<テーマ7>DVについて~概説

<テーマ7>DVについて~概説

(7―1)阻みあう関係
(7―2)「被害者」と「加害者」
(7―3)因果関係を追及することの誤謬
(7―4)「加害者」もまた悩み傷ついてきた人間である
(7―5)どこまでをDV問題と見做すか
(7―6)DVはある種の関係のパターンである
(7―7)「被害者」には見ることが苦しい何かがある
(7―8)本項の要点


(7―1)阻みあう関係
 人は恋をして、相手と恋愛関係を築いたり、結婚して相手と共に愛情生活を営むことができます。そうした経験は、お互いを成長させていき、その人の世界を広げ、お互いに協力と相互扶助の感情を育て、共同で生活や世界を構築且つ創造し、当事者たちの中に主体性を生み出していく、そういった成長の経験をもたらしてくれます。相手と関係を築くということは、双方にとって自己拡張の経験になるものです。
 しかし、結婚しても、あるいは恋人同士になっても、このような自己拡張の経験に至らず、むしろお互いの成長・成熟を阻みあう関係を築いてしまう人たちも、不幸なことに、たくさんおられるのです。
 このページでは夫婦に関することが主題となります。夫婦関係の問題で、カウンセリングの場において私が経験するのは、離婚とDVに関する問題です。夫婦関係のことで相談したいと言うクライアントは、まず離婚問題かDV問題かのいずれかを持ち寄られるものなのです。時には、その双方を持ち込まれます。
 離婚とDV問題とは、実はそれほど切り離すことができない問題なのですが、このサイトでは便宜上それを別々に考察していくことにします。夫婦関係ということで大きく括っていますが、その下位分類として離婚問題とDV問題という大きな二本柱があるというように捉えていただくと結構です。
 ここではDVに関して考察していきます。本項では、DVに関して、まずは概観していくことにします。

(7―2)「被害者」と「加害者」
 私の所には、夫婦や恋人との関係で悩む人たちも多く訪れます。その半数は、相手からの暴力や暴言で傷ついている人たちです、つまり、DVの「被害者」たちであります。
 男性がDVの「被害者」となっている例もなくはありません。ごくわずかながら、私はそのような男性とお会いしたこともあります。しかし、私の体験した範囲では、DVの「被害者」とはまず女性なのでした。なぜ女性が「被害者」とならなければならないのかということは、とても大きなテーマですので、このテーマに関してはいずれ述べることができればと思います。
 一方、DV「加害者」の男性がカウンセリングを受けに訪れるということは、やはり私の
経験範囲内でのことですが、あまり多くはありません。なぜ「加害者」がカウンセリングを受けに来ないのか、むしろカウンセリングのような作業を避けようとしようとしている人が多かった印象が私にはあるのですが、なぜそのような傾向を「加害者」が有してしまうのかということに関しても、項を改めて考察したいと思います。「加害者」のことも、DV問題においては、とても重要なテーマなので、繰り返し取り上げたいと思います。
(補遺:これはこの項を書いた当時の状況で、平成26年現在では「加害者」側の人の方がより来られています)

 ところで、私は「被害者」「加害者」といった言葉を用いております。これについて説明しておかなければなりません。
 こうした言葉は、あくまでもDVが生じている場面においての両者の立場とか役割を表しているに過ぎないということを強調しておきます。従って、それぞれの言葉には当事者の人格的な要素は一切含まれていないということです。「加害者」は常に加害者として生きているのではなく、「被害者」との関係において「加害者」となるということなのです。
 後々述べていくことになりますが、DVとは暴力の問題なのではなく、関係の問題なのだと私は理解しているのです。だからそこには「加害者」も「被害者」も本当は存在しないのです。行為の方に注目するから、そのような立場上の区別が生じるのです。
しかしながら、DV問題を考えていくに当たっては、両者を区分する必要もあるのです。そこで、これもまた便宜上ですが、その場合にのみ、一方を「加害者」と表し、他方を「被害者」と表記するのです。
 また、私が危惧することの一つに、こうした言葉が偏見を生み出さないかということがあります。偏見につなげないためにも、「被害者」「加害者」というのは、あくまでも記述上、両者を区別するために用いる言葉なのであるということを御理解していただきたく思います。

(7―3)因果関係を追及することの誤謬
 一つ注意しておきたいことがあります。それは「被害者」にも悪い所があるというように私が捉えているというように理解していただきたくないということです。それと同じことが「加害者」にも同様に該当します。
「心の問題」に関しては、誰に原因があるかという議論は不毛な結果になることが多いのです。誰が悪いのかという考えは、特に「心の病」とか「心の問題」にそれを用いてしまうと、どこにも辿り着くことなく、延々に「犯人」探しを続ける結果となるのが常なのです。その視点から眺める限り、私たちは何も得られず、何も変わらないのです。
 何が悪いのか、誰に責任があるのかという考え方に固執するのは、一つには因果関係に囚われすぎているからです。そして、そのような人は原因と結果が一対一で対応するという先入観を持っておられるのだと私は察します。
 人間に関しては、仮に因果関係があるということを承認したとしても、一つの原因と一つの結果が直線的に結びつくことはあり得ないと私は捉えています。
 上記の点は特に押さえておきたいのです。なぜなら、DV問題の場合、「加害者」が暴力を振るうから苦しいのだと安易に因果関係でのみ捉え、「加害者」から離別することでそれでよしと済ませてしまう「被害者」もおられるからです。これは、一面では大切な要素を含んでいるとは言え、「被害者」にとっては本当の意味での解決にはならないのです。
 後々、私は「被害者」の立場にある人がどのような事柄に取り組んでほしいかを述べる予定をしております。そして、「被害者」にも取り組んで欲しいと私が願っているところのものがあると述べたからと言って、そのことが「被害者」にも悪い所があるというような理解をしてほしくないのです

(7―4)「加害者」もまた悩み傷ついてきた人間である
 一方、「加害者」側の人についても、私たちは考えていかなければなりません。単に「加害者が悪い」というだけの観点は、事態を見誤らせるものです。
 もし、「加害者」のことを単に「悪」と私たちがみなすのであれば、それは私たちの思考の未熟さを示すものです。と言うのは、その観点は、私たちの方が対象を「スプリッティング」(分割)してしまっていることになるからです。
 もし「被害者」のことだけを取り扱っているDV専門家がいるとすれば、その人は本当にDVという現象を理解することはないだろうと私は思います。私たちは「被害者」と同じように、「加害者」も理解していかなければならないのです。
 後々、いくつかの事例を提示するつもりでおりますが、私たちは「加害者」という立場を採ることになった人たちもまた、悩み傷ついてきた一人の人間であることを知るでしょう。

(7―5)どこまでをDV問題と見做すか
 ところで、ここで私が述べているDVということについて申し上げておかなければなりません。
 DVを専門的に扱われている相談機関に比べれば、数の上ではそれほど多くないかもしれませんが、私の経験した範囲で述べていくことにしています。
 私がお会いした「被害者」に関しては、大体二割くらいは未婚で、結婚前の人たちでした。後は既婚者で、その内の大部分が既に離婚しているか、離婚寸前の状態にありました。これは、「被害者」がそういう段階に追い込まれて初めて相談機関を探すということと関係があるようです。
 このDV「被害者」たちの中には、はっきりと自分が体験しているものがDVであると認識されている方もおられれば、そういう認識をされていない人も含まれています。当人はDVであるとは認識していないのですが、私から見て、これはDVと呼んでいいと思われる人たちもDV「被害者」として捉えています。
 私がDV「被害者」として述べている人たちの半数近くが、自分の体験をDVとは見做していないようでした。暴力を受けておきながら、それを暴力と認識していないなんて、とても不思議なことであるように思われるかもしれません。こういう現象とも私はしばしば遭遇するのです。なぜ、そういうことが生じるのかということも、いずれ述べていこうと考えております。
 つまり、このページで取り上げるDVは、当人がそれと認識していないケースも含めて考察していく予定をしております。

(7―6)DVはある種の関係パターンである
 DVとして含まれる内容も示しておきます。それは、殴る、蹴るといった身体的な暴力から、暴言をはく、罵るといった言語的な暴力をも含みます。その他、威圧したり、束縛したり、監視したりといった精神的な暴力も含めています。精神的な苦痛に関しては、「被害者」の人格を無視するとか、権利を踏みにじるとか、価値下げするとかいった抽象的な行為も含まれます。そして性的な苦痛ということも見逃してはならないものです。
 そして、特にこれが重要なのですが、そうした行為が継続的に行われているということです。人間関係ではお互いに傷ついたり傷つけられたりということが生じることがあります。もし、長く続いた関係の歴史において、一度や二度、そういう体験をしたとしても、私はそれで即座にDVであるとは見做さないようにしたいのです。もちろん、私の個人的な定義なので、一度でもそういうことがあれば即DVと見做す専門家もおられるでしょう。
 私は、DVというものは特定の行為を指す言葉ではないと捉えています。それはむしろ、二人の人間の間に築かれるある種のパターンであると理解しています。従って、DVがあるかないかという観点ではないということです。DVという現象を生み出す関係を築いているか否かということが、私にとっては問題として重要なのです。そのために、身体的、言語的、精神的、性的暴力を伴わないDVも、私の観点では、あり得るのです。

(7―7)「被害者」には見ることが苦しい何かがある
 私がこれまでお会いしたDV「被害者」のうち、継続的にカウンセリングを受けられたのは七割ほどなのです。それ以外の三割の「被害者」は、一回きりのカウンセリングで終わったのでした。また、継続した方の七割のうち、やはり三割程度が、状態の改善が十分に見られないまま、カウンセリングから離れていきました。
 つまり、私がカウンセリングで関わったDV「被害者」のうち、三割が一回きりで終わり、三割が改善が十分に見られないまま終わり、四割が改善まで達成したということです。
 私のカウンセリングに拙かった点がないとは言いません。私にも反省すべき点が多々あります。それよりも、なぜ援助を求めてきた「被害者」が、継続することなく終えたり、十分に改善する以前に離れてしまうのかを考察し、お伝えする方が意義があると思います。そこには「被害者」が本当に苦痛に思われる何かがあるのです。この点についても私は私の見解を述べる予定をしております。

(7―8)本項の要点
 DV問題についての概観をしてきました。そこには様々なテーマがあります。「被害者」はなぜ「被害者」となるのかということから、その行動の意味、取り組むべきテーマなど、たくさんの事柄について考察していく予定をしております。
 同じように、私たちは「加害者」をも理解し、援助していくことを目指さなければならないのです。「被害者」に取り組むのと同じように、「加害者」にも取り組まなければならないのです。それは「被害者」「加害者」が揃って、DVが成立しているからです。
 DVは、その関係がすでにDVであるという観点から私は見ています。「被害者」の内に在るもの、「加害者」の中に在るものという観点も同じように大切なのですが、両者が築く関係の在り方が特に理解されなければならないことであると捉えています。私にとって、DVとはDV関係なのです。

(文責:寺戸順司)