<テーマ159>良すぎる母親

<テーマ159> 良すぎる母親

(159―1)ぶつかりに行く母親
(159―2)戦闘態勢を解除できない息子
(159―3)すべてを投げさせること
(159―4)母親を失わないために子供がしていること
(159―5)何に向き合うのか
(159―6)「悪い部分」と関係し続けることになる息子


(159―1)ぶつかりに行く母親
 ある母親がカウンセリングに訪れたと思ってほしいのです。実際はカウンセリングの現場でお会いしたのではないけれど、私が知り合った一人の母親を本項では取り上げます。
 彼女の主訴はカウンセリングのことを教えてほしいというものでした。実はこうした類の主訴で訪れる母親もおられたりするのです。
 私はカウンセリングの何を知りたいと思うのか、また、どうしてその知識が必要なのかを問います。彼女の話は以下のようなものでした。
 彼女は若いときに結婚して、子供まで生まれたのですが、夫婦生活は数年しかもちませんでした。夫と離婚した彼女は女手一つでわが子を立派に育てようと決意されたのでした。それからおよそ十年が経ち、今では子供はひきこもり、非常に荒れているということなのです。
 彼女はどうして息子がそうなったのかわからないと言います。彼女はいつでも息子と真剣に向き合ってきたし、ぶつかっていったと回想します。事実そうだったでしょう。そして、問題を抱える息子のために、彼女はカウンセリングの勉強もされたそうです。カルチャースクールのようなものにも熱心に通ったそうです。何冊もの育児書や児童心理学者の著書を読んだりもしていました。
 そこまでして自分を律しながら、息子とは関わってきたはずなのに、息子は荒れる一方でした。彼女には息子のことが訳が分からなくて、お手上げ状態になっていました。
本項の主題は、この母親が息子に対してどういうことをしているかを検証することです。同時に、「向き合う」とか「ぶつかっていく」とかいうことがどういうことであるかも考えたいと思います。どうも、意味もよく分からずにこういう言葉だけが一人歩きしていまっているような感じを覚えることも私にはあるからです。

(159―2)戦闘態勢を解除できない息子
 さて、この母親の話を進めていくのですが、あまり彼女個人に触れないようにしたいので、ここからは比喩的に述べようと思います。
 彼女の息子が、言葉や行為ではなく、泣きわめいて物を投げてくるということにしてみましょう。それをする息子に対して母親は「真剣に向き合い」「ぶつかり合っていく」ということです。
 彼女の言う意味は、こういうことだったのです。息子が何か投げつけたら、わざわざ自分からそれに当たりに行って、それで「ぶつかり合い」「向き合っている」と信じていたのです。そうして彼女はいつも息子からダメージを受けていました。
 彼女は「お母さんはこれだけ苦しんでいるのに」というようなことを平気で息子に言います。つまり子供が投げつけてくる物に自分から当たりに行っておいて、怪我だらけの姿を子供に見せているようなものです。この時、息子さんは何を経験するだろうか。
 母子家庭の常で、母親は勤めに出なければなりませんでした。家事もしなくてはなりません。その合間を縫って、彼女はこまめに息子と関わろうとします。子供部屋に訪れるのです。彼女は子供といい関係を築こうとするのですが、子供は泣きわめいて物を投げつけてきます。彼女はそれに当たりに行って、そして怪我をした姿をその都度子供に示して去っていくわけです。私が思うに、息子さんにはこの母親がとても重荷に感じられていただろうということです。
 私は、正確に言うとカウンセリングの場面ではなかったので、思うところのものをそのまま彼女に伝えてみました。
「どうして時間を決めて子供に会わないのですか。次は何時に来るからねとどうして言わないのですか」と。
 彼女の返事は、仕事や家事を抱えていて、そんなふうに決めることができないということでした。こういう母親の使う常套句であります。
 つまり、この子にとって、母親はいつやって来るか分からない存在なのです。そうなると、この子は常に警戒していなければならなくなるのです。子供は戦闘態勢を解除できないでいるわけなのです。でも、彼女には息子のそういう感情とか立場が理解できないのでした。
 少しでも時間が空いたら子供を訪れると言うと、聞こえはいいのですが、子供にとってはありがたくないことかもしれません。困ったことに、彼女はそこまでする自分を素晴らしい母親だと信じているような節が見られました。たいへんな誤解なのです。

(159―3)すべてを投げさせること
 次に私が彼女に申し上げたことは、「子供が物を投げてきても、当たったらいけない」ということでした。
「避けろということですか」と彼女は質問します。私は「そうです」と答えます。多分、この私の返答は彼女の何かをひどく損ねたのでしょう。彼女は、「これはあかんわ」と言わんばかりに、プイッと私から去って行きました。
 理解できないこともありません。彼女にしてみれば、息子が投げつけてくるものはどんなものでも真正面から受け止めるということをしてきたのであり、そのことで自分が母親として正しいことをしていると信じていたでしょうから、そこに水を差されてしまったわけであります。
 私の考えでは、息子に次はいついつに来るからねとか、毎週この時間に来るからねと予告してあげる方が、子供にはよかったと思うのです。つまり、子供に戦闘準備の時間をしっかり与え、そして武装解除する時間をも与えてあげる方がいいだろうということです。
 そして、息子が投げてきても、彼女は当たってはいけないのです。その理由の一つは、そうして当たって行っても、母親の身が持たないからであります。そして、最後には傷だらけの母親の姿を子供に見せつけてしまうだけだからです。
 私が彼女に伝えようとしたことは、子供にすべてを投げさせなさいということなのです。投げるだけ投げて、もはや投げるものがなくなったという状態になった時、初めて息子と向き合えるようになるのです。「向き合う」とはそういうことであり、そこから始まるものだと私は考えています。
 子供は、いくら親が嫌いだと思っていても、必ずしも怪我を負わしてやりたいとは思っていないかもしれません。親に対して両価的であるほど、そうでしょう。そういう関係の場合、自分の投げたものが親に怪我を負わせてしまったという事実は、母親が思っている以上に子供を苦しめるものだと思います。彼女はそれをしていたのだと思います。
 本当は怪我をさせたくないのに、母親が当たってくる。そして、怪我をした姿を見せつける。この子はさらに母親を敬遠したくなり、次に来る時にはもっと激しく物を投げつけるでしょう。この投擲行為は、母親に対する攻撃ではなく、距離を取ってほしいという気持ちの表れであるかもしれません。でも、母親が当たりに来るものだから、子供としては結果的に攻撃してしまった、傷つけてしまったといった罪悪感に満ちた体験しか残らなくなるのでしょう。攻撃の意図はなかったのに、攻撃したことにされてしまうのです。息子さんは耐えられない思いだったことでしょう。
 あくまでも私の憶測でしかないことは認めます。でも、彼女が息子の体験していることに関しては、ほとんど考慮されていないというのは事実でした。彼女は自分が「良い母親」であることしか眼中になかったのかもしれません。自分にしか目が向いていなかったので、それだけ息子のことは見えなかったことでしょう。

(159―4)母親を失わないために子供がしていること
 もし、ここまでお読みになられて、私がこの母親を非難しているとか、冒涜しているとか、そんなふうに思われたとすれば、それは私の表現が拙かったためであり、ご容赦していただきたいと願います。この母親が人間的に悪いとかいう意味では決してないのです。ただ、彼女はある一つの点に於いて間違っているということだけを申し上げたいのです。
 子供の投げつけてくるものに真正面から当たりに行って、そしてこれだけの痛みを耐えているのよと、そういう自分を美化してしまうという、そうしたマゾヒズム的な態度が間違っているのです。彼女はそれでいいかもしれませんが、子供はそういう母親が苦悩の種になってしまうのです。息子は、こう言ってよければ、サディスティックに母親に対するしかなくなってしまうのです。こうしてこの関係は維持されてきたのだと私には思われるのです。
 彼女は「良い母親」になろうとしてきました。彼女はそのために知識や技術が必要だと信じていたのですが、それ以上に必要だったのは、彼女自身の態度とか構え、生き方を知ることだったと私は考えています。彼女は自分自身には目を背けて、その上で「良い母親」像を追い求めていたのだと思います。
 詳しく知れば、彼女のそうした生の態度は、これまでの彼女の人生の至る所で認めることができるでしょう。離婚の一因にもそれが関係していたかもしれません。しかし、それは私には知ることができなかったことであり、ここではそれ以上話を広げないようにしましょう。
 ところで、母親と一人息子の母子家庭においてもう一つ肝心な点があるのです。彼女は自ら当たりに行きます。負傷します。母親が破壊されてしまったら、この子には誰が残るのでしょうか。彼女はそれも考えられないでいたのです。彼女が負傷するたびに、この子は母親を失ってきたのだと思います。そうなると、これもおかしな表現に思われるでしょうが、この子が母親を失わないためには、母親に物を投げ続けなければならなくなるのです。つまり、母親がその関係しか結べないから、この子はその関係に従うしかないわけなのです。母親を失うよりも、物を投げることでこの関係を維持する方がまだましだというようにこの子には体験されていたかもしれません。

(159―5)何に向き合うのか
 こうして彼女は息子と向き合っていると信じていながら、本当には向き合っていなかったのだということが言えるわけなのです。最後まで自分の子供と付き合いきることができないでいるのです。
あくまで私の憶測ですが、彼女は子供にそれをさせるのを阻止してきたのです。その前に彼女自身が壊れてしまうことで、子供にそれをさせなかったのです。恐らく、彼女自身、すべてを投げつくした後で息子から差し出されるものを恐れていたでしょう。
 すべてを投げつくした後、息子は彼女に言うかもしれません。「お母さん、どうして僕を叱らないの」と。この一言は、おそらく、彼女をひどく揺さぶることだろうと思います。彼女は自分の何かをそこで突きつけられてしまうのです。
彼女ならそこでどうするだろうか。こんな場合にはどう言うべきかと調べて、誰か専門家の言葉で返してしまうかもしれません。彼女だったらそういう借り物の言葉で応じてしまうかもしれないと私は思うのです。母親の生きた言葉を欲している息子さんは、こうしてさらに裏切られるような体験を重ねてしまうかもしれないとも思うのです。
この子がいつかカウンセリングを受けることがあれば、こんなふうに訴えるかもしれない。「僕には母親がいませんでした」と。
 それはさておき、この子がすべてを投げつくした後で出てくるものこそ、彼女が向き合わなければならないものだったのだと私は考えています。彼女はそこに向き合うことも、そこに至ることもできませんでした。
 カウンセリングにおいても同種のことが生じるのです。クライアントはたくさんの話をします。それはいずれ尽きる時が来るのです。話題が尽きて、先生にはすべて話しましたと感じられるような瞬間が訪れるのです。その時にクライアントがどうするか。あるクライアントはどんなことでも洩らさず話し直そうとする人もいましたり、すごく苦労して次のカウンセリングで話す話題を用意して来られる人もありました。彼らは、向き合うべきものに到達しつつあるのに、向き合うことがなかなかできないでいるのです。決してその人たちを非難しているわけではありません。人はそういうことをしてしまうものなのです。ただ、向き合うべきものがどこにあるかという点を示唆しておきたいのです。

(159―6)「悪い部分」と関係し続けることになる息子
 この息子さんは、いつ来るか分からない母親のために戦闘態勢を解除できない状態だと理解しました。このことは、彼が常に心の中の「悪いもの」と関わり続けるしかないという状況に彼を追いやっていると私は考えます。
 自分の中の「悪い対象」と関わり続けることは、そのまま自分自身が「悪い存在」に感じられてくるようになるでしょう。母親は「良い母親」像を維持していますが、母親がそれをすればするほど、彼は「悪い人間」の地位に留まり続けることになるのです。彼女にはこうした観点が欠けていたように思います。繰り返しますが、この母親を非難しているわけではないのです。彼女に限らず、多くの人にとってもそこは見えない部分なのです。ましてや当事者であるだけに一層そこが見えていなかったりするのです。
 彼女に必要だったことは、もう一度息子との関係を見直すということ、それも専門家とか第三者を介して見直すことであったと思います。そして、自分自身のことにももう少し気づいていく必要があったと思います。
 あくまで私の憶測ですが、彼女が子供のことに熱心な「良い母親」になろうとしてきた背景には、彼女自身の人生上のさまざまな失意や挫折とも関係が深いように思うのです。母親自身がそこを克服していくことが、本当に大切なことだったのではないだろうかと、そう思うのです。

(文責:寺戸順司)