私的な自己回想録1-本文

私的な自己回想録―第1回 平成27年7月31日

 僕は僕自身に目を向ける。僕の思考、感情、そして過去から未来へ。すべてが僕の中にあるものだ。僕の外にそれらを探し求めても、決して得られるものではない。僕自身の中からそれらを見出し、それに触れていく。(1)
 思想家も科学者も宗教家も、さらには芸術家やスポーツ選手であれ、偉大な人たちは皆すぐれた自己探求者だと僕は信じている。天才と凡人の違いは自己への関わり方への違いだと僕は信じている。多くの人がもっと自分自身に触れていくことを僕は願う。カウンセリングを仕事としているのも、それを目指す人たちの手伝いをしたいからであり、処世術を伝授するためではない。(2)
 自分の中にあるものに触れれば、それは意識の統御下に置かれる。そして触れられた部分は心の中で活性化する。自分自身に触れる領域が広い人ほど、人は活性化されていくものである。僕は僕自身のためにそれをする。(3)
 この作業は決して終わりがない。僕が生き続ける限り、永遠に続く。そして生きている限り、僕はそれをしていきたいと願っている。僕は僕自身以外の何物にもなり得ないからである。(4)
 僕は僕自身に触れ、語りなおしていく。この作業を夢とこの回想録の二本柱でやっていくつもりだ。夢は僕の無意識に触れることを助けてくれるだろう。回想録は忘れていた諸々の事柄に再び接点をもたらしてくれるだろうと信じる。(5)
 基本的に、この回想録は週に一回を原則として、一回につき90分から120分とろうと思う。本当は語り、対話することが望ましいのだけれど、一人ではそれもできないことである。ワードで打ち込む手間もかかるので、2時間くらいかけようと思う。週に一回、二時間、自分のために時間を費やすことは大したことではない。(6)
 そして、この2時間、僕は思いつくままに綴っていく。誤字脱字の修正や段落分けはその後でする。とにかく心を自由に漂わせて、思い浮かぶことをそのまま言語化していく。だから必ずしも時間の順序で語られることはないだろう。大切なのは、心の動きである。(7)
 最初のうちは、もしこれを読んでくれる人があればの話だが、その人たちのために詳細な解説を毎回付そうと思う。どんなふうに僕の心が動いていったかを見るのにも役立つだろうし、心が動くということがどういうことであるかを知ってもらうにもいい材料になるのではないかと思う。(8)
 ただ、一つだけ注意しておきたいことがある。お願いと言ってもいい。これだけは分かってもらいたいと心から願うことである。人は決して一人で生きているものではなく、個人の回想には多くの人が関与しているものである。その人たちは現在も生きている。基本的にはその人たちのことには触れないつもりである。あくまでも僕自身を語るつもりであるが、どうしても他の人たちも僕の人生には関係している以上、彼らもここに登場することになる。その際に、是非とも知っておいてもらいたいことは、僕自身は決して彼らを傷つける意図がないということである。傷つく人が現れたとしてもそれは僕の本意ではないのだということを知っておいてほしいと思う。(9)
 また、人の認知や記憶には歪みが生まれるものである。僕は主観的に体験したことを語るけれど、それが客観的な事実から見ると間違っていたとしても、それは僕の責ではないということも述べておきたい。人が語ることができるのは、あくまでもその人の主観的フィルターを通して得た体験であり、場面である。同じ場面にいた人からすると、思い違いとか思われることであっても、その人にとってはそれが真実なのである。(10)
 40歳頃から僕は自分自身を語りなおしたいという止むに止まれぬ欲求に襲われ始めた。その時は、「自己対話編」としてこのサイト上で展開したのであるが、これはどうしても不具合があった。語り手と聞き手とが同一人物であるということの不利点がやたらと目立ってしまったのだ。もちろん利点もあった。それ以上に困った点の方が目についてしまって、結局、うやむやのうちに終えてしまったのだった。(11)
 今回、一応の目標として半年程度、30回くらい継続してできればいいかなと思う。僕は信じている。人間、半年もあればかなり変わるものだと。ただし、その人が真剣にそれに取り組むのであればという条件がつく。(12)
 日々、クライアントたちと面接していて、なかなか分かってもらえないことの一つがそれである。確かに半年で「治る」とは断言できないし、それだけの期間でがらりと変わるということもないかもしれない。でも、半年くらいでかなり良好になっていくことが多い。もちろん真剣に取り組んだ場合の話だ。(13)
 なかなか変わらないとか動きが見えないという時には、どこかにその人の抵抗があるのだ。例えば、自分は変わるはずがないと信じていたり、誰かが自分をどこかに導いてくれるのを待っていて、自分からは決して自分に取り組もうとしなかったり、あるいは、このカウンセラーは信用できるかと試し続けたりするのだ。そんなことをしているうちに時間はどんどん過ぎていく。(14)
 この抵抗に気づき、それを放棄してくれれば、カウンセリングとか心理療法というのはもっと順調に運ぶものなのである。その人自身に望ましい状態が訪れるのも早いのである。(15)
 今日、JRと阪急の駅前で署名運動をしていた。日本を戦争しない国にするための署名運動だった。日本は戦後70年間、戦争をしなかった。一部は正しい。でも、本当に戦争をしていなかっただろうか。武力による戦争こそしていなかったとしても、それ以外の戦争を激しくしてきたのではないだろうか。(16)
 武力による戦争に敗戦し、そして、経済による戦争も同じように敗戦していると感じているのは僕だけだろうか。日本は経済大国を達成したと信じているけれど、それは本当に我々に幸福をもたらしただろうか。そんな思いもする。(17)
 それに、戦争をしなかったと言っても、たかだか70年程度のことだ。それくらいの期間、まったく武力戦争をしなかった時代は過去にあっただろうし、世界を見渡せばそういう例はいくらでも見つかるだろうと思う。(18)
 70年間戦争をしなかったということを誇りと思ってはいけないのだ。そして、この戦争は経済戦争へと引き継がれていっただけだったのではなかっただろうか、戦死者こそ出さなかったが、数えきれないほどの自殺者を70年間に生み出したのではないだろうか。(19)
 憲法9条なんて何の力もないのだ。憲法のおかげで戦争をしなかったと信じている人たちは目覚めるべきなのだ。人間が戦争をしないのは、個々人の健全な自我に依存するのだ。一人一人の自我が健全であれば、社会も健全になってくる。全体が健全になっていくことが、本当の世界平和なのだ。もし、世界平和のために、戦争をしないために何かができるとすれば、自分の心を健全にしていくことなのだ。一人一人がその作業をしていくということに尽きると僕は信じている。(20)
 しかし、人はどうしても生きている間に数多くの憎悪を抱えてしまう。憎悪を抱える側の方はそのきっかけとなった出来事を決して忘れないのだ。憎悪を与えてしまった側は、もしかすると相手がそこまで恨んでいるとは露とも信じていないかもしれない。そんなものだ。恨まれる側は恨みをかった覚えがないと主張するものなのだ。でも、恨む側は決して忘れない。(21)
 僕もやはり恨まれる存在である。僕は僕のことを激しく恨んでいる人たちがいることを知っている。いつかその人たちから殺められるのではないかとさえ思う。恨みを買うようなことを、意図したわけではなくても、僕はしてしまっているのだ。彼らのことはいつまでも僕の心に住み着き、悪夢に誘う。(22)
 そして、僕自身にも、恨んだ人が何人かいた。殺してやりたいほど恨んだ人たちがいた。少なくとも3人はいた。いつかその話もするだろう。僕もまた激しい憎悪に支配されていた時期があったのだ。(23)
 いつしか、この憎悪は薄らいでいった。僕は僕自身の体験から言いたいのだけれど、憎悪は決して消えないのである。これをなくそうとしたり、あるいは発散しようとしてしまう人たちもいる。気持ちは分からないでもないが、それは間違った方向を選択しているのである。憎悪は決してなくならない。ただ、その領域を小さくしていくことができるだけなのだ。(24)
 憎悪の領域を小さくするということは、憎悪以外の領域を広げ、活性化していくということなのだ。そうするとこの憎悪の領域は相対的に小さくなり、憎悪の体験は過去の一時点にきちんと位置付けられていくことなのだ。(25)
 いきなり憎悪の話をするので驚かれるかもしれない。僕は決して穏やかな人間ではないと自分では思っている。表向きは穏やかそうに見られるのだけれど、内には激しいものを秘めているようである。(26)
 実際、そういうことを指摘されたこともある。僕にはそういう二面性があると。だから、周囲の人からすると、僕がどういう人間なのかなかなか掴みどころがないらしい。(27)
 お前は何を考えているか分からんと、よく言われたものだ。覚えている限りでは中学1年の時の担任の先生に言われたのが最初だったのではないだろうか。それから高校時代の部活の顧問にもそういうことを言われたのを覚えている。(28)
 そんな時、僕はむしろホッとする。というのは、何を考えているのか分からんと言われることは、僕にとっては、少なくとも、僕の考えが彼らに筒抜けになっていないということを意味するからである。僕は自分が見透かされていないということを知って安心できるのだ。(29)
 僕のことを、いわゆる、フェミニストだと評した人も何人かいたな。これは大抵女性から言われることだ。それは事実だ。僕は女性は偉大だと信じている。男の方がアカンとさえ思っている。僕は女性が好きであり、尊敬する気持ちもあるのだ。時々、それが言動に現れるのだろう。彼女たちはそれを見て、僕のことをフェミニストだと評したのだと思う。(30)
 寺戸さんは飾らない人ですねと言ってくれた人もいた。カーネギーコースの先生だった。僕はどうしてそう思うのかを彼に尋ねた。彼は僕の腕時計を指さして、そういうところに飾らなさが現れていると言った。僕はちょっと感激した。彼はそこを見ていたのかと。実際、腕時計とか、あまりごちゃごちゃしているのは好きでなく、針と文字盤だけのシンプルなのが僕の好みだった。それは今でも変わらない。(31)
 中学1年の時の教育実習の先生を思い出した。女の先生だったけれど、最後にクラス一人一人の印象を書き残していってくれた。その中で、先生は僕のことを「不思議な子」と言っていた。暗そうでいて面白く、人が見てようと見ていまいときちんとするといったことが綴られていた。(32)
 その教育実習の先生、もう名前も覚えていないけれど、ある時、こんなことがあった。放課後、教室の掃除をする。大抵の場合、男子生徒はさっさとフケるのだけど、僕は当番だったから掃除をしていたのだ。先生は「男子で残っているのは君だけだね」と言った。そう言われて初めて、そのことに気づいた。ただ当番であるという理由で、掃除をしていたのだけれど、先生はそれ以上の意味付けをしていたようだ。(33)
 あと、これはいつも不思議に思っていたのだけれど、僕には兄がいて、本当は次男坊なのだけど、なぜか長男だと見られることが多かった。あまり次男的な性格要素が少ないのだろう。(34)
さらに、長男で下に妹がいると思い込んでいた人も何人かいたな。今、思い出せるのは、カウンセリングを勉強していた仲間の女性だ。彼女ははっきりとそう表明した。きっと、彼女の中で僕に「兄転移」が生じていたのだろうと思う。僕も彼女のことは好きだった。ゲシュタルトセラピーのワークショップで一緒だった時はひどくテンションが上がったものだった。彼女、今、どうしているだろう。幸せになっていてくれたらいいなと思う。(35)
僕のことを「ガーベラの花」のようだと表現した女性もいた。これもあるワークショップで経験したことだ。ああ、あの時、僕はもう少しそれについて詳しく尋ねておけばよかったと思う。一体、僕の何から彼女はガーベラの花を連想したのだろう。(36)
分かってもらえるだろうか。彼女はガーベラの花から受ける何かと同じものを僕から受け取っているのだ。一体、それは何だったのだろう。僕はそれが知りたい。(37)
僕は僕自身のことをもっと知りたいと思う。でも、人はそれを教えてくれない。いや、人から教えてもらうこともできないことなのかもしれない。(38)
僕はしばしばクライアントに僕のことをどう思うか、僕という人間がどのように見えているかを尋ねる。彼らは答えてくれる。優しそうとか、怖いとか、嫌いとか、頼りなさそうとか、いろいろ言ってくれる。もちろん、何を答えてもその人の中にある僕の姿なのだから構わないのである。(39)
僕が僕自身について知りたいと願うことの一つはとても上手く表現できそうにない。例えば、第一印象というものがある。あなたが僕を見れば、あなたの中に僕に関する第一印象が生まれるだろう。しかし、第一印象では遅すぎるのだ。(40)
つまり、こういうことである。僕と会った瞬間、あなたは何かを僕から受け取るのだ。それは第一印象を形成する材料になる。ただ、第一印象というのは、あなたが僕から受け取ったものに、あなた自身のもの、あなたの中にある観念や記憶がそこに混入してしまっているのだ。それらが混入する以前の、純粋に僕から受け取ったものを僕は知りたいと思うのだ。(41)
 あなたが最初に受け取るのは、僕の本質的な部分と言ってもいいだろう。先述のガーベラに例えた人は、彼女にとってガーベラの持つ本質的な部分と同じものを、彼女は僕の中に見ていたのだと思う。だから、一体、それはどんなものだったのか知りたいと願うのだ。(42)
 これと逆のことはよく体験する。山登りをよくしていた頃のことだ。京都の愛宕山には毎月登っていた。ある冬のことだった。頂上近く、愛宕神社の下辺りの道だった。降ってはいなかったけれど、積雪が多く、雪景色が広がっていた。何かが木の節穴に入って行ったのが見えた。僕は少し木に登って、そっと節穴を覗く。(43)
 節穴の中には一匹のリスが忙しなさそうに餌を食べていた。冬の寒い中、小さな穴にただ一匹、生きるために懸命に食んでいる。そこは、たとえ小さな穴であっても、このリスにとっては唯一くつろげる世界であり、一人ぼっちでも懸命に生きようとしている姿が感じられた。(44)
初対面のクライアントと、最初に会った瞬間にこのリスの姿が脳裏を過ぎることがある。そういう人と僕はうまくやっていけるようである。僕はあのリスから受け取ったものと同じようなものをそのクライアントから受け取るのだ。それは瞬時に生じることである。そのクライアントに対する第一印象が形成される直前に僕の中で生じる出来事なのだ。(45)
恐らく、そういうものは言語化できないことなのかもしれない。そう思う。瞬間的に頭をよぎるイメージとか感覚的なものでしか捉えられない種類のものかもしれない。でも、そこにその人の本質が現れるように思う。(46)
ガーベラの花。あの女性は確かに僕の何かを受け取っていて、それを表現してくれていたのだと思う。ただ、彼女自身、それはガーベラの花として表現しようがなかったのかもしれない。(47)
振り返ると、いろんな人が僕に関わり、僕の自己理解のための手掛かりをたくさん与えてくれていたのだなと思う。(48)
ところで、僕は思いつくままにこうして綴っているけれど、読んでくれている人からすれば、何のことやらわからないと言うかもしれない。それも仕方がないことだ。僕にはよく分かっている事柄だけれど、あなたからすれば意味不明だと思われても仕方がないと思う。(49)
本当はこういうことをしたくないのだけれど、簡単に僕自身の経歴を述べておこうと思う。(50)
昭和40年代、僕は寺戸家の二男として生まれた。父は会社員、母は看護婦。僕が生まれた頃はまだ祖母という人が生きていたらしいけれど、僕はまるで覚えていない。(51)
両親が共働きだったので、保育園に通っていた。それから小学校に上がる。小学校3年生までの間に、僕はありとあらゆる「心の病」を呈した。4年生からそうした問題は影をひそめるけれど、それは僕が他のことに取り組み始めたからだ。10歳辺りから、僕は死ということをひどく考えるようになった。(52)
その後、中学、高校と進学する。陸上部に所属する。それから、大学へ入学するけれど、大学時代はとても苦しい時代だった。5年通った挙句、中退したのだ。でも、その時期に経験したことでとても大事なものもある。心理学を勉強し始めたのも、カウンセリングを経験したのもその時期だ。(53)
大学在学中にすでにカウンセリングの学校に通い始めているが、中退後、クリニックに雇ってもらうことができた。このいきさつもいずれ話す時が来るだろう。(54)
クリニックにはおよそ3年間勤めた。バブルが弾け、不景気の波が襲ってくるようになって、僕はリストラされたのだ。もっとも、僕と上司である先生たちとはだいぶん見解や方向性を異にしていたので、それも当然だし、僕も覚悟していたことではあった。(55)
その後、約7年近くアルバイトで食いつないだ時期が来る。その間に、カウンセリングの実習に入り、カウンセラーの適任証を獲得する。教育分析もこの間に経験する。また、大学にも通い始める。大学と言っても放送大学だ。山登りを始めたのもこの間の出来事である。(56)
 最初の大学を中退してから、このアルバイト期間まで、いろんな研修や勉強会にも参加した。カウンセリングから遠ざかっていたけれど、それなりに充実した時期だったようにも思う。(57)
 その後、独立開業したのだ。僕が33歳だった。高槻にて「高槻カウンセリングセンター」を設立して、仕事をするようになった。あれから10年、それが続いている。この10年の間に、放送大学を無事卒業する。これで僕も大卒の経歴を持ったことになる上に、一応心理学関係の学部を卒業したことになる。(58)
 今後、もしかすると、保育園時代、小学校時代、中学校時代、高校時代、最初の大学時代、クリニック時代、アルバイト時代、そして独立して現在に至るまでというように区分することになるかもしれない。(59)
 先ほど、話に出たカーネギーコースやゲシュタルトセラピーのワークショップはクリニック時代に経験したことだ。愛宕山の話はアルバイト時代に属するエピソードである。(60)
 クリニック時代、僕を雇ってくれたN先生がカーネギーの本を推薦してくれたのだ。「人を動かす」を読むようにと勧めてくれた。僕はこれを自分のものにするために、カーネギーコースを受講したのだった。(61)
 このカーネギーコース、僕は中断しなくてはならなかった。これは大阪のクラスと京都のクラスがあったのだけれど、僕は大阪のクラスで応募したのだ。すると、僕は京都に住んでいるのだから京都コースで受講できないかと、向こうから言ってきたのだ。これは地域の問題ではなくて、僕のシフトの関係だったのだ。大阪コースで受講できれば、僕は仕事を休まなくてもよかったのだ。(62)
 N先生に相談すると、そのために休むことも認めてくれた。後ろめたい気持ちはあったものの、京都クラスで受講することにした。これは確か15回くらいのコースだったように記憶している。(63)
 最初のうちは問題なかったのだけれど、カーネギーコースのために休むということに関して、先生方があまりいい顔をしなくなっていった。もう一人の先生、F先生はあからさまに嫌悪を示していた。ある時などは、そっちの方を辞めてくれないかとさえ言ってきた。(64)
 そのうち、カーネギーコースに出ること自体に罪悪感を覚えるようになって、僕はカーネギーの方を辞めたのだ。7回目か8回目までしか行ってないのだ。今でもそれは心残りだ。最後までやり通したかった。(65)
 これもおかしな話で、京都クラスを勧められたことに初めは腹を立てていた。あの時、大阪クラスに行かせてもらえていたらと、そんな思いが強かった。でも、そう思うことは間違いだったのだ。僕が自分の意志を貫徹できなかったことがそもそもの間違いだったのだ。何としてでも大阪クラスで受講するか、先生方の思惑を無視してでも最後まで受講するか、そのどちらもできなかった自分に責があることだったのだ。後になって、それに気づいた。誰をも恨むべき話ではなかったのだ。(66)
 もっとも、今になってみると、先生方の嫌悪感情は、先生方の抱える問題と関連していることかもしれないと、そんな思いもある。N先生はともかくとしても、F先生はあまり僕にはいい感情を持っていなかったようだ。当時、僕が悪いのだという感じがしていたけれど、それは大部分がF先生の問題に属しているのだということが見えてくるようになった。(67)
 誤解のないように申し上げておきたいが、別に僕は責任転嫁するつもりはないのだ。公正に見てみると、僕の抱えている問題だけではなく、先生方の抱えている問題もその場に投げ込まれていたことが見えてきたということである。(68)
 ちなみに、デール・カーネギーの「人を動かす」という本は、それ自体、良い本ではある。人間関係に関して、とても大事なことも書いてあると思う。ただ、この本、自己理解にはあまり資さないものである。(69)
 ウンザリするような経験がある。これは比較的最近のことだ。ある飲み屋で僕はお酒を呑んでいた。一人で静かに飲みたい気分だった。そういう時に限って、隣の席のおじさんに絡まれるのだ。絡まれると言っても、ケンカを売られるわけではない。話しかけてくるのである。僕はそういう気分ではないので、一応受け答えはするけれど、どこか素っ気ないのだ。そのおじさんがカーネギーの本を僕に勧めるのだから面白い。彼はカーネギーの法則を抜き出して、いつも鞄の中に入れているそうだ。折に触れて、その法則を自分に言い聞かせているそうだ。頭が下がる思いがする。でも、「相手があまり関わってほしくなさそうにしている時には、いさぎよく引き下がる」ということはカーネギーの法則にはなかったな。だから彼はそのことを知らないのだと思った。(70)
 普段から一人で仕事をしているのだけれど、それでも一人になりたいと思う時が僕にはある。静かに、自分を体験していたい。そんな時、誰にも邪魔されたくないし、関わってきてほしくないと思う。一人になって、自分の輪郭をしっかり感じ取りたいと、そう思うことがあるのだ。あまりこの感覚は人には分かってもらえないのだけれど。(71)
 カーネギーコースを途中で辞めたことに未練は残っているけれど、最後までやり通しても、あまり意味がなかったかもしれない。ビジネスマンのためのコースといったニュアンスが濃いので、例えば、会議での発言の実習とか、そういうのは当時の僕には無縁だったし、実体験として報告できることがなかった。そう思うと、学んで損はないけれど、僕が得たいと望んでいたこととはかなりズレがあったかもしれない。(72)
 当時、僕は何を望んでいただろうか。まず、人の集まる場にできるだけ顔を出さないといけないと、そんなことを考えていた。一人で閉じこもっていた時期が長すぎたからだ。そして、どこかでN先生たちに認めてもらいたいという気持ちもあったと思う。一人前の人間になりたいとか、普通に人間関係を形成できるようになりたいとか、そんな思いも入り混じっていたように思う。(73)
 人間関係に関して、僕には吃りがあって、それを非常に気にしている。今でも、どもることもあるし、しょっちゅう言葉に詰まる。F先生たちは、それは僕の欠点だと指摘していたように記憶している。いや、僕がそれをとても気にしていたから、何気ない言葉でも指摘されているように受け取ってしまっていたのかもしれない。僕はそれを矯正しようとひどく骨折ったものだった。(74)
 カウンセリングの実習訓練で、クライアント役の仲間に僕はそのことを打ち明けた。僕にはドモリがあって、言葉に詰まるのだと。クライアント役のその人、女性だったけれど、彼女はそのことが全然気にならなかったと言う。むしろ、慎重に言葉を選んでくれているように、あるいは真剣に考えてくれているように体験したと言う。流暢に話されるよりも、はるかに良いものとして彼女は体験してくれたようである。(75)
 そうか、人には違ったふうに見えるのだなと、改めてそう思った。F先生たちはそれをマイナスと捉えていたけれど、それは臨床家目線の話であって、クライアント目線で見ると、必ずしもマイナスにはなっていないのかもしれない。僕はそれを矯正することの方を止めたのだった。(76)

 ここで時間が来たので終了する。

(寺戸順司)