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うつ病について

「うつ病」について―INDEX
 

<テーマ20> 「うつ」について 
<テーマ32> 気分と感情 
<テーマ33> 「うつ病」と行動 






 

<テーマ20> 「うつ」について

 いつでしたか、「うつ病」による休職や自殺によってもたらされる経済的損失が三兆円ちかくに上がるというのを新聞で読んだことがあります。
 この数字がどのくらいのものなのか、私は経済に疎いので見当もつかないのですが、それに、こうした計算に意味があるのかどうかも分からないのでありますが、とにかく、現在の日本において、「うつ病」は国が無視することができない「病気」となっていることは確かです。
 年間にしてそれだけの経済的損失があるから「うつ病」に取り組まなければならない、国はそれでいいかもしれませんが、私はそのような視点を持っておりません。それが経済的な損失につながるか否かに関係なく、それがその人の生き方に影響しているからこそ、それに取り組む必要があるのです。
 何よりも、「うつ病」とは体験であります。それを体験している当人にとっては、それはとても苦しい体験なのであります。苦しい体験をもたらすからこそ、私たちはそれに取り組む必要があるのです。

 一方、とある書店に行きますと、「うつ病」のコーナーがあったりします。とても多くの関連書が並んでいるのを見まして、社会的な関心の高さというものがこういうところにも表れているなと思ったのを覚えております。
「うつ病」に関する本はたくさん出版されていて、実に様々な立場の人がいろんなことを書いています。専門的な本から、いわゆる「心理読物」の類の本、さらには「うつ病」はこうして治す式のハウ・トゥー本まで様々であります。
 そういう状況ですから、今さら私が述べる必要があるのかとさえ思うのです。それでも私なりに考えたことや体験したことなどを綴っていくつもりでおります。

 私は「うつ病」という言葉をかなり限定して用いるようにします。個人的には「うつ病」「うつ症状」「うつ状態」という三つに分けて見るようにしているのですが、実際にはこうした区別をされることなく「うつ病」と診断されてしまう人たちが多いように思います。
「うつ病」というのは、私は純粋なものに限定しており、精神医学でいうところの「内因性」の「うつ病」を指すものであります。
「うつ状態」というのは「心因性」の「うつ病」に該当するものですが、様々な「反応性のうつ病」も「うつ状態」の範疇で私は捉えています。
「うつ症状」というのは、あまり明確に規定することは困難なのですが、「うつ」が副次的な「症状」としてみられるものを意味します。つまり、その人の抱えている問題、主な問題はもっと別の「診断名」が付けられるべきであるのに、それに伴って「うつ」が見られているという場合、それは「うつ症状」を伴っていると見るわけであります。実際、「統合失調症」にも「強迫性障害」にも「境界性人格障害」にも「うつ」は生じるのでありますが、その場合、「うつ」は副次的な症状とみなすことができますので、「うつ病」とは区別して、それらは「うつ症状」として捉えるように私はしております。
 この三つ、「うつ病」「うつ状態」「うつ症状」には、それぞれの違いもありますし、こちらの接し方や対応の仕方も異なってくるものであります。それを「うつ病」という一語で括ってしまうことは無理があると私は思うのであります。

 先ほど書店の話をしましたが、「『うつ病』はこうして治す」式の本、いわゆるハウ・トゥー本に書かれていることは、実際には「うつ病」にはあまり当てはまらないのではないかという印象を受けています。
 そうした類の本に書かれていることは、むしろ「うつ状態」の人に対してはよく該当しているという感じがしています。
 そうした本の著者が間違っていると私は主張しているのではありません。「うつ病」という言葉の使用に関して問題意識を覚えているのであります。
 私が一番危惧していることの一つは、そうした本から「『うつ病』というのは簡単に治るものだ」という認識をしてしまうことであります。
 
私の多少の経験では、「うつ病」というのはそんなに簡単に扱える「病気」ではないし、一筋縄ではいかないものであります。

 さて、今後、私はこのページに「うつ」のことを述べていくつもりでおります。「うつ病」とはどういう「病気」で、一体その人の何が損なわれていくかということを論じるつもりでおります。また、「うつ病」と「うつ状態」では何が異なっているのかということも述べたいと思います。
「うつ前駆症状」についても書きたいと思っております。最初に述べたように「うつ病」は国が取り組み始めた国民病といった観を呈しているのですが、本当に取り組まなければならないのは「うつ病」よりも「うつ前駆症状」の方であると思うからです。
 さらに、「うつ病」「うつ状態」の人にとっての気分や感情ということ、それらが回復されていくということも述べるつもりでおります。
 また、その人たちがどのような世界に生きているのかということも伝えることができればと思っております。
「うつ病」には自殺の問題が常に伴っています。自殺に関しては「自傷と自殺」ページの項目を読んでいただければと思います。しかし、「うつ病」の人にとって、自殺とはどのような意味合いがあるのか、それによってその人は何を達成しようとしているのかといった問題を取り上げることができればと思います。
 さらに、あまり問われることがないのですが、「うつ病」の人に子供がいる場合、どういう子育てをするか、子供にどういうことをしてしまうかということも、私なりの見解を述べるつもりでおります。
 性格のことも述べなければなりません。「うつ病」には「うつ病」に罹りやすい性格があると言われています。それは「メランコリー親和型性格」とか「執着性格」として概念化されております。そのような性格がどういうもので、どういった経緯で形成されていくかということを述べることができればと思います。
 また、現代の日本社会においては、適応するためにはそのような性格を発達させる必要もありまして、つまり社会に適応していくためにはそれは望ましい性格であると同時に「うつ病」の危険性もあるということであり、このジレンマを私たちはどのようにして克服すればいいのだろうかということも考えてみたいのであります。
 怒りや敵意も取り上げなくてはなりません。「うつ病」「うつ状態」にはそのような感情の問題を常に孕んでいるものであります。

「うつ」に関しては様々なテーマがそこに含まれており、私にどれだけのことが語れるか自分でも分からないし、不安でさえあります。
 しかし、このテーマに関して、興味、感心を持たれている方々、実際に「うつ」を体験されている方々に対して、何らかの一助となれれば幸いに思うのであります。

(文責:寺戸順司)










 

<テーマ32> 気分と感情

「うつ病」というのは一つの「病気」であります。
「病気」であるから、そこには何かしらの損なわれた部分があるわけです。
 では、「うつ病」においては、一体その人の何が損なわれてしまうのかということを、私なりの見解も交えて述べていきたいと思います。

 最初に強調しておかなければならないことは、そこには「うつ病」という人がいるのではなく、「うつ病」と診断された人がいるということであります。
 これは「うつ病」以外の「心の病」についても同じことが言えるのでありますが、この点の区別をしておくことは重要なことだと思います。
 私が「うつ病の人」と記述する場合、それは「うつ病と診断された人」のことを指すものだと理解していただきたいのです。
 それがどのような「病気」であれ、その「病気」はその人の一部分であり、その人の全体を指すものではないということを特に強調しておきたいのです。

 話を戻しまして、「うつ病」と診断された人は、そのように診断されない人と比べて、何が損なわれてしまうのでしょうか。損なわれた部分があるからこそ、それが「病気」として認識されているはずであります。
 まず、「うつ病」というのは、気分の障害であると考えられています。
 それはその通りだと私も思います。でも、決して気分だけが損なわれているのではないと思います。
 私の見解では、他に大きく損なわれているのは、その人の行動であり、アイデンティティであり、感情であります。
 
本項ではその中の感情ということに焦点を当てていくことにします。

 その前に、気分と感情とは何が違うのかということについて私の見解を述べておきましょう。
 これを写真で例えれば、感情とは色彩のことであり、気分とはトーンのことであるというように私は捉えております。
 つまり、色彩とは色のことでありまして、それは「赤」もあれば「青」もありますし、同じ「赤」であっても「濃い赤」もあれば「淡い赤」もあるわけであります。
 トーンというのは、その写真全体の明暗や濃淡のことであります。トーンは、個々の色彩に関係なく、その写真全体を支配するものであります。
 感情は表現することもできます(つまり、それは「赤色だ」とか「青みがかかっている」とかいうように表現できる)が、気分はそのようには表現することができない類のものです。
 気分を表現しようとすると、それは雰囲気や感じとしてしか表現できない(「暗い」とか「寂しい感じ」とかいうような)ものではないかと思います。
 私はそのような見解を持っておりますが、取り敢えずここでは気分と感情というものは、実は別個のものであるという点を押さえておくことにします。

 一般に「うつ病」と言う時、それは気分の方の障害であるとみなされるのであります。ですが、実際は「うつ病」においては、気分と同じように、感情も損なわれているのです。
 この点が「うつ症状」「うつ状態」の人たちと大きく異なるのではないかと私は捉えております。「うつ症状」「うつ状態」にある人たちは、気分は確かに憂うつで沈み込んでいるのですが、感情の方はしっかり生きており、感情表現ができ、私たちはその表現された感情に対して共感し、理解することがもできるのであります。
「うつ病」においては感情の方も大きく損なわれていて、しばしばそれは失われているのです。
 そんなはずはないと言う方もおられるかもしれません。「うつ病」と診断された人が「悲しい」と頻繁に口にする時、その人は「悲しい」という感情を体験しているのではないかと反論される方もおられることでしょう。確かにそれは感情ではあります。
 ただし、「うつ病の人」が「悲しい」という時、何に対して「悲しんで」いるのでしょうか。ここに普通、私たちが「悲しい」という言葉で表現する体験と「うつ病」と診断された人が「悲しい」と言うときの体験にズレがあるのです。「うつ病」と診断された人が「悲しい」と述べる時、しばしば悲しむべき対象を伴っていなかったり、悲しみをもたらすような体験をはっきりとは有していないということが多いのであります。
 何かはっきりした対象がないにもかかわらず、「うつ病の人」は「悲しい」と表現するわけであります。私もやってしまったことがあるのですが、それに対して「一体、何が悲しいのですか?」などと問うことは「うつ病の人」にはまったく意味がないわけなのす。
 前述のように、それは悲しいことがあって、あるいは悲しいことを思い出して、「悲しい」と言っているわけではないからであります。悲しむべき対象が存在しないのに、その対象は何かと問われてしまうことは、「うつ病の人」をけっこう追い詰めてしまうのではないかと思います。
 私自身も反省するところが多いのですが、「うつ病の人」の周囲の人もこの点は注意する必要があると私は考えております。
「うつ病の人」が口にする「悲しい」という言葉に関しては、項を改めて考えていくことにします。ここではとにかく、「うつ病」というものが、気分だけでなく、感情にも大きく影響することを理解していただければと思います。
 感情を喪失していたりすることもよく見られることでありますが、仮に喪失していなくても、「うつ病の人」の感情体験はそうでない人の感情体験とは異なっているということを知っておくことが大切かと思います。

 感情が喪失されているがために、「うつ病」と診断された人は他者に共感したり、感情移入したり、何かに感動したりということが極端になくなっていくのです。
 このこともまた「うつ病」と診断された人には特徴的なことではないかと私は捉えております。
 同じように、この部分は「うつ症状」「うつ状態」の人ではそれほど損なわれていないのです。
 ここで私は一人の「うつ病」と診断された女性を思い出します。この人は作家を志願していて、応募した自作の小説が入選したこともあるくらいの人でした。
 それが「うつ病」になってからは、作品が書けなくなってしまったのです。それでも何とかして書こうとされていました。この気持はとても大事だと思ったので、私は出来上がった作品を読ませて欲しいと頼みました。
 ある時、彼女は新作の短編小説を持ってきてくれました。
 彼女は実力のある人なので、文章もしっかりしているし、ストーリーの組み立て方も上手だなと作品を読んで感じました。
 誤字、脱字が少なからず見られるのは、注意が集中できない状態で執筆したのだから仕方がないことではありました。それでも、なかなか読みごたえのある作品ではありました。
 ただ、どうしても主人公に共感することが今一つできないでいるのでした。何度読み返してみても、私のその印象は変わりませんでした。
 小説の主人公は激しい怒りを抱えながら生きており、その怒りを抑圧しようと苦闘していました。物語の最後でその怒りは激しく噴き出してしまうのです。
 物語は上手に組み立てられているのに、私はどうしてもこの主人公に感情移入することも、同一視することもできないまま読み終わってしまったのでした。
 主人公の怒りは私に触れるものがなく、主人公が怒りを噴き出して爆発してしまっても、どこか他人事のようで、身近に感じられないのでした。
 もう少し細かく述べると、私が読んだ時、主人公は作者の計算とおりに動いている人形といったイメージがあって、生きた人間という感じがしなかったのです。
 おそらく、作者である彼女自身も、この主人公に共感していくことが困難だったのではないかと思います。

 また、感情が喪失ないしは損なわれているために、当然嬉しいとか楽しいといった感情が見られなくなるのはもちろんのこと、好きとか嫌いとか、美味しいとか心地よいといったような感情体験もしなくなっていくのです。
「うつ病」とはそういうものでもあるのです。ただ、気分が落ち込み、塞ぎこむというだけのものではないのであります。
 そして活き活きした感情が損なわれているがために、生命感がどうしても乏しくなってしまうのです。

(文責:寺戸順司)










 

<テーマ33> 「うつ病」と行動

「うつ病」において大きく損なわれるのは、気分と感情だけではなく、その行動もまた損なわれてしまうのです。
 気分や感情が損なわれるから、それに伴って行動も制限されていくという考え方もできるのですが、これはどちらが先であるとかいうことはよく分からないのです。
 ただ、行動ということにも着目していかなければ「うつ病」は正しく理解できないと私は考えております。

 行動が損なわれてしまうというのは、簡潔に述べれば、行動ができなくなってしまうということです。
「うつ病の人」は、以前には当たり前にできていたこと、それも苦もなくやっていたことが、できなくなったと語ります。それも、ある日突然できなくなるという形ではなく、徐々にできなくなっていくという経過を辿ることが多いのです。
 徐々にできなくなるということは相当怖い体験ではないだろうかと私は察します。
 あるクライアントは、初めは一つのこと、あるいはごく一部ができなくなったというように語ります。
 大抵の場合、その時点では単に疲れているだけだとか、明日すればいいと考えて、それをそのままにしておくのです。しかし、次の日もやはりできないのです。しようと思うのだけど、どうしても身体がついてこないという感じがするのです。
 そのうち、できないことが多くなっていくのです。昨日までできたことが、今日はできなくなったという事態が繰り返し生じるのです。
 やろうという気力と実際の行動との間にズレが生じて、気持ばかり焦ってしまいます。それでも、やろうという気力がある間はまだ良かったのですが、やがて、そのような気力すら失せてしまったと述べるクライアントもおられます。
 だいたい、このような経過を辿るものではないかと私は思います。

 私自身は「うつ病」と診断されたことはありません。ただ、性格的には「うつ病」に近いものがあると自分でも思います。このホームページで書かれている私の文章を読めば、この人(私)はうつ病になりやすい人なのだろうなということが分かるかと思います。
 私自身に「うつ病」の性格傾向があるためか、実際に「うつ病の人」と面接していると、その「うつ病」をもらってしまうことがあるのです。「うつ病」の人に感情移入し過ぎたり、同一化してしまうことがあるのです。
 ある「うつ病」女性のクライアントと面接した後、私は帰る前に室内を掃除しておこうと思って、掃除機をかけていたのです。すると、なんだか身体がだるいような、気分が重いような感じがしてなりませんでした。
 一応、掃除機はかけ終わったものの、私は「もう駄目だ」とその場にへたり込んでしまったのです。なんとか最後までとは思ったものの、掃除機のコードを巻きとることができませんでした。それはボタンを一つ押せば、自動的にコードが巻きとられていくのでした。
 だからボタンを一つ押すだけでいいのですが、そのボタンを押すということがどうしても億劫でならなかったのであります。
 私は自分がその女性クライアントの「うつ病」を貰ってしまったこと、あまりにもそのクライアントに感情移入し過ぎて、同一視してしまっていたことをその時悟ったのでした。
 この経験は私にいろいろと有益なことを教えてくれました。私が「うつ病の人」に感情移入しやすいこと、彼らの目線に容易に立ってしまうこと、また、些細なことですが、「うつ病の人」とは一日の最後に会う方がいいということも学んだのでした。
 そして、何よりも、「うつ病の人」がいろんなことができないと述べる時、それがどのような体験であるかということも学んだように思います。

「うつ病」の人が物事をできなくなる時、それはある作業が最後までできないという形で始まるようです。
「うつ病」と診断された人であっても、状態によっては物事に取り掛かることができるのです。しかし、それは大抵の場合、最後まで完遂されないのです。
 始めることはできても、最後までもたないのであります。
 実際、ある専業主婦の「うつ病」でこのようなエピソードがありました。
 その人は、まず洗濯をしようとして始めます。ところが気分が重くなって、それを途中で投げ出す(できなくなる)のであります。
 しばらくすると、今度は掃除をしなければと思います。それも同じように最後までできません。
 またしばらくすると、今度は食器も洗っておかなければと思って取りかかるのですが、それも途中までしかできませんでした。
 そして、中途作業が増えれば増えるほど、彼女は自分が追い詰められていくように感じていたようでした。
「うつ病」の人が何かをする時、しばしばこういう形ですることが多いようです。それで当人は「しようとしている」のだという認識を持たれるのですが、実際には「できない」ということを証明していっているようなものなのです。
 この女性の場合、もし何か家事をするのであれば、一つのことだけをするようにしなければなりませんでした。例えば洗濯なら洗濯だけをして、その他の掃除や洗い物はしないということを決める必要がありました。
 そして、洗濯をするということに決めた場合、それを一日かけてもいいから最後までやり通すということが必要だったのです。そして、最後までやり通したら、いくら余力があったとしても、それ以上はしないという制限も設けなければなりませんでした。それは「うつ病」の「できないパターン」を変える試みだったのです。

 また、「うつ病の人」は、休むように忠告されているにも関わらず、仕事をしたがるのです。そういう人もけっこうおられまして、それなりの役職に就いておられる男性会社員によく見られることであります。
 医者からは何もしてはいけないと言われているのですが、彼の立場上、そういうわけもいかないのだろうということも私は理解できるのです。
 このジレンマは「うつ病」の人が内的に解決しなければならない問題であり、医師は医師の立場から「休め」という忠告を与えるのですが、それが彼の現実とは相容れないものになっているのです。
 思い切って休んだ方が予後が良いというのは確かです。私も「休む」ということを彼に推奨するでしょう。
 しかし、どうしてもそれをしなければならないというのであれば、先述の主婦と同じように、何か一つのことだけに絞って、それ以外のことはしてはいけないということ、時間がかかってもその一つのことだけを完遂させること、それが終われば休養をとるということを守らなければならないのです。
 従って、このような男性の場合、どこで作業を打ち切るかという決断をしなければならないのです。この決断ができないということが、「うつ病」の人が不得手とすることの一つではないかと私は捉えております。

(文責:寺戸順司)










 

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