<8-3-2>自由の代償(2)

<8-3-2>自由の代償(2)

(宗教からの自由)
 結婚は宗教的な行事でもありました。西洋では教会で結婚式が行われ、日本でも神社などで結婚式が執り行われています。それは現在も変わらないところであります。
 現代の私たちは宗教からも自由です。これは信仰があるとかないとかいうこととは意味が異なるのです。宗教的な拘束からの自由という意味です。例えば、私たちは宗派の違いに関係なく好きな人と結婚できるということであります。また、家が仏教であっても教会で結婚式を挙げることができるのです。宗教からの自由とは、そうした宗派に囚われなくなったという意味であります。それはそれで望ましいことであると私は思います。宗派の違いのために好き合っている二人が引き裂かれるということはほとんど見られなくなったと思います。

 宗教からの自由ということに関しては、また別の難点があります。教会で結婚式を挙げると神父さんを前にして宣誓します。「汝はこの者を妻として一生愛することを誓いますか」などと神父さんが問いかけると、新郎さんはおそらく意味も分からずに「誓います」と答えるのでしょう。新婦さんも同様であります。
 私は経験がないから分からないのですが、神父さんがそう尋ねたらこう答えるという約束事として答えたという人もあるだろうと思います。そして、おそらく、神父さんに向かって答えたことだろうと思います。私の兄の結婚式でも兄がそういう宣誓をしたのですが、コイツはホントにその誓いの意味が分かってるんかいなと思ったものでした。
 神父さんはいわば仲介者のようなもので、本当は新郎新婦は神に誓いを立てているのです。この結婚を神が承認しているわけであります。そして、神に誓いを立てるということがどういうことであるかを本当に分かっている人がどれだけいることだろうか、と私は思います。神の誓いを破るとどういうことになるか分かって宣誓しているのでしょうか。私も旧約聖書なんかで知識として有していても、それがどういうことなのか本当には分かっていないのであります。このことが本当に分かっている人は離婚なんてできないのだと思います。それは神の誓いを破ることになるからであります。
 日本の結婚式でも、誓いの言葉を述べるということはなくとも、神社で行うということは神仏の前で結婚をするということであり、やはり神仏の承認というニュアンスが濃いように私は思うのです。二人の結婚を、当事者や双方の家族が認めたというだけでなく、神仏が認めたということになるのだと思います。
 洋の東西で多少の相違はあるとしても、結婚は、個人の愛でなされるのではなく、神仏が二人を引き合わせ、夫婦として承認するものであったのだと思います。離婚は神仏に反することになるのでタブーとなるわけですが、ここに一つの拘束力が生まれることになります。
 従って、宗教的拘束力が効力を発揮している社会では、離婚は神への背信となるので厳しく忌避されることになります。そして、宗教的な力が集団を規定しているとすれば、つまり同じ信仰を有する者どうしの集団である場合、神への背信はそのまま集団からの脱落を意味することになるでしょう。集団の一員であるためにも離婚は避けなければならないということになるでしょう。
 現代では宗教的な拘束からもかなり自由であります。結婚式で神に誓いを立てていようと、何の罪悪感を抱くこともなく離婚することが可能であります。神が二人を結びつけたのではなく、自分たちの感情で二人が結びついたということであれば、結婚も離婚も感情一つで自由にできるということになるでしょう。言い換えれば、結婚も離婚も世俗化してしまい、主教的な聖性が希薄になっているように思われてくるのです。

 宗教からの自由は、宗派の違いを超えて男女が結婚することを可能にしました。夫は仏教で妻がクリスチャンといった夫婦も私はお会いしたことがあります。そういうことが許されるようになったことは喜ばしいことであると私は思います。その代わり、やはりその自由の代償として、夫婦を結びつける外的拘束力がなくなった分、夫婦でいることの意味が問われなければならなくなり、また、離婚も自由になってしまったという側面が生まれたと思います。
 少し別の観点を述べると、和式の結婚式の時に花嫁が着る衣装があります。あれは死装束であるらしいのです。死んだ人に着せる白い服のことで、お岩さんとかユーレイが身にまとっているあの衣装であります。A家で生まれた娘は婚礼のその日に死を迎えてB家の嫁として生まれます、という意味があるらしいのです。女は結婚によって二度生まれをするわけであります。そのため、離婚して実家に戻るなんてことはできないのです。その娘はもう死んだことになっているからであります。これもまた離婚に対して拘束力を持つものであると思います。

 宗教から自由になる(これは信仰がなくなるとかいう意味ではありません)ことによって、ある部分では夫婦にとって望ましいことが起こり、別の部分では夫婦にとって難しい事柄が生まれてきたように思います。
 これは私の偏見だと言われても致し方ないのですが、例えば、宗教的拘束力がしっかり生きている社会の夫婦を想像してみましょう。
 夫と妻は神の思し召しで一緒になったのであり、夫婦になることを神に誓っています。ここでは夫婦とも相手に関する感情を無視して差し支えないのです。つまり、夫婦生活は神の誓いを守るために営まれるのであり、夫は夫の、妻は妻の務めを果たす、それだけで神の誓いを守っていることになるのです。離婚は神に背く行為なので禁じられているにしても、相手に対する感情を持たなくてもいいのであれば、離婚は起こり得ないのであります。夫婦の愛、男女の愛というものは、神の前では二の次であり、何よりも、神にたてた誓いを守ることの方が大事なのであります。相手が何をしたとかそんなことはどうでもよく、自分が神の意志に従っているかどうかが重要になるわけであります。
 私は上記のような夫婦を思い描いてしまうのですが、このような夫婦の生活は、ある意味で、シンプルなのです。配偶者の目に従うのではなく、神の目に従うのです。配偶者がどんな人間であるかも関係なくなるのではないかと思うのです。その配偶者との生活で、信仰に則った行いをしさえすればいいということになるからであります。

 宗教から自由になると、宗教が決定してくれていたこと、あるいは宗教が肩代わりしてくれていたことも、すべて夫婦は自分たちでやって行かなければならなくなります。やはり、自由の代償があるわけであり、夫婦の困難も増えるのであります。

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)