<テーマ162>褒めること(1)

<テーマ162> 褒めるということ(1)~「褒めて伸ばす」の誤り

(162―1)「褒めて伸ばす」という迷信
(162―2)何かを変えるという経験~効力感
(162―3)先に関係有りき
(162―4)褒めるとはどういうことか
(162―5)相手を「良い」と思えるためには何が必要か
(162―6)マッチング

(162―1)「褒めて伸ばす」という迷信
 先日、ある会社の部長さんと話をしていた時のことです。彼は「褒めているのになかなか部下が伸びない」とぼやいておられました。偶然にも、その前日でしたが、あるクライアントが「誰からも褒められなかったので、私は何一つ伸びなかった」と悔やんでおられました。「褒めて伸ばす」とか、「人は褒められて伸びる」とかいう迷信について述べようと思ったのはこの二人の経験からでした。
 ちなみに、私は上の二つの表現、「褒めて伸ばす」とか「人は褒められて伸びる」という表現は、迷信のようなものだと考えています。賞賛はあくまでも一部分でしかないということも後で述べようと思います。
 ところで、ここには二つの立場があります。「褒める側」と「褒められる側」です。両者をともに考察していくことになるのですが、便宜上、別々に取り上げるつもりです。
 まず、褒められる側の立場から述べたいと思います。
 はっきり言うと、褒められて嬉しいと感じる人と同じくらい、褒められることが苦しい経験になる人もおられるのです。信じられないと思われるかもしれませんが、確かにそのような方々がおられるのです。それは、例えば、褒められると居心地が悪く感じたり、褒めてくれた相手への猜疑心を強めてしまったり、あるいは何か裏があると勘ぐったりしてしまう人たちです。あるいは、褒められることの意味が分からず、混乱してしまうという人もありますし、褒められることは、その次に続く良くないことの前兆であるかのように受け取ってしまう人もあります。クライアントとはしばしばそういう人たちなのです。
 この人たちにとっては、褒められるということは、必ずしもいい体験とはならず、それによってその人が伸びるよりかは、かえって萎縮してしまうことも珍しいことではないのです。
現実にそのような人もおられるわけだから、「褒められて人は伸びる」とか、あまり機械的に法則化して考えない方がいいと私は個人的には考えています。

(162―2)何かを変えるという体験~効力感
 私の考えているところのものを述べます。人が自分の何かを伸ばすことができるのは、褒められるということに係っているのではなく、自分と外側の関係に依るものであるということなのです。褒め言葉自体にはほとんど意味がないか、あるとしても二次的にしか意味がないと思うのです。
 自分が何か行動を起こし、それが外側の世界に影響を及ぼすと、その人は「効力感」と呼ばれる感情を体験します。人が自分の能力を伸ばしたり、あるいは能力を伸ばすことができないままで終わるのは、その能力とそれがもたらす「効力感」との関係で決まることなのです。いささか端的すぎるかもしれませんが、それが事実であるように私には思えるのです。
 外側の世界に影響を及ぼすと言うのは、何かをして、それが外側の事柄を動かしたり、変えたりしたという意味であり、褒められるということはその中の一つでしかありません。例えば、苦手な数学を克服しようと懸命に勉強した学生がいるとしましょう。彼の努力は、次のテストの点数で反映されます。いつも20点くらいしか取れないのに、今回は90点取ったとしましょう。彼は自分の外側の事柄(ここではテストの点数)を変えたわけです。彼の努力が外側の事柄を変えたということになります。努力したのにいつもと同じ20点しか取れなかったとしたら、彼は「効力感」とは正反対のものを体験するでしょう。つまり「無力感」です。
 テストで90点を獲得した彼は、先生から褒められるかもしれません。彼は引き続き数学を勉強したくなっているかもしれませんし、数学を好きになり始めているかもしれませんが、彼にそうさせているのは、先生の褒め言葉によるものではなく、自分が努力すれば何かを変えることができるということを彼が知ったからなのです。
 従って、褒められなくても伸びる例というものを挙げることもできるのです。実際には「褒められて伸びた」例よりも、こちらの方が頻繁にお目にかかるものだと思うのです。
 例えば、ゲームというものを取り上げましょう。パソコンやテレビのゲームでものすごく上手な人がいます。彼らは、私は確信しているのですが、そのゲームで褒められたという経験をしていないだろうと思います。ゲームを通して、「効力感」を体験し、それが次のプレイを喚起し、そうして繰り返し練習して上達していったのだと思います。仮に、彼が誰かから賞賛されるとしても、それは彼が達人の域まで上達したためであり、時間の順序がその逆であるはずがないと私は信じています。

(162―3)先に関係有りき
「褒めて伸ばす」という考え方のもう一つ拙い点は、その理屈が関係ということを抜きにして言われているということにあります。
「褒める―褒められる」ということは二者間で生じる事柄であり、そこには当然のことながら両者の関係という要素が含まれているはずなのです。関係という要素を抜きにして、「あいつを褒めて伸ばしてやろう」とか「褒められなかったから伸びなかったのだ」とか言っている場合もけっこうあるものだと私は思います。
 褒められることが不快な体験となってしまう人たちもいるということは先ほど述べました。それは彼らが、相手の褒め言葉にではなく、相手との関係性に反応している証拠であります。つまり、良好な関係における褒め言葉はそのまま受け取ることができるのですが、良好でない関係においては褒め言葉は違った色彩を帯びてしまうということなのです。
 ご自身の経験を振り返ってみられるとよろしいかと思うのですが、普段、それほど仲のいいという関係でもなく、それほどお互いに親密であるわけでもないというような人からいきなり褒め言葉を貰ったりすると、返って警戒してしまったといような体験をお持ちではないでしょうか。私の場合、セールスマンのセールストークでそれを経験します。
 賞賛が意味を帯びるのは、その関係次第であり、ほとんど関係を形成していない相手からの賞賛はほとんど意味を持たないものであります。そのような賞賛の言葉は、私の場合、何ら心に残らず、通り過ぎてしまうものなのです。
 単純化して述べると、相手といい関係において与えられた褒め言葉はいい意味として、悪い関係において与えられた褒め言葉は悪い意味として体験されてしまうものだと私は考えています。従って、褒めるか褒めないかを考える前に、相手とどのような関係を築いているかを考える方が、褒める側にしても褒められる側にしても、得る所が大きいだろうと私は思います。

(162―4)褒めるとはどういうことか
 さて、相手を「褒める」とは一体どういうことでしょうか。これに関して私が賛成している考え方は、相手のことで「良い」と感じたことをそのまま「良い」と相手に伝えるということです。平木典子先生も同様の考えを述べておられます。
 この定義によると、褒める側には二つのことが要請されることになると、私は考えています。
一つは相手のことを、あるいは相手の何かを「良い」と感じる心を有しているということです。
もう一つは他の目的のために褒めているのではないという裏表のなさです。まず、こちらの方から述べようと思います。
 本項冒頭の部長は明らかに後者の方で過ちを犯しているということが分かります。彼は部下を伸ばすという目的のために褒めようとしているわけです。さらに踏み込んで言えば、自分の目的のために部下の能力を伸ばそうと目論んでいるのです。この時、彼が何をしているのかと言えば、部下を支配しているということなのです。それで部下たちが伸びないのは、彼らはその支配から逃れようとしているということであり、それは彼らの健全さの表れなのです。

(162―5)相手を「良い」と思えるためには何が必要か
 前者の要請にも目を向けてみましょう。褒める側には相手の何かを「良い」と感じる心を有していなければいけないという要請です。この部長が部下のどういうことを褒めているのか詳しくは知らないのですが、何でもかんでも手当たり次第に褒めちぎっているという可能性もあります。つまり、「良い」と感じていないにも関わらず、褒めなければという義務感で褒めているということをしているかもしれません。
 他人の中に「良い」と思えるものを見出せるためには何が必要だろうか、この問いに答えることは難しいと私は感じています。大雑把な言い方ですが、そのためには高い自尊心と健全な自己愛が必要で、また、自分の神経症的な傾向がある程度解消されていることが必要だと私は考えています。
 人は自分の自尊心の範囲でしか他者の中に良いものを見出せないと私は考えています。こういうものは数値で測定できるものではないので、それを説明しようとするとどうしても抽象的にしか表現できないのですが、敢えて数字で述べてみることにします。例えば自分は「40点」と自己評価している人がいるとしましょう。この人は、「20点」の人が「30点」に上がった時には、素直に相手に賞賛を送ることができるのです。ところが、「30点」の人が次に「50点」まで伸びると、「40点」しかない人には相手を褒めることが難しくなります。「40点」の人は、相手が「40点以下」であれば、褒めたり賞賛したりできるのですが、相手が「40点以上」に上回ってしまうと、妬んだり、怒りを覚えたりしてしまうのです。案外、こういうことがよく起きているという印象を私は受けます。
 一方、「90点」の人がいるとします。この「90点」の人は、相手が「100点」に伸びたとしても、それを素直に賞賛できるのです。自分が既にある程度の高さにいるからそれができるのです。
 従って、こういう言い方もできます。「褒めて相手を伸ばそう」と考え、それを実践しようと考えている人は、まず自分自身を十分に伸ばしていなければならないということであります。自分はそういう努力をせず、相手を操作的に伸ばそうとしている人は既に誤った方向に進んでしまっているように私には思えるのです。
 また、このような観点に立つと、次のような考え方をしている人が誤っていることも理解できるのです。自分を誰よりも一番下であると思い込もうとする人がいます。それは、自分が一番下だからこそ、どんな人でも尊敬でき、賞賛できるからだということです。私の考えでは、それはまったく正反対なのです。本当に一番下の人は誰をも尊敬できず、誰に対しても賞賛を送ることはできないのです。むしろ、本当に一番下である人は、尊敬と賞賛を人一倍求めているはずであり、それを他者に与えるなんてことはまずできない相談なのです。
 自尊感情の低い人ほど、他者からの賞賛や承認、尊敬を求めているものであります。これは現実にクライアントと接しているとよく分かることなのです。そして、彼らは、当然、自分が求めているものを素直に他者に与えるということができないのです。
 相手を「良い」と思えるためには、まず自分自身が「良い」人間であると体験できているということが何よりも不可欠だと私は考えています。

(162―6)マッチング
 次にマッチングの問題についても述べたいと思います。恐らく、それがなければ「褒めて伸びる」というような現象は生じないだろうと私は考えています。
 マッチングとは、褒める側が相手の「いい」と感じる部分と、褒められる側が価値を置いている部分とが合うということです。これがズレると、褒められる側は「別にそんな所を褒められても」という体験をしてしまうでしょう。
 ここで褒める側は、相手のことをよく知るということが更に要請されます。相手がどういう所で努力をしていて、どういうことに価値を置いているかということを知っており、それに対して「良い」と感じたことを伝えれば、それはうまくマッチしたことになります。こういう賞賛は褒められた側に後々まで望ましい体験として残っていくものだと思います。
 ところで、この「相手をよく知る」ということは特に強調したいのです。「あいつにはいい所など一つもない」「褒めようと思っても褒める所がない」などとぼやいている人とお会いすることも私にはあるのですが、それはその人が相手をよく見ていなくて、知ろうとしていないことの表れであると考えています。
例えば、一枚の世界地図の上では、大阪府の高槻市は存在しないに等しい。ましてやその中の城北町になると、完全に無であります。それを見るためには、拡大に拡大を重ねなければいけません。それは顕微鏡で丹念に探す行為に等しいものです。「あいつには褒めるところがない」とぼやく人は、世界地図を広げて高槻市なんてないと述べているようなものだと思います。
 相手をしっかり見ていくと、どこかで「いいな」と思える部分が見つかるものだと、私は自分の経験からそう確信しています。それは必ずしも初対面の段階では見つからないかもしれませんが、何度もお会いしているうちにそういう感じを受けたりすることもあるのです。
 従って、相手を褒めようと思うのなら、相手とじっくり付き合うということも必要だと私は考えております。

 さて、本項はもう少し内容が残っているのですが、長文となりましたので次項に譲ることにします。

(文責:寺戸順司)