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カウンセリングの過程

カウンセリングの過程


<テーマ10>クライアントとはどういう人か~その孤立
(10-1)心理的問題の有無・(10-2)深い孤独感・(10-3)分かってもらえなくなること・(10-4)心が「健全」だから苦しむ・(10-5)孤立化の図式・(10-6)孤立からの回復

<テーマ11> クライアントは弱い人か
(11-1)自分を知ってしまうこと・(11-2)弱さはどういう形で現れるか・(11-3)事例~「時間が解決してくれる」・(11-4)人間らしい弱さ・(11-5)事例~自分と剥きあえない前科者・(11-6)クライアントは弱い人か・(11-7)注と補足



 
ラポール・転移・対象恒常性

<テーマ186>ラポール・転移・対象恒常性(1)
(186-1)はじめに・(186-2)信頼関係と「ラポール」の相違・(186-3)N先生との初回面接体験・(186-4)イメージ像の投影・(186-5)馴染みのイメージ像・(186-6)イメージ像を介しての感情的結合・(186-7)本項まとめ
(187―1)心の働き・(187―2)心が働くことと働かないこと・(187―3)活動の連鎖・(187―4)対象とイメージ像の区別・(187―5)私の考える「ラポール」
(199―1)取り入れとイメージの変容・(199―2)自己へのエネルギー備給・(199―3)転移について・(199―4)投影と転移・(199―5)理想的同一化対象
(200―1)「治療」と「洗脳」は紙一重であること・(200―2)破壊と建設・(200―3)なぜ録音するのか・(200―4)愛情と憎悪・(200―5)臨床家の理論と哲学・(200―6)「何も足さない。何も引かない」


 


<テーマ59> 葛藤と決断 





<テーマ59> 葛藤と決断 (約3100字)

 クライアントがカウンセリングを受けるという決断を下す時、一体、どんな思いでいるのでしょうか。
 私がカウンセリングを受けたのは22歳から23歳にかけての時期でした。私は自分があまりにも普通でない体験をしており、おかしい状態にあると認識していました。当時の私は、今では信じられないことですが、このまま異常な体験をしていって、人間社会から脱落していって、将来は精神病院で過ごし、そこで不毛の一生を終えるのだろうと真剣に信じていました。自分の将来がそのように見えてしまっている感じだったのを覚えています。
私のこの信念が覆されることになったのは、ある女性との出会いがきっかけでありました。私は彼女が生きている側の世界に生きなければならないのだと強く思うようになり、健康に(当時の私の言葉で言えば「正常」に)ならなくてはいけないと思うようになったのであります。私には心理療法が必要だと分かっていました。18、19歳頃から心理学を趣味で勉強し始め、その頃にはすでにフロイトやユング、あるいはクレぺリンといった人たちの著作を読んでいました。彼らが専門としていた領域に私は踏み込んでいかなければならないと感じていました。
 踏み込むと言っても、そこにはやはり恐れがありました。私は先に述べた人、私の信念を覆してくれた女性にも相談してみました。彼女の意見では、そういうのは受けない方がいいよというものでした。彼女は心理療法やカウンセリングというものに対して偏見を抱いておられたようでした。私はすごく悩みました。彼女の言うとおりかもしれないとも思いました。というのは、私から見て、彼女はとても信頼できて、彼女の言うことはきっと正しいという感じがあったからであります。それでも私は受けることに決め、彼女にもそれは伝えました。
 さて、受けるとなっても、どこに行けばいいのかがまず分かりませんでした。取りあえず、電話帳を開いてみて、何軒か電話してみました。最終的にあるクリニックに決めたのですが、そこでも私は躊躇してしまったのです。そのクリニックは、私の中では非常に気になる存在にはなっていました。しかし、いざ足を運ぼうと思うと、私は挫けてしまうのであります。
 そうこうするうちに、ある外的な状況が差し迫ってきて、私はもう悠長なことは言っていられないというところまで追い込まれてしまいました。ダメで元々という気持ちで、思い切って予約を取ったのでした。結果的にはそれが良かったのですが、この外的な状況というものがなければ、私はずっと引き伸ばしていたかもしれません。この引き伸ばしは、カウンセリングに対してではなく、私が自分の問題と取り組むことに対しても引き伸ばすことを意味しているのです。

 最初の面接の時のことは今でもよく覚えています。私は非常に落ち着かない気持ちで家を出ました。電車の中でも、気持ちは穏やかではありませんでした。私の抱えている問題が初めて人前に曝け出されることになるだろうとは思っていましたし、私が異常であるということが証明される場になるかもしれないとも思っていました。私にとっては人生を賭けるような思いでした。本当に、そこで私の生死が分かれるというような思いであったのです。
 もちろん、どんな人に会うことになるだろうとか、どんなことを言われるだろうかというような心配もありました。どんな目に遭うかということも怖かったのであります。何度も、このまま引き返そうかと思った瞬間がありました。本当に一か八かの賭けのような思いで、向かいました。結果的に、その日は私の人生が大きく変わった一日になったのですが。

 今、私はカウンセラーの立場としてクライアントと会うという毎日を送っています。クライアントの方々はあまり語ってはくれませんが、私が体験したのと同じような思いで来られる方も少なくないのではないかと思います。カウンセラーはどんな人だろう、私のことをどのように思うだろう、カウンセラーからどんなことを言われるだろう、自分の問題を自分で処理できない人間だとみなされるのではないだろうか、もはや手遅れだと言われるのではないだろうか、親や上司にばれないだろうか等々、様々な不安を抱えて訪れるのではないかと思います。当時と今とではカウンセリングに対しての社会的な認識も違っているとは言え、やはりそのような思いで来られる方もきっとおられるだろうと私は思うのであります。

 クライアントはカウンセリングを受けるということに関して、彼なりの不安や心配を抱えているだろうと思います。しかし、それと同時に、自分の抱えている問題が何とかなるのではないかという期待も抱えているはずであります。そうでなければその人は行動に移すはずがないからであります。
私がそうだったから他の人たちも同じだろうと考えているわけではありませんが、私はどんなクライアントも必ず躊躇し、多少とも逡巡するものだと捉えております。彼らがそうするのは、先に述べたような期待よりも、不安や心配、恐れの感情の方が勝っているためであると私は捉えております。期待の方がもっと生じてこない限り、人はどれだけ状況や状態が悪化したとしても、それを改善しようという動きを見せないものであると私は考えております。あるいは私が経験したように、状況が切羽詰ってからでないと動き出さないのではないかと思います。

 しばしばクライアントは最初の接触の時(それは電話での問い合わせでることがほとんどですが)、カウンセリングを受けようという気持ちと受けたくないという気持ちを同時に示すものであります。「カウンセリングが受けたいけれど、家が遠くて通えない」と言ったような形で、その両方の感情を提示されるのであります。これほど分かりやすくなくて、もっと微妙な形でそれを示される例も多いのですが、肝心な点はカウンセリングを受けるということに対して葛藤を抱えておられる方がほとんどであるということであります。
 このような葛藤が生じるのは、私自身先述のような体験がありますので、理解できるのであります。カウンセリングというのは、自分の問題を伝えなければならない場所であるということは大抵の方が理解しておられますし、そのような作業はきっと楽しいものではなく、苦しいものとなるだろうという予測を立てられている方も大勢いらっしゃるかと思います。期待もあるが、苦しいかもしれないとなると、葛藤が生じるのは当然であります。
 しかし、この葛藤はクライアントの中で解消されなければならないものであります。私が解消してあげるなんてことはできないものなのであります。私ができることは、その人が葛藤を解消できるように何らかの手助けをするだけであります。葛藤を解消するかどうかはその人次第なのであります。
葛藤を解消するということは、つまり決断するということであり、前へ進むということなのであります。カウンセリングを受けよう、もしくは受けないという決断をその人がしなければならないということであります。受けて役に立つか立たないかは別問題であります。仮に役に立たなくても、その人は前へ進んだことにはなるのであります。受けなくても、何かが前へ進むことが必要であります。もっとも良くないのは、そのままズルズルと引き伸ばしてしまうことであります。私が若い頃に経験したように、切羽詰った状態に追い込まれて初めて動き始めるというのは、遅過ぎるのであります。

(文責:寺戸順司)






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