立場を逆転しながら関係が築かれているのです。それでも、やはり、決して対等にはならないのです。

 二つ目の特徴として、双方もしくは片方に「個の欠如」が見られる関係であるという点です。
「個が欠如」している関係というのは、融合しあったり、お互いの境界線が不鮮明であったり、自己並びに相手を一個の人格として見ることができないといった様相をもたらすのです。
「個」が欠如しているとは、「個」としての確立が不十分だという意味合いも含まれています。「個」の確立が不十分なために、固定した役割を必要とするのだと思うのです。従って、対等な関係というのは却って不安を増してしまうのです。

 三つ目の特徴として、「論理性の欠如」した関係ということを私は考えております。
 その関係から論理性が失われていくということは、非論理な事柄がその関係を占めるということになります。
 論理性を欠如して、非論理性が中心になってくるということは、事実よりも思い込みが中心を占め、妄想的な信念や歪みがより大きな位置を占めるようになるということです。
 これは、「個が欠如」しているために、思い込みや投影がより多くなされてしまうということとも関係があると私は考えております。
 後に事例を通して見ていく予定でおりますが、「加害者」男性は、しばしば社会的な状況ではきわめて現実的で論理性を発揮している例もあります。でも、こと「被害者」に関しては、非論理性に占められていることがあるのです。そして、非論理性が大きくなるほど、その人は現実を認識する際に、それを歪めて認識してしまうことになるのです。

(166―5)DVという構造の外へ
 DV関係と私が考えているところのものの特徴を三つ素描しました。
 この後、二つの事例を提示し、考察していき、最後に再びこれらの特徴について述べていく予定をしております。
 本項の最後に述べておきたいことは、DVが「治る」ということに関してです。
 私は「DV関係の築かれているところにDVが生じる」という考え方をしているということを先に述べました。それが「治る」ということは、当事者がそのDV関係から出るということに尽きると思います。
 ただし、この「DV関係から外に出る」というのは、外面的な事柄ではなく、内面的な
事柄を指しているということを注意しておきたいと思います。
 単に、相手との関係を切ったとしても、その人の内面がまだ「DV関係」の枠の中にある限り、やはり別の相手を通して同じことを繰り返してしまうだろうと思うのです。
 当事者の内面、心が、DV関係、もしくはDV構造から離れていくことができて、初めて、その人はDVの問題から解放されたわけなのです。この問題に関しては、特にH氏の事例において取り上げることになるでしょう。

(文責:寺戸順司)