私的な自己回想録1-「夢1テニス参加の夢」

(夢1)「テニス参加の夢」(平成27年7月26日)
 みんなでテニス(だったと思う)をするということで、僕はコートのある会場へと向かっている。途中で一人の女性と一緒になった。お互いに知り合いどうしで、僕は彼女と親しく話しながら歩く。彼女もまたテニスに参加することになっていた。
 枝道があって、彼女に「寮に寄らなくていいの?」と僕は尋ねる。どういうわけか彼女の寮が向こうにあるということを僕は知っていた。彼女は「すべて準備してきたから寄らなくてもいい」と答えた。
 駐車場のような所に出る。すでに人が集まっている。ある男性の車が坂道でスリップしてしまい、何人かが下から車を押し上げていた。僕も手伝った(ように思う)。

(連想と感想)
 土曜日の午前中にテニスをしているサークルがあって、僕は前々から誘われていた。行ってみたい気持ちはあるけれど、土曜日は仕事だから行けないと、誘われるたびにそう断っている。
 昨日(土曜日)に、いっそのこと、午前中はテニスをして汗を流して、仕事は午後からにしようかと考えてしまった。それは要するに、昨日の午前中に来られたクライアントに不満を覚えているということなのだ。これならテニスの方が良かったと、そう思ってしまったのだ。
 そういうことがあったので、テニスに行くという夢につながったのだろう。ただ、夢では実際にはテニスをしていない。集合した時点で終わっている。
 テニスをするということ。僕には一対一の掛け合いのようなイメージがある。それは対話を連想させるものだ。競技であり、対決であり、対話である。僕はそこに参加できていないのだ。
 ただ、参加に向けて動き始めてはいる。この参加には女性が同行している。この女性は現実の誰かということではなく、夢の中に登場する未知の女性である。この女性は参加の準備を整えている。僕の方はどうだかはっきりしない。
 駐車場というのは、車を停める場所であるが、そこから何かを始める場所でもあると思う。車を停めて、何かの活動を開始するものだと思う。それは買い物であれ食事であれ、観光であれ、何だっていいけれど、何かの活動のために車をそこに駐車するわけであるから、それか活動開始の拠点でもあると思う。
 この活動開始の拠点である駐車場で一つのトラブルが起きている。誰かの車が坂道で立ち往生してしまっているのだ。そして何人かの人が車を押し上げようとしていた。夢の中では、僕がそこに着いた時、すでにそういう状況だった。
 活動開始の前にトラブルを解消しなければならないのだ。ただ、それは自分一人(意識的自我)の力でどうこうできるというような類のものではなく、何人もの協力者を必要とするものであるようだ。
 不特定の群衆とか人々というのは常に無意識的な力を表しているように思う。だから、それを始めるには、僕は無意識からの協力をもっと必要としているのかもしれない。

 以上、僕が最初に思い浮かべた解釈である。もう少し、この夢の個々の構成要素に注目してみようと思う。

 テニスをする。これは二人の人間の「打ち合い」であり、僕には対話のイメージがある。実際、テニスの試合で激しいラリーを見ていると、それこそ両者のパーソナリティの衝突といった観がある。

 未知の女性。もしこれが現実に関わりのある女性であれば、その女性に関する観念や感情として理解するが、それが道に女性である場合には、それは漠然とした「女性性」とか「女性像」として理解する方が適している。ユングもそういうことを言っているが、僕は賛成である。まあ、それをアニマと呼ぶかどうかは別としてだけど。
 この「女性性」は僕と同じ目的を有し、同行してくれている。僕にはそれがすごく嬉しい。というのは、時々、僕は自分がひどく「男性原理」に支配されてしまっていることに気づくからだ。カウンセリングの場面でもそれに気づく。後になって、どうしてもっと優しい言葉をあそこでかけてあげられなかったのだろうと、たまらなく後悔する。正直に言おう。僕は男性原理に支配されてしまっている時の自分がイヤなのだ。
 この夢で嬉しかったのは、この女性(女性性)が、僕と同じ目的を有し、同じ所へ到着しようとして僕に同行してくれている部分だった。女性性が自分に伴われているという感じがしている。
 微小な部分だけれど、枝道と寮が登場する。
 枝道は、別れの地点というイメージがある。一方が右へ、他方は左の道に進む。分岐点はそうした別れの地点ではないだろうか。
 もう一つ、枝道は迷いの地点でもある。山道を歩いていると、よくそういう体験をする。枝道にぶつかる。どちらの道が正しいのか分からない。そこでひどく悩むのである。どちらの道を進んでも、先の方で合流しているかもしれないし、まったく別の場所に通じているかもしれない。分からないことが不安になるのである。
 夢の中の枝道でも僕は迷っていたのかもしれない。この枝道は彼女の寮に通じている。
 寮というのは、僕の個人的なイメージでは、非常に印象がよろしくない。外部の者からすると、とてもガードが固くて、迂闊に足を踏み入れることが許されないような聖域といったイメージがある。
 だから、枝道に差し掛かった時、彼女に「寮に寄らなくていいの」と尋ねたのは、どこかで彼女を遠ざけようとする願望だったのかもしれない。つまり、僕と一緒に居ないで、僕の手の届かない所へ行ってくれても良い(行ってくれた方がいい)という感情なのかもしれない。

 彼女は準備ができているから寮に寄らなくてもいいと言う。この女性は準備万端なのである。準備万端の女性に対して準備してきた方がいいのではと僕が言っているわけだ。フロイト流に解釈すれば、これは性行為に関係しているということになるだろう。僕は、頷けなくはないけれど、そうとも思わない。
 でも、その解釈を受け入れるなら、準備の整っている相手に対して、相手が準備が整っていないようだとすることで、僕の男性コンプレクスをごまかしているということになるのだろう。
 男性コンプレクス云々は抜きにしても、確かにそうした合理化をすることが僕にはあると思う。クライアントにある解釈を伝えようとする。その時、クライアントの方にこの解釈を受け入れる準備ができているだろうかということをひどく気にする。本当は、僕が「対決」を避けてしまっているだけなのかもしれない。

 駐車場。僕は車を運転しないので、あまり縁がない場所である。それでも駐車場に車が停まって、下りる時にはちょっとした解放感を覚える。そして、前述のように、何かの活動が開始される。僕にとって、それは世界が変わる瞬間なのだ。駐車場とは、僕にとってはということだけれど、そういう意味合いがある。
 子供の頃は、駐車場は遊び場だった。時代が大らかだったのか、あまりそれで叱られたことはなかった。今、駐車場で遊ぶ子供たちを見ることがない。駐車場で遊んではいけないとは言え、子供たちも窮屈なんじゃないかなと思うことがある。

 立ち往生した車をみんなで押し上げる。現実にそういった体験をしたことがある。僕が高校生の頃だった。路上で(しかも坂道だった)自動車が溝にはまり込んで動けなくなっていた。僕たちは力を合わせて、溝にはまり込んだ後輪を持ち上げた。運転手さんはとても助かったという顔をされていたのを覚えている。
 夢のその場面は、僕の高校時代の経験、あるいはその時期の感情と関連しているのかもしれない。

(寺戸順司)