<8-3-3>自由の代償(3)

<8-3-3>自由の代償(3)

(女性の自由)
 男は外で働き、女は家庭を守る、こういう伝統的な夫婦像があります。動物の世界では、つがいを形成する種においてはそうであります。メスは子供を守り育て、オスがエサを調達するのです。動物の世界がそうであるように、人間の世界もそうであると私は単純に信じているのですが、一方で、例えばマーガレット・ミードの文化人類学調査で明らかになったように、男女の役割は社会によって決定される部分もあることも私は認めております。
 ところで、男は外で稼ぎ、女は家を守るという伝統的夫婦の在り方は、単に人間が動物の延長であるからというわけではなく、そこにはそれなりの根拠とか理由があるのです。
 例えば、フランスの歴史家であるミシュレは『愛』の中でそのような夫婦を描写しています。女は一か月のうち三週間は不調のまま生きている、これは要するに生理のことでありますが、そのため女は外で働くのには不向きであるというのです。ざっくばらんに言うと、女はすべて病人であるから働かせてはいけないという理屈なのです。だから夫が妻の分も稼がなければならないのです。女を働かせてはいけないから、夫は二人分稼ぎなさいということであります。男からすると不公平に見えるかもしれないけど、賢い妻は夫の稼ぎに倍の価値を持たせることができるのです。従って、夫は二人分稼げるようになること、妻は夫の稼ぎの価値を倍にできるように賢くなることが求められるのです。そのようなことをミシュレは述べているのです。
 ミシュレの考えを見ると、女性を大事にしようという意識が伺われるのです。女性は生まれながらにして「病人」である(ミシュレの理屈はこれを根底に持っている)から、過酷な労働をさせてはいけない、女性はもっと大切にしなければならないというわけなので、非常にヒューマニズムでもあります。この理屈の根底の部分の賛否は別にしても、あまり男女差別しているようにも私には見えないのであります。19世紀のフランス人たちはこういう考え方を共有していたのかもしれません。

 時代が下がって20世紀になると、女性たちの意識が変わってくるのでしょうか、「病人」と見做されることに反対したくなるのでしょうか、「病人」のように大切にされているという実感が得られないという気持ちに襲われるのでしょうか、妻たちの不満が高まってくるのです。少なくともミシュレには男女差別を助長する意図はなかったと思うのですが、そのような夫婦の在り方に男女差別を見出し、こうした差別をなくそうという運動が始まります。女性解放運動であります。
 女性解放運動、つまりウーマンリブ運動は1960年代ころから加熱していきます。日本でも少し遅れてそれに関した運動が展開されたりもしました。ボーヴォワールなどはかなりこの運動を牽引した人で、「男と女は生殖器以外に違いはない」という名言まで発した人でした。余談だけれど、なぜこれが名言と思うかも述べておきましょう。男と女とは性器が違うだけであとはすべて一緒だと言っているわけですが、この認識がもっと浸透していれば、LBGTに含まれる人たちのように、今頃もっと生きやすくなっていたであろう人たちがたくさんいたであろうと思われるからであります。
 それはさておき、夫婦の話に戻りましょう。では、ウーマンリブ以前の夫婦とはどんなものだったのでしょう。
 欧米の話になりますが、結婚すると女は妻として家庭に入ることになります。買い物一つするのでも夫の許可が必要になるわけです(日本はまだ女性に自由があった方だと私は思っています)。「奥さまは魔女」などのホームドラマなんかでもそうした題材が選ばれたりします。妻は毛皮のコートを買いたいと思っている、夫のボーナスがそろそろ出る、妻は一生懸命夫にサービスして夫に媚びを売ったりする、妻があの手この手を駆使して夫に金を出させるところに喜劇があるのだけれど、現実にそういう世界だったのだろうと私は思います。
 妻はそれまでのキャリアを捨てて家庭に入るのです。女が生まれつき「病人」であるなどと、もはや誰も信じていないのにも関わらずです。そこで、妻は夫の社会的成功を望むようになります。それは自分が断念せざるを得なかったことを夫に託すということであります。夫の成功が妻には自分のことのように嬉しいということになるのです。言い換えれば、妻は夫に同一視することによって、自分が断念せざるを得なかった社会進出の夢を実現するわけであります。夫の社会的成功が妻にとっては自分の社会的成功に等しくなるわけであります。

 現代は、まだ完全でもないし満足のいく形ではないとしても、1950年代や60年代に比べると女性の社会進出が促進されています。女性が社会進出して社会でキャリアを積めるようになると、かつてのように妻は夫に託す必要がなくなってくると私は思います。夫に同一視することによって実現するのではなく、妻が自分でそれを実現できるようになるのでその必要がなくなるわけであります。ざっくばらんに言うと、女性が社会進出の自由を得ることによって、妻が夫にかける期待が激減したのではないか(その分、子供に期待がかけられるようになる)と、そのようにも思うのであります。それは、妻にとっては、この夫と一緒に暮らす意味が減少してしまうということにつながってしまうのではないかと思うのです。女性の自由にも一長一短があるかもしれず、夫婦の意味が薄れてしまうといった副作用が生まれてしまうかもしれないと私は思うのです。

 私個人は男女平等に賛成しております。女性の社会進出ということも男性と同じように認められなければならないと思っております。こういう望ましいことの代償として、結婚することの意味、夫婦でいることの意味が薄れてしまうことも起こり得ると思うのです。
 20世紀後半は、男女とも生き方が大きく変わっていったと私は感じております。その一世代上の男女とは違った生き方をしているように思います。男性にも自由が増えてきているのと同じように、女性にも自由が認められてきたように思います。それはそれで確かに望ましいことであります。ただ、その自由の代償とも言えるものが現代の夫婦には課せられるようになっているのであります。

 以上、世間とかいった外的拘束力からの自由、宗教的拘束力からの自由、さらには(男性も含めて)女性の自由を取り上げてきました。拘束から自由になった分、私たちは自分たちでしなければならないことも増えてしまったのです。何も考えずにしきたりとか風潮とか世間体とかに従っていればいいという態度はもはや持つことができず、かつて「拘束」が担ってきた事柄も自分たちでこなしていかなければならないのであります。
 今すぐではないにしても、いずれ結婚とか夫婦という制度も見直されてゆき、100年後には結婚とか夫婦といった概念が過去の遺物になっているかもしれないと、そんなことを思うこともあります。結婚すること、夫婦であることの意味が薄くなっていくように思うからであります。
 ただ、現在のところ、結婚という制度が生きており、夫婦という「単位」が認められている以上、現状においてより良い夫婦の在り方を模索していかなければならないのです。私はそのように考えています。
 次項では、ここまでの話をまとめ、本節を締めくくりたいと思います。

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)