<9-2A>親カウンセリング~私の原体験

<9-2A> 親カウンセリング~私の原体験

 ここで私の個人的な体験を回想することをお許し願いたいのです。親カウンセリングに関して、私の原体験といえる経験を綴ろうと思うのです。私の経験に興味がないという方は飛ばしていただいても結構です。私は私のためにこの体験を振り返っておこうと思う次第なのです。

 私が20代半ば頃のことでした。当時、私は某クリニックにて勤めていました。その時に経験したことです。
 ある時、子供のことで何とかしたいとおっしゃる母親からの電話を私は受けました。一応、本人が来れるようであれば来てほしいと私はお伝えしました。母親ももう一度子供を説得してみるとお答えになられたのでした。ここまでは問題はありませんでした。
 もし、子供が来れない場合にはどうしたらよいかということを母親が訴えたので、その場合は母親だけでも相談に来られたらどうでしょうかと私は提案したのでした。
 この母子を受け持つのはF先生という女性の臨床家でした。私の記憶に違いがなければ、私はF先生にこういう母親からの予約を受け付けましたという報告をしたと思います。それでF先生も納得されたというか、了解されたような記憶があるのです。
 さて、予約当日のことです。そこに現れたのは母親一人でした。それを見たF先生は母親に向かって「子供さんは?」と尋ねます。母親は子供を誘ったけど来なかったと答えます。すると、F先生は怒って「本人が来ないと意味がない」と言い放ちます。
 母親は困ったような顔をします。それで私の方を見て、「でも、こちらの方が母親だけでも来られたらどうでしょうかと薦めたから」と弁解します。F先生は今度は私の方をキッと見下して「この人は素人だから」と、さらに言い放ったのでした。結局、本人がいないのなら仕方がないといった感じで、F先生は母親と一緒に面接室に入ったのでした。
 私は何も言えずにその場に留まりました。内心では激しい怒りの感情に駆られていました。私が侮辱されるのには耐えられるけど、せっかく来てくれたクライアントの顔をつぶすようなことをしたF先生に対しては許せない思いがしていました。

 確かに、私にも落ち度はありました。母親からの電話を受けた時に、子供が来れない場合はどうすればいいかという疑問に対して、私は独断したことになるのですから。そこは、一旦、先生に相談してみて、折り返しこちらからお電話しますと答えた方が、おそらくは正しいのでしょう。
 でも、母親が来るということはカウンセリングでは普通にあることだと私は知っていましたし、本人が来なければ意味がないとは私は信じていませんでした。それに、親だけが来ても、どんな場面でも先生方は上手くやられるだろうなどと、当時はどこか先生方を理想化していた部分もありました。後日、当時の私のカウンセラーだったH先生にもこの話をしてみると、H先生も私の判断が正しかったと請合ってくれました。本人が来れなくて母親だけが来談するというケースは普通にあることなのに、F先生って変わってるわね、H先生はそのように言っていたのを私は覚えています。

 私が思うに、母親は子供の問題だと言いますが、それは母親から見てということであります。そこで、もし、本人が来ないのなら意味がないと臨床家が言うとすれば、その臨床家は母親と同じ視点を有し、最初から母親の方の味方をしているということになります。
 現実には、子供に症状が見られているとしても、それが本当に子供の問題であるかどうかははっきりしないことも多いように私は思うのです。少なくとも、誰に問題があるかということを特定することも、証明することも、かなり困難なことではないかと私は思うのです。
F先生にはF先生の考え方もあったことでしょうが、母親に対しても、子供に対しても、できるだけ中立的である方が望ましいと私は考えています。

 その後、こうして開業してやっていくと、確かにF先生のように言いたくなる瞬間があるということも私は経験しました。直接本人に聞かない限りどうにも考えようがないと思われる瞬間を体験するのです。こういう時、F先生の方が正しかったのかなとも思えてくるのです。
 いや、そう思えてくるのは私が何か間違っているのだ、と自分の間違いを簡単には認めないという悪いクセを有する私はそのように考えるのでした。そして、本人が来ないと意味がないと思える時には、私はもはや母親を見ていないのだという気がしてきたのです。そんな時には、母親と一緒になって問題視されている子供を眺めている自分に気づいてしまうのです。いつしか目の前の人から目を背けている自分に気づくのです。
 子供のことを話題にしていても、クライアントは目の前に座っている母親なのです。その基本のところを私が見失っているのです。それに気づくと、私にはF先生のやっていることがよく分かるようになりました。それは、目の前にいる人の無視なのです。
 母親の目の前で「本人が来ないと意味がない」と言い切ったり、困っている母親を前にして「この人は素人だから」と私を侮辱することで母親の困惑をすり替えたり、それができるのは目の前にいる人間を無視しているからなのです。それはおそらくF先生自身の問題なのでしょう。母親の無視をF先生はしていたのだと今の私は思うのです。より正確に言えば、F先生は母親と向き合えないのであり、それはF先生の個人的な問題であり、クライアントである母親や私には直接関係のないことなのだと、今ではそのように思うのです。

 目の前にいるクライアントに焦点を当てていくこと、このカウンセリングの基本に立ち返ると、親とのカウンセリングに抵抗感がなくなっていきました。
 私は子育ての経験をしていません。親とのカウンセリングで私にはそれが負い目でした。経験がないから机上の空論を振り回すだけになるのではないかと思っていましたし、経験がないために、時には気負いすぎたり、時には軽はずみなことを言ってしまったりしたこともありました。親とのカウンセリングは、私には負担の大きい仕事であるように思われていました。
 カウンセリングの基本に立ち返ると、親が来ようと子供が来ようと、同じ態度で接すればいいということが分かるようになってきました。そして、そうなるとクライアントに動きが生まれるということも見えてきました。この動きに関しては次項で取り上げることにするのですが、これは本当に動きが生じるのです。
 もし、目の前にいる親を無視して、子供にだけ焦点を当て続けると、必ず袋小路に陥るということも私は経験しており、よく分かっています。その状態では、事態は何も進展しないのです。親とカウンセラーが、持ち札を使い果たして、ただ消耗するだけなのです。
 そう言えば、あの時の母親もF先生のカウンセリングを一回だけ受けて、それで終わったのではなかったかな。まあ、あれじゃあ母親も来れなくなるでしょう。仮に継続したとしても、いずれは袋小路にぶつかっていたことでしょう。結果的に、あの母親にとってはその方が良かったのかもしれない、そう思うことも今の私にはあります。
 親とのカウンセリングでは、クライアントは親であって、子供ではないのです。子供のことも視野に入れているとは言え、中心となるのは親なのです。親とのカウンセリングでは、子供ではなく、親を支持し、援助することが私の務めであると信じています。極端な話、子供が生きていけなくても、親が生きていけるようになれば、このカウンセリングは成功なのです。こうした点は後々詳述することになるでしょう。

 さて、本項では私の経験を綴ってきました。これを綴ることは私にとっては意味があると信じています。
 もし、私がこの原体験、F先生の一件のことを意識していなかったら、私は無意識のうちにF先生が間違っていたこと、そして、私が正しかったことを証明しようとしてしまうでしょう。私はその動機一つに基づいてこれを書くようになるでしょう。私は親とのカウンセリングについて書きながらも、F先生への報復をどこかでやってしまうでしょうし、自分でもそれに気づかないという事態になると思います。私は私の目的のためだけにこれを書くようになるでしょう。
 そのようにならないためにも、もう一度この原体験を見直し、常に意識するつもりで本項を書いて残しておく次第です。いつでも原体験に戻ることができるように、私はここに書いて残しておくことにしたのでした。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)