<テーマ5>愛することと働くこと(1)

<テーマ5>「愛することと働くこと」(1)

(5-1)フロイトの言葉の奥深さ
(5-2)昇華という観点
(5-3)成熟した愛と労働
(5-4)「未熟」という言葉について
(5-5)愛の障害
(5-6)成熟へ方向づけられること


(5-1)フロイトの言葉の奥深さ
 ある時、フロイトは弟子から「健康な大人の条件とはどういうことを言うのか」という質問をされたそうです。フロイトは少し考えた後、「愛することと働くこと」(Lieben und Arbeiten)と答えたそうです。
 深淵な回答を期待していた弟子はこの答えに少しがっかりしたという逸話が残っています。ちなみに、このエピソードはエーリック・フロムが紹介していたように記憶しています。
 しかしながら、フロイトのこの時の返答である「愛することと働くこと」というのは、とても意味深く、そして適格な答えであるように私には思われるのです。
 大人の条件であるとか、健康な人格とはどういうものであるかなど、そういうことを論じた人たちは多くいます。ロジャース、マズロー、オルポートらが有名ですが、フロイトの見解ははるかに簡潔で、明確で、奥深いものだと私は思うのです。
 と言うのは、「心の病」とか「心の問題」と言われる現象は必ずと言っていいほど、愛情生活の領域か労働生活の領域で顕現してくるからなのです。私がお会いしたクライアントたちがカウンセリングを受けることになった「問題」もすべてそのどちらか、もしくは双方に属しているものなのです。
「愛することと働くこと」において、その人の抱えている「問題」が顕現してくるのです。毎日「神経症」の患者さんと接しているからこそ、フロイトはこういう言葉を発することができたのだと私は思うのです。

(5-2)昇華という観点
「愛することと働くこと」、これができているということは、その人が「大人」であるということに留まらず、その人の心が「健康」であるということも意味します。私はそう捉えています。
 しかしながら、ただ愛したり働いたりができているというだけを意味しているのではないということに注目しなければなりません。フロイトの言葉には「昇華」の観点が含まれていることに注意しなければならないのです。この観点を見落とすと、この言葉はまったく違った受け取られ方をするのです。
 つまり、フロイトの言葉の中にある「愛する」や「働く」が性的衝動や攻撃衝動の昇華であることを押さえておく必要があるわけです。性的衝動は適切な愛情に、攻撃衝動は労働へと結実していくのです。
 従って、愛や労働に関して、表に現れた行為を指しているのではなく、個人が有する衝動がそれらのために上手く変容され、利用されていること、そうした衝動が適切な形で昇華されているということが肝心なことなのです。
 だから人は「神経症的」に愛したり働いたりすることもできるのですが、フロイトの述べていることはそのようなものではないということなのです。

(5-3)成熟した愛と労働
 上述の観点を有していないと、次のような反論が生じるのも当然であります。例えば、「愛すると言ったって、いろんな理由や事情のために結婚できない人もあるし、就職難で働きたくても働けない人たちもいるではないか、その人たちは大人になれないのか」といった反論であります。
 結婚しているとか就職しているとかいうことは、その人の外側に関する事象です。フロイトの「愛することと働くこと」というのは、より内的な事柄を指しているのです。そこを混同されるとこの言葉の本質を見落としてしまうと思います。
 だから、もしその人が「大人」であるなら、たとえ結婚はしていないとしても、対象との間できちんとした愛情関係を築くことができるでしょうし、その対象が、配偶者でなくても、自然や動物であれ、構わないのです。その愛情関係において、性の衝動が適切な形に昇華されているかどうかが重要だということなのです。
 働くということに関しても同様のことが言えると思います。その人が「大人」であるなら、強迫的に仕事をしたり、自己喪失したりすることなく仕事をしているでしょう。その労働において、その人は自身の攻撃的な衝動や破壊的なエネルギーを適切な形でうまく活用しているでしょう。
 それが会社勤めでなくても、例えば家事やボランティアであったとしても、その人は一人の個人として働くことができ、その労働を通じて、自身の攻撃衝動を昇華し、自己実現を目指しているでしょう。
 簡潔に述べるなら、本当に成熟した人であれば、成熟した形で愛し、働くことができているでしょうし、未熟な人は未熟な愛し方、働き方しかできないということなのです。

(5-4)「未熟」という言葉について
 今、「未熟」という言葉を使いましたが、この言葉に関しては説明を要するので、本題から外れることになりますが、ここで私の見解を述べておくことにします。
「未熟」と言う時、私の用い方では、未だ熟していない部分を指し、これから熟していく可能性を秘めている部分を意味します。
 私たちは子供時代を経験しているので、誰もが「未熟」な段階を経ているのです。私たちの誰もが未熟だったのです。そして、人間は多面的であり、流動的でもありますので、他の人のことを「君は未熟だ」などと断言することもできないのです。
 臨床家の中にはクライアントに対して「人格が未熟だ」などということを平気で口にできる人もあります。私から見ると、その臨床家は本当にクライアントを見ているのか疑問に思うのです。人格のすべてが未熟な人など存在するとは思えないのです。その人のどこか一部分、それもその臨床家から未熟と見做されている一部分だけを見て、「未熟だ」と言っていることが多いのではないかと思うのです。実際、その人の人格には、未熟な部分もあれば、未熟でない部分もあるはずなのです。
 そして、人間は流動的です。常に変化していく存在です。だから、その人の現在の一瞬間を捉えて、「君は未熟だ」と言うことはできないのです。現在の一瞬に限定した限りにおいて言えることなのです。その部分は、今後成熟していくかもしれないのです。
 人間は常に成熟していくものです。これは終わりがないことなのです。生まれてから死ぬまで、成熟と変容を私たちは重ねていくのです。未熟なものは成熟したものに変容していくか、成熟したものに席を譲っていくのです。その成熟したものはさらに成熟したものへと移行するのです。ユング派心理学でいえば、ヘビが何回も繰り返し脱皮して成長していくことと象徴的には等しい過程なのです。
 従って、「未熟」というのは、固定した概念でもなければ、不動の状態でもないのです。私たちは誰もがそこから人生を始めており、誰もが成熟の過程の只中にあるのです。
 「未熟」という言葉は、キツイ響きが感じられるという人もありますし、傷ついてしまう人もあるのを私は知っています。別にこうした言葉で誰かを傷つけようとか攻撃しようとかいう意図は私にはありません。その点を理解してもらうためには、この言葉を私がどういう意味合いのものとして用いているかということを明示しておく必要があると感じましたので、少し脱線はしましたが、こうして記述している次第なのです。

(5-5)愛の障害
 再び「愛することと働くこと」に戻りましょう。
 本項では主に愛情に関して述べるつもりでいます。私の知人女性が次のような話をしてくれました。
 彼女が若いころ、勤め先の上司に「一万円払うから一緒に寝てくれないか」と誘われたそうです。彼女はその誘いを断りました。また、彼女の知り合いの男性は妻がいるにも関わらず若い愛人を作っていたという話を彼女はしてくれました。そして「男の人って、お金を持つとそういうことをするのかな」と彼女は付け加えました。
 その時は「そうかもね」と彼女に調子を合わせておいたのですが、本当はその男性たちがお金を持っているからそういうことをするのではなくて、成熟していないからそういうことをするのだというのが、私の本音であります。
 一万円で彼女をベッドに誘った男性も、愛人を拵えている男性も、どちらも子供時代の母親との関係を引きずっているのだと思います。彼らのことを知らないので断言はできないのですが、私はそのような印象を受けています。
 彼らは、かつて母親を独占できなかった子供だったのかもしれません。子供時代にできなかったことを、成人してから、経済力を身につけてから達成しようとしているものではないかと思うのです。
 もう少し言い換えるなら、子供時代の願望を断念することもないまま、あるいは別のより成熟した願望に席を譲ることのないまま、年齢を重ねていっているということであり、子供時代の願望に未だに囚われ続けているということになるのかもしれません。
 ある人たちは愛情関係が築けないと訴えますし、別の人たちは愛情関係に没頭しすぎてしまうこともあります。実際、適切な愛情とはどういうものであるかを明確に記すことは難しいと思うのです。
 いろんな形の「問題」があり得るでしょう。DVや離婚に関するページも参照していただければと思います。また、もう一方の労働に関しては、分量の関係上、次項に引き継ぐことにします。

(5-6)成熟へ方向づけられること
 さて、「言っていることは分かるけれど、そういうお前自身はどうなのだ」と、あなたは問いたくなるかもしれません。
 私自身、「愛することと働くこと」、つまり大人になるということは、やはり大きなテーマであります。私は自分がそれほど完成された人間であるとは思いませんし、本当の意味で成熟しているともいえない人間であると、そう自覚しております。
 先述のように、そもそも人間は生まれた時は非常に未熟な存在であります。その後の人生において、成長、発達を成し遂げ、そして徐々に成熟していくものです。そのプロセスというのは、必ずしも青年期に完成するとは言えないのです。四十歳になろうと五十歳になろうと、私たちはこのプロセスを、自分の責任によって、続けていかなければならないと思うのです。
 つまり、私たちは生涯をかけて成熟していく存在であり、完全に成熟することも完成されることもなく人生を終える存在なのかもしれません。従って、重要なことは、その人がどれくらい成熟しているかということよりも、その人の生が成熟の方向に向かっているかどうかということにあるのです。未熟な部分は成熟へと開かれていかなければならないのです。少しでも成熟の方向を進んでいること、それが私たちの一日一日に課せられているテーマなのではないかと、私はそのように考えています。

(文責:寺戸順司)