<テーマ26>「守り」としての時間

<テーマ26> 守りとしての時間

(26-1)枠組みは私たちを助けてくれる
(26-2)援助とは「守り」を経験する時間と場所を提供すること
(26-3)問題の場から離れて問題を理解すること
(26-4)「守り」を体験するために要する時間がある
(26-5)「守り」とはクライアントに体験されているものである
(26-6)「守り」と安全欠如感


(26―1)枠組みは私たちを助けてくれている
 これまで述べてきたことからご理解していただけるように、私のカウンセリングは一回が60分を基本としています。
 私を含め、大部分のカウンセラーは時間単位で仕事をするものです。その時間に多少の差異があるとは言え、必ず一回の時間というものが設定されているのが常であります。つまり、どのような立場、方法のカウンセリングであれ、一回の時間が必ず決まっているということです。
 この決められた時間に、私はクライアントとお会いするのです。そして、場所の項で述べることになりますが、基本的に、この時間以外、私はクライアントとはお会いしないことにするのです。基本的と申し上げたのは、多少の例外もあるからです。それはいずれお話する機会があるでしょう。
 さて、時間というものは、カウンセリングに限らず、私たちの生活を構造化するために不可欠な要素です。7時に起きて、9時に出勤して、12時に昼休みがあって、17時には退社して、18時に帰宅して、というように、時間の概念は一日を構造化するのです。
 一日が構造化されるということは、一日の枠組みを与えられているということです。こういう枠組み、構造は実に不便なものであり、束縛するような代物として体験される場合もありますが、多くの人が理解しておられないことは、こうした枠組みや構造がまったくない状態がどれほど辛いものであるかということです。
特に「うつ病」と診断された人や「ひきこもり」の人というのは、その生活が無構造、無境界である場合が多いのです。そして、その状態がすごく苦しいということを、直接的あるいは間接的に彼らは訴えられるのです。
 私もしばしば耳にするのですが、「ひきこもり」なんて安楽な生活を送っているのだから、もっと厳しくすればいいとかおっしゃる御仁がおられる。あくせく飛び回り、身を粉にして働いているような人にとっては、「ひきこもり」とは怠惰以外のなにものでもないように見えるのかもしれません。でも、必ずしも彼らの生活が安楽なものではないということは、この場を借りて述べておきたいと思います。
 例えば、プールや海水浴場で泳ぐことはきっと楽しいでしょう。でも、大海原で永遠に泳ぎ、漂い続けなければならないとすればどうでしょう。それは耐えられないことだということは、きっとそのようにおっしゃる御仁もご理解していただけるだろうと思います。プールや海水浴場には制限があり、ルールとかマナーとかいう約束事、つまり枠組みがあるのです。その枠組み、構造内において、私たちは行為を愉しむことができるわけであります。枠や構造のない状態では、楽しむどころか、同じ行為でも苦痛と不安がつきまとうことになるのです。
 彼らには構造化されていない時間の中で、永遠に漂い続けるような生活をしている場合も多いのです。「ひきこもり」の人の中には、それでも何とか構造化しようと、無益な活動にひたすら従事したりもしますが、少しでも自分の生を耐えられるものにするための、彼らなりの懸命な努力である場合もあるのです。
 私が申し上げたいことは、つまり、私たちに時間概念があり、時間が日常生活を構造化してくれるのであり、そのことは私たちの生活に制限や枠組みをもたらしており、そうした構造が私たちの生活をかなり助けてくれているということであります。

(26―2)援助とは「守り」を体験する時間と場所を提供すること
 時間で構造化されているということは、そこには常に開始と終了があるということを意味します。カウンセリングにおいても、必ず開始があり、時間が来ると必ず終了するということが、カウンセラーとクライアント双方に了解されているわけです。
 クライアントは、面倒でも、その時間にカウンセラーを訪れることが求められます。少なくとも、私のカウンセリングではクライアントにそれを求めます。
 クライアントは自分の生活空間から離れて、開始時間にカウンセリングの場に来ます。終了時間が来ると、クライアントはカウンセリングの場を去り、彼の生活空間に戻ることになります。
 こうして、カウンセリングの時間(並びに場所)が設定されているということは、クライアントにとっては、その時間が彼の日常とは区別されることになります。この時間が明確にされていればいるほど、クライアントにとってはそれが日常とは異なる特別な時間として確立されていくものです。
 そして、時間が来れば、カウンセリングを終え、クライアントは自分の生活空間に戻らなくてはなりません。面接の終盤はそのための時間であることを前項で述べましたが、その時間が必要なのはそのためなのです。クライアントにとって、そこがどれだけ辛くても、少なくとも今現在においては、クライアントの生きる世界がそこにある限り、クライアントは彼の日常に戻らなくてはならないのです。
 多くのクライアントはカウンセリングを受けに来ることになった時点ですでに日常が耐えがたいものになっています。程度の差はあれ、不安や危険、苦難に満ちた生活空間の中で生を送っておられるのです。矛盾したことを私が述べているように聞こえるかもしれませんが、カウンセリングを終えると、クライアントはそこに戻ってもらわなくてはならないのです。
 もし、苦しい状況に生きている人を援助しようとする時、私たちがしなければならないことは、その人を一時的にでも保護するということです。援助行為の多くはそうした考え方に裏打ちされているものと私は考えています。保護とは、苦しい状況にある人に、その状況から区別された時間と場所を提供するということです。
 やはり多くのクライアントがそうなのですが、一部においては自分が守られているという時間と空間を人一倍必要とするクライアントもおられます。つまり、安全が保証され、安心して居ることのできる時間と空間が必要なのです。援助する側はそれを提供しよと務めるのです。
 ここには単に時間と場所ということ以上の意味合いが込められています。それらは「守り」の性格を帯びています。それらによってもたらされる「守り」こそ人は必要とするのです。そして、それが決定的に必要だというクライアントも少なからずおられるのです。

(26―3)問題の場から離れて問題を理解するということ
 日常から区別された時間と場所を提供すること、その時間と場所はクライアントにとって「守り」の性質を帯びるということを述べてきました。不安や危険に満ちた生活空間において、怯えながら、自己を委縮させながら生きている人にとっては、こうした「守り」がどれほど必要になるかは特に強調しておきたいと思います。
 一方、不安とか危機感だけに限らず、日常生活においてむしろ混乱を経験しているというクライアントも多いものです。こういう人は「守り」をそれほど必要としないのではないかと思われるかもしれません。
 でも、その混乱が引き起こされている現場に身を置いたままでその状況を理解していくことは難しいことではないかと私は考えているのです。言い換えると、一旦、その状況から距離を置いて、少し離れたところから見直して見ない限り、そこで体験している混乱を理解することは難しいだろうということです。
 部屋の中にいる限り、それがどんな建物であるかが見えないものです。建物全体を見るためには、私たちは一旦外に出て、少し離れてその建物を眺めなければならないのです。そうすると、その建物のどこに自分の居た部屋があったかも理解できるのです。
 従って、問題に取り組むという時、また、その問題がどうして生み出されてきたかを考えたりする時、逆説的ですが、私たちはその問題の外に出ていなければならないということになるのです。問題の渦中にあっては、人はそれを乗り切ることに従事してしまい、問題に取り組むということを困難にするのです。
そして、問題に取り組む時にも、人はそこから距離を置き、その問題から守られている時間と場所が同様に不可欠なのです。

(26―4)「守り」を体験するために要する時間がある
 援助する側は被援助者にある種の「枠組み」を提供します。それはどのような分野の援助でも同じです。この枠組みには保護の側面があるということをここでは述べています。
 しかしながら、援助者がそのような「守り」を提供できたとしても、クライアント自身にそのように体験されなければ意味がないということになります。クライアント、被援助者にそれが「保護」の意味合いとして体験されないとすれば、私たちは単にクライアントに制限だけを押し付けているというように見えてしまうだろうと思います。その場合、私たちはクライアントに何も望ましいものを与えていないに等しいのです。
 ここに時間設定に関するもう一つの要因が出てきます。クライアントに多少なりともその時間は「守られている」というように体験してもらえるためには、ある程度の時間尺度を必要とするのです。
5分や10分でさっさと終えられた場合、「守られた」という感覚よりは「切り捨てられた」といった感覚を体験する人も多いだろうと思います。病院の短時間の診療で頭にくる人もおられるかと思いますが、それはきっと、自分が軽くあしらわれたとか、簡単に片づけられたとか、そういう感情に基づいているのではないかと私は思うのです。
 こうした意味では、60分というのは妥当な時間だと思うのです。それよりあまり長すぎても短すぎても望ましくないと考えています。もし、その時間が短すぎれば、上述の三分間診療のように、クライアントは十分に安心を体験することなく終わってしまうでしょう。長過ぎれば、クライアントは日常に戻ることに困難を覚えてしまうでしょう。私はそのどちらも援助的ではないと考えます。
 60分あれば、その間に少なくとも一度くらいは、クライアントは「守り」を体験するだろうと思います。それは安心感などの感情で体験するものです。「気がついたら、もう終わりの時間なんですね」と言うクライアントもありますが、そういう感じを覚えるのもそこで「守り」を体験しているからなのです。また、60分は日常に戻ることが困難になるほどの長時間というわけでもありません。だから60分がちょうどいいのです。

(26―5)「守り」とはクライアントに体験されているものである
「守り」とはどういうことなのか、それを具体的に提示せよと求められると、私は答えに窮するのです。この「守り」は、いくら援助者が提供しようとしても、クライアント個人に体験されているものであり、また、それは形のあるものではなく、そのために取り出して提示することのできるような性質のものではないからなのです。
 私がこうした「守り」を提供しようと欲していても、クライアントがそれを体験しているかどうかは分からないのです。ただ、クライアントがそういう「守り」を、たとえ意識していなくても、少しでも体験しているのであれば、クライアントには安心感が生じているはずであります。その時間、自分が守られているということを体験できるに従って、クライアントはその場において安全感を体験するようになっており、その場に留まることが苦痛ではなくなっていくのです。こうした安全感を体験していくに従って、クライアントは徐々に自分の心の内にあるものを語れるようになるものです。
 この時に語られるものとは、誰にも言えずにいたことであったり、ずっと心に重くのしかかっていた感情であったりするのです。長年にわたってその人を苦しめてきた感情や体験が語られるようになるのです。次項において、私はそのような一例を提示するつもりでいます。

(26―6)「守り」と安全欠如感
「守り」というのは、クライアントにそこが安心できる時間と空間であるということが体験されているということです。初回の面接からそのような体験をするクライアントもあれば、数回、数十回の面接を重ねてようやく体験し始めるというクライアントもあります。クライアントにより、そこには差異があるものです。
 肝心な点は、クライアントに「守り」が体験されない限り、専門家はあまり物を言わない方がいいということです。私は特にそのことを痛感するようになりました。
 その場で「守り」が経験できていないクライアントにとっては、私の語りかける言葉はすべて「攻撃」であるかのように体験されてしまうのです。私のその時の言葉が間違っていたという場合もあるでしょうし、逆にその言葉がその場に相応しくても、あるいは正しいことを語っている言葉であっても、クライアントは被虐的に受け取ってしまうのです。もちろん、私は攻撃したわけではないのです。その場での、その人の安全欠如感がそのように体験させてしまうのです。そうした事態はできるだけ避けたいと私は願うようになりました。
 そのような安全欠如感に苦しむ人ほど、「守り」が必要なのです。安全欠如感のために、他者とは安心して会うことが困難となっており、味方の中に迫害者を見出してしまうことも繰り返していたりするのです。
 逆説的なことを再び述べますが、「守り」を人一倍必要とする人ほど、「守り」を体験していくことに困難が伴うのですが、そうした人こそ「守り」を体験していかなければならず、それ以外の行為や処置(助言や身体的接触など)をその人にしてはいけないのです。私はそのように考えております。

(文責:寺戸順司)