旧サイト版<夢の旅―22>

<夢の旅―番外編2>夢についての考察

(1)夢を見ながら夢と分かっている現象
(2)夢の結末を変えることができる人
(3)見たい夢を見ることができるという人
(4)現実に体験した光景をそのまま夢に見るということ



(1) 夢を見ながら夢と分かっている現象
 これはどういうことかと言いますと、夢を見ながら、それが夢であると自覚できているという現象であります。私は一度もこういう経験をしたことがありません。起きてから、初めて今まで見ていたのが夢だったと分かるのです。夢を見ている最中にそれが夢であると分かるなんて、私には特別な能力のように思われました。
 しかし、いろんな人の夢を聞いていくと、そのような経験をしたことがあるという人が案外多いので、私は驚きました。どうして彼らは夢を見ながら、同時にそれが夢であると分かるのだろうと疑問を抱きました。
 私なりの考えですが、このような現象は、特に夢見手にとって怖い夢を見ている時に起きることが多いようであり、この恐怖感と関係があるのではないかと思います。
 このことを映画に喩えて考えてみたいと思います。私たちが映画を楽しむ時、それは映画であると分かっているけれども、映画の世界、映像の世界に入り込んでしまうと、そのことは意識しなくなっているのではないでしょうか。そして、映画を一つの現実のように体験しているのではないでしょうか。夢中になると、映画が終わって初めて映画を観ていたということを思い出すことが、私の場合はですが、よくあります。そういう時、私は映画を観ていながら、それを一つの現実として体験していたのであります。そこまで、私は映画の世界に入り込んでいたことに気づかされるのであります。
 ところが、そのように入り込めない映画というものがあります。私の場合、そして多くの人も共感してくれるかと思うのですが、それはホラー映画であります。興味本位で怖い映画を見に行くと、映画を観ながら、私は「これは映画なんだ。あのモンスターは作り物なんだ」と必死に自分に言い聞かせている自分に気づくのであります。映画の世界があまりにも怖いので、とても入り込むことができず、「これは作られた映画なんだ」と分かろうとしているのであります。
 夢を見ながら、それが夢であると分かるというのも同じような心理ではないかと私は考えるのであります。その夢が、夢を見る人にとってあまりにも恐ろしいので、その中に入っていくことができなくなっているのだと思います。
 従って、それが夢であると分かっているということが分かる以上に、その夢の内容をとても恐れているのだということが分かる事の方が、ずっと有益ではないかと思います。従って、その夢は、その人の耐える限界を超えているということになるのであります。

(2) 夢の結末を変えることができる人
 これも私には驚きだったのですが、夢の結末を意図的に変更することができるという人もあります。
 しかし、この現象には矛盾を感じるのでもあります。なぜなら、結末を変えようとするなら、その人は夢を見ながらにして、結末があらかじめ分かっていなければならないからであります。結末がどうなるかを前もって知っているから、結末を変えたと分かることが可能になると思うのであります。
 ところで、夢の結末をあらかじめ知っているなんてことが本当にあるのでしょうか。私は疑問であります。例えば、追いかけられている夢を見るとしましょう。その先は崖っぷちになっており、これ以上逃げられないとなる。しかし、だからと言って、この結末がどうなるかということは予測できないと思います。土壇場で追手が諦めるかもしれないし、うまく隠れることができて追手をやりすごすかもしれない。崖から落ちたとしても、下には網が張ってあって助かるかもしれない。どのような結末が待ち受けているかということは、一概には言えないのであります。夢の場合は特にそうであります。
 せっかく心が夢を通して私たちに伝えてくれているものを、意図的に変えてしまうのは、私には愚かな行為のように思われてならないのであります。どのような結末であっても、夢で見た通りの結末を受け入れる方が有益でありますし、不都合な結末を受け入れることができる人の方が、結末を変えてしまう人よりも、強いと言えるかもしれません。

(3) 見たい夢を見ることができるという人
 これは夢の内容を自分で選ぶことができるというような現象であります。こういう夢を見たいなと思ったら、実際にそのような夢を見ることができると言うのであります。
 私の経験では、これはある程度までは誰でもできるのではないかと思います。しばしば、眠りに就く前にしていた行為が夢に出てくるということを私は経験します。寝る直前まで仕事をしていると、夢の中でも仕事をしているということがあります。楽しい夢を見たいのであれば、寝る前に楽しいことをしたり思い描いたりすれば、楽しい夢を見る可能性はあるでしょう。ただし、その楽しいということの内容は異なるかもしれませんが。
 しかしながら、ここで取り上げる現象は、その程度のものではなくて、これこれに関しての夢が見たいと思えば、まさにピンポイントでその夢が見れると述べる人たちのことであります。これは一つの能力かもしれませんが、私の考えでは、無用な能力であります。
 以前テレビ番組で見たのですが、それはインド仏教だったかチベット仏教だったか忘れましたが、修業を積むと、心をコントロールし、夢もコントロールできるという境地に達することができるというのです。厳しい修業を積んだ人たちが達する境地においては、そのすべてが素晴らしいとは限らないと私は思いました。中には、到達した境地においても、愚かしいことがあるものだと思いました。心や夢をコントロールすることよりも、心や夢の自然な動きをありのまま見ることができる方が素晴らしいのではないかと、私は個人的に考えるのであります。
 この、見たい夢をみることができるという人は、先述の結末を変えようとする人も含めて、どこか夢をコントロールしようとしているところがあるかと思います。コントロールするとは、自分の支配下に置くということであり、自分の思い通りにすることにつながると私は思います。
 それが夢であれ、自分の心であれ、自分自身であれ、他人であれ、そのすべてをコントロールしようと考えるのは、幼児的な万能感によるものと私は捉えております。成熟した人は、全てをコントロールしようとは望まないものであります。思い通りにいかない事柄に対しても耐えることができ、それを受容することもできるのであります。そして、対象を完全にコントロールしようと企てることは、その対象がその人に脅威を与えているからに他ならないと思います。
 私の考えはともかくとしても、夢は夢としてそのままの姿で見ることができる方が望ましいのではないかと思います。せっかく、心が夢を通して伝えてくれる事柄に対して、加工してしまうのは、私にはなんとも勿体ないように思うのであります。

(4) 現実に体験した光景をそのまま夢に見るということ
 夢が分かりにくいのは、フロイトによれば、心が加工してしまうからだということになります。もちろん、ここでは極端に簡略化して述べております。夢の基になっているのは、現実の体験であるのですが、心がそれに対して加工を加えるので、その光景をそのまま見るのではなく、いわば歪曲された姿で見ることになるのであります。
 ところが、現実に経験した場面をそっくりそのまま夢で見るという人もあります。それも、常にそうというわけではなく、ある時に経験した、ある特定の体験を繰り返し見るということが多いようです。
 これは外傷夢と呼ばれるものであり、外傷体験をそのまま夢で見るのであります。私もこれまで二人ほど、そのような夢を見るという人とお会いしたことがあります。現実に体験したことをそのまま夢で見てしまうというのは、心が加工できていないということでありまして、その体験が心の処理能力を超えているとみなすことができます。
 このような夢は見るのが苦しいということはよく理解できることであります。当人は見たくないと思っているものを見せつけられ、二度と体験したくないようなことを強制的に再体験させられているようなものですから、その苦しみは相当なものでありましょう。睡眠自体が恐怖をもたらす体験となり、できれば眠らずに目を覚ましているか、前後不覚になるくらいにまで薬を服用して眠るかしなければならなくなるかもしれません。
 当然、このような夢は見たくないと考えるのが普通であります。それでも、私は敢えて言うのですが、たとえ外傷夢であっても、見た方がいいと勧めたいのであります。
 例えばレイプされた女性が、それ以来レイプされている現場を夢で見ることになったとします。しかし、大抵の場合、夢はレイプされている場面から始まりません。暗い夜道を一人で歩いているという場面から夢が始まるものであります。つまり、外傷体験の直前の場面から夢が始まっていることが多いものであります。なぜ、その体験に至るまでの、いわば前段階の部分から夢を見なければいけないのでしょう。いきなりその場面から夢が始まっても構わないはずであります。
 それは、外傷夢においては、その外傷体験を常に「やり直す」という意味合いが含まれているからであると思われます。現実には失敗したことだけど、夢においては、今度こそ失敗しないように「やり直し」ていると考えることができるのであります。
 このことを理解するのはそれほど難しいことではありません。私たちが、例えば問題を解いている時や何かを作っている時などに、困難に直面し、前に進めないというような場合、私たちはその前段階に戻って、もしくは最初からやり直すということをしているものであります。壁にぶつかった時に、強行突破するのではなく、その前の段階に戻ってやり直すということを当たり前にようにしているものであります。前段階に戻ってやり直すということは、困難を克服するための一つの方法なのであります。
 外傷夢においても、やはりやり直しているわけであります。それはその体験を克服すようとする試みとして理解することができるのであります。
 もし、その人の心がその外傷体験を処理し始めると、夢は少しずつ形を変えてくるでしょう。例えば、夢の中でレイプされている時に遠くで人の声が聞こえるという変化が起きるでしょうし、手の届く所に呼び鈴の紐が出てくるかもしれません。そうした少しの変化でも見られるということは、心がその体験を処理し始めているということの証拠なのであります。
 また、現実の場面を夢でそのままの形で見てしまうということは、今述べたような「やり直し」という意味合いだけではなく、それを「確かに経験したことである」と知らせようとしているという意味合いもあると私は思います。
 自分の何かを否認すればするほど、夢ではそれが現れてくるという印象を私は受けるのであります。例えば、離婚して独身になった男性が、夢では以前の夫婦生活を送っているとします。その夫婦生活は、彼が確かに経験したことであり、同時に独身になった現在の自分を否認すればするほど、その夢を見てしまうことになるのであります。これに近い例を実際に聞いたことがあります。
 レイプされた場面をそのまま夢で見てしまう場合、それはその人が実際に経験したということを夢が知らせてくれるのであります。だから、そのようなことは経験しなかったというように否認すればするほど、夢は反対に「あなたはそれを実際に経験したのだ」と思い知らせるかのように、当人に見せるのであります。逆説的ですが、それを実際に起きたこととして受け入れていくほど、そのような夢は見なくなるか、形を変えていくもののようであります。

(寺戸順司)