<9-7B>見えているものがすべてという誤り

<9-7B>見えているものがすべてという誤り

 親が間違ったことをしてしまったとしても、私たちは誰もその親を責める権利を有さないのです。親も故意に間違うわけではないからです。
 これから、いくつかカウンセリングの現場で私が遭遇した例を挙げていくことにします。説明の要もないのですが、個人が特定されないために、事例にはすべてアレンジが施されています。

 私たちはついつい自分に見えているものが全てだと信じてしまうことがあります。見えてないものがあるということは分かっていても、何が見えていないかに気づくことはとても難しいことではないでしょうか。見えている部分に目を奪われているので、何が見えていないのかさえ気づかずにいることもあるでしょう。見えていない部分に自分では気づかないから、第三者の目というものを私たちは必要とするのです。一つの例を挙げます。

 クライアントは母親でした。息子が無職で引きこもっているという状態でした。母親の話では、息子は昔からそういう傾向があったということでした。学生時代も、不登校とまでは言わないけど、休みがちで、出席日数ぎりぎりのところで卒業したという経歴が子供にはありました。
 かろうじて学校を卒業して、これもかろうじて就職できたのですが、職場でも彼は休みがちになるのでした。これが、やがて休みが多くなり、最終的に辞職してしまい、現在に至っているという経緯でした。
 子供にどういうことが起きるのでしょう。学生時代から続いていたパターンは次のようなものでした。子供はいつものように起床します。朝はそれなりにきちんと起きる日が多かったようです。それで子供は準備をしているのですが、具合が悪くなるそうです。どこがどう具合が悪くなるのかは一定していませんが、多くは「しんどい」ということでした。
 しんどくなって、彼は学校や会社を休むということになるのでした。母親はそれを許容していた自分が悪かったのかもしれないと反省しているようでした。
 そういう朝に子供に何が起きるのだと思いますか、と私は尋ねます。母親は、分からないけど、なぜかしんどくなるそうだ、と答えます。
 しんどくなって何が起きるのでしょうね、と私は母親に尋ねます。母親は子供が休むと答えます。
 この息子に関して、母親は彼がなぜしんどくなるのだろうかといろいろ考えてきた歴史があります。睡眠が足りないのだろうかとか、運動をして体をもう少し鍛えた方がいいのではないだろうかとか、いろいろと考え、実践もしてこられたようでした。そのどれもが彼には上手くいかなかったようでした。
 もう一度、私は彼がしんどくなると彼に何が起きるのでしょうと尋ねてみます。母親は具合が本当に悪くなるようだと答えます。
 このやり取りが続いて、結局、この母親はお怒りになられたのです。それというのも、母親は子供のことをきちんと見守ってきたという自負があったからで、見えていない部分があるのではないかという私の提案はこの自負心をひどく傷つけてしまったようでした。
 ところで、これをお読みのあなたは、上述の母親が何を見落としているか、何が見えていないかがお分かりになられるでしょうか。

 子供の行動を聞いていると、彼は会社、学校に行こうとしています。それが途中からしんどくなるということです。しんどくなるから行けないという因果が成立してしまい、母親はこの因果に囚われているように私には思われるのです。
子供が行けないのはしんどくなるからだ、この前提に立てば、ではなぜしんどくなるのか、しんどくならないためにはどういうことをすればいいかと考えるのは、極めて筋が通っているわけです。
 ところが、この因果は袋小路に陥るのです。これは見えている部分だけで因果を捉えているためであると私は考えています。
 母親はこの子をしっかりと見ています。母親のその言葉に嘘はないと私も思います。ただ、次の点が母親には見えていないのです。
 子供は準備をしているとしんどくなるのです。そして、しんどくなって、今日は休もうと決心する瞬間が子供にあるはずなのです。その瞬間が母親に見えていないのです、おそらく、子供もその瞬間を母親には見せてこなかったのでしょう。
 上述の場面では、母親は子供がなぜしんどくなるのかを問題にしていましたが、私はしんどくなってから休むという決断をする時に子供に何が起きるのかを問題にしているわけでした。その瞬間のことが母親に見えているかどうかを知りたいと思っていましたし、彼がどういう形でその決断をするかも知りたいと思っていました。
 しんどくなって、今日は休もうと決断します。それは、「頑張ったけどもうダメだ」と力尽きる感じであるかもしれませんし、「今日もこれに勝てなかった」という敗北の感じであるかもしれませんし、「もうどうでもいいや」と投げやりになる感じであるかもしれません。その時に子供に何が起きているのかが分からないと、対策も立てられないでしょう。

 私も不登校の経験を持っているのですが、私の経験から言えば、子供がその決断をする時、子供はひどく孤立しているということが言えるのです。その瞬間、子供には誰もいなくなるのです。自分が誰からも見放されたように経験してしまうのです。もちろん、この事例の子供がそういう体験をしていたとは断言できないことですが、可能性としてはあり得ることかもしれません。
 この時、子供が求めるのは、「しんどかったら休んでいいよ」と言ってくれる親ではなく、「しんどくても行きなさい」と言う親でもないのです。自分はこういう決断を今まさにしようとしているのだけど、本当にこの決断でいいのかどうか分からない、だからそこに付き添ってくれる人が欲しいのです。決断してからの話ではなく、まさにその決断を下そうとする瞬間に、子供は親を求めているのかもしれません。事例のこの子供は他者を必要とする瞬間に孤立してしまっているのかもしれないのです。
 もし、そうであるとすれば、彼は他者を必要とする肝心な瞬間で孤立してしまい、彼をしてそうさせてしまう関係が成立しているかもしれません。
 このように視点が広がると、問題が再定義されることになります。「子供はしんどくなって休む」という問題が、「子供は彼にとって大事な決断をする時に孤立してしまう」という問題へとその定義が変わるのです。何が問題であるかが変わってくれば、それに対する考えや対処にも違いが生まれてくるものです。そして、こうした変化が事態を動かしていくのです。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)